勇将と名高い立花宗茂が初代柳川藩主となった元和6年(1620)から幕末に至るまで、12代にわたり柳川藩11万石を治めてきた立花家。最後の藩主となった12代藩主・鑑寛は、明治2年(1869)6月の版籍奉還により、他の大名たちとともに領地の支配権を返上しました。新政府は、大名たちを華族に列して知藩事に任命しますが、明治4年(1871)の廃藩置県により知藩事の任を解き、それぞれの国元から東京への移住を命じます。明治維新は、大名たちの暮らしや生き方も大きく変えてしまったのです。
近世大名立花家は戸次道雪を初代と数えるため、宗茂は2代当主、鑑寛は13代当主となります。明治7年(1874)に父・鑑寛から家督を譲られた14代当主・寛治は、明治17年(1884)の華族令により伯爵となりました。そして明治20年(1887)に規則が緩和されると、明治22年(1889)4月に貫属を東京から柳川に変え、生活の場所を柳川に移しました。以後、華族令が廃止される昭和22年(1947)まで、立花家は伯爵として他の華族とともに天皇と国民の間に立ち、柳川の地において激動の時代を歩んできたのです。
今回の展示は、近代の立花家の営みを、農事振興に注目して振り返ります。寛治がはじめた農事振興の精神は、現在も立花家が運営する農園「橘香園」にて伝えられています。今につながる伯爵立花家のあゆみをご覧ください。
[1]立花家14代・寛治、伯爵となる | |
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明治7年(1874)、17歳の寛治は、柳川藩11万石の最後の藩主であった父・鑑寛から家督を譲られ、戸次道雪から数えて14代目の立花家当主となります。明治17年(1884)の華族令により伯爵を授けられた寛治は、2期14年にわたり貴族院議員として議会政治を担うなど、天皇と国民の間に立つ華族の役目を強く自覚し、臣民の模範となるよう努めました。 | |
主な展示作品 | ・立花寛治伯爵肖像画 近代 ・爵記 立花寛治宛 明治17年(1874)7月7日 ほか |
[2]14代寛治伯爵、柳川へかえる | |
廃藩置県により旧大名は東京への移住を命じられ、立花家は下谷(現在の東京都台東区東上野1丁目)の旧上屋敷を縮小して住まいとします。しかし、華族の東京居住政策が緩和されると、14代寛治は本籍地を東京から柳川に移し、明治22年(1889)に柳川へと戻りました。寛治が明治43年(1910)に造営した新しい伯爵邸と松濤園は、現在もその姿を留めています。 | |
主な展示作品 | ・立花伯爵家東京邸周辺地図 近代 ・中寿老白鹿左右蓬莱山水図 川合玉堂筆 近代 ほか |
[3]伯爵立花家と柳川 | |
明治維新後、華族となった旧藩主家は、会社や学校の設立に際して出資するなど、旧藩領の近代化の推進に大きな役割を果たしました。伯爵立花家も、柳川における尋常中学校の存続に尽力し、筑後地方で大きな災害がある度に義捐金を出しています。また、財政の管理をはじめ伯爵立花家の運営は、旧柳川藩士やその子孫によって支えられていました。 | |
主な展示作品 | ・五七桐紋朱漆塗盃 |
[4]伯爵立花家のくらし | |
旧藩領を離れ東京に定住する旧藩主もいましたが、伯爵立花家は柳川に戻り、江戸時代に「奧」屋敷があった地を拠点としました。明治43年(1910)に完成した新邸は、流行を取り入れ、洋館を玄関とし、和館と並列させています。洋館に相応しい洋食器類も揃えられましたが、洋館内に茶道具を飾るなど、武家の家風を残した生活も続けられていたようです。 | |
主な展示作品 | ・染付藤文洋食器 香蘭社製 近代 ほか |
[5]14代寛治伯爵、農事試験場をつくる | |
明治19年(1886)、農事の改良が国益に繋がると考えた寛治は、山門郡中山村(福岡県柳川市)に大規模な農事試験場を築きます。試験場では、国内外から集めた様々な種苗が試され、毎年の交換会で全国の農家へと広められました。国の農業政策が整備されてきた大正9年(1920)、寛治は試験場を「立花家農場」と改め、商品作物の栽培に励むようになりました。 | |
主な展示作品 | ・立花家農事試験場平面図 明治39年(1906)11月版 ・第14回立花家農事試験場柑類品評会一覧 明治37年(1904)12月 ・立花家農事試験場事蹟 明治44年(1911)8月20日発行 ・立花家農場事蹟 大正12年(1923)10月発行 ・第42回大日本農会農産品評会1等賞状 大正4年(1915)1月23日 |
[6]15代鑑徳伯爵、橘香園をひらく | |
昭和4年(1929)に伯爵となった15代鑑徳は、試験場時代から「柑橘類品評会」を開催して蜜柑の品種改良に努めてきた「立花家農場」も受け継ぎました。昭和11年(1936)、鑑徳は日本初の早生種「宮川早生」を普及させるため、上内山(福岡県大牟田市)に「橘香園」を開きます。以来「橘香園」は、鑑徳が築いた石垣の段畑のまま、立花家によって運営が続けられています。 | |
主な展示作品 | ・爵記 立花鑑徳宛 昭和4年(1929)5月2日 ・寄木細工釣具箪笥 立花鑑徳所用 近代 ・立花家上内橘香園昭和十四年度現計表 昭和14年(1939) ほか |