立花家史料館 Tachibana Museum

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特集展示「伯爵立花家のあゆみ-農事振興と橘香園-」

平成25年11月16日(土)〜平成26年2月2日(日) 

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勇将と名高い立花宗茂が初代柳川藩主となった元和6年(1620)から幕末に至るまで、12代にわたり柳川藩11万石を治めてきた立花家。最後の藩主となった12代藩主・鑑寛は、明治2年(1869)6月の版籍奉還により、他の大名たちとともに領地の支配権を返上しました。新政府は、大名たちを華族に列して知藩事に任命しますが、明治4年(1871)の廃藩置県により知藩事の任を解き、それぞれの国元から東京への移住を命じます。明治維新は、大名たちの暮らしや生き方も大きく変えてしまったのです。

近世大名立花家は戸次道雪を初代と数えるため、宗茂は2代当主、鑑寛は13代当主となります。明治7年(1874)に父・鑑寛から家督を譲られた14代当主・寛治は、明治17年(1884)の華族令により伯爵となりました。そして明治20年(1887)に規則が緩和されると、明治22年(1889)4月に貫属を東京から柳川に変え、生活の場所を柳川に移しました。以後、華族令が廃止される昭和22年(1947)まで、立花家は伯爵として他の華族とともに天皇と国民の間に立ち、柳川の地において激動の時代を歩んできたのです。

今回の展示は、近代の立花家の営みを、農事振興に注目して振り返ります。寛治がはじめた農事振興の精神は、現在も立花家が運営する農園「橘香園」にて伝えられています。今につながる伯爵立花家のあゆみをご覧ください。

[1]立花家14代・寛治、伯爵となる
明治7年(1874)、17歳の寛治は、柳川藩11万石の最後の藩主であった父・鑑寛から家督を譲られ、戸次道雪から数えて14代目の立花家当主となります。明治17年(1884)の華族令により伯爵を授けられた寛治は、2期14年にわたり貴族院議員として議会政治を担うなど、天皇と国民の間に立つ華族の役目を強く自覚し、臣民の模範となるよう努めました。
主な展示作品 ・立花寛治伯爵肖像画 近代
・爵記 立花寛治宛 明治17年(1874)7月7日 ほか
[2]14代寛治伯爵、柳川へかえる
廃藩置県により旧大名は東京への移住を命じられ、立花家は下谷(現在の東京都台東区東上野1丁目)の旧上屋敷を縮小して住まいとします。しかし、華族の東京居住政策が緩和されると、14代寛治は本籍地を東京から柳川に移し、明治22年(1889)に柳川へと戻りました。寛治が明治43年(1910)に造営した新しい伯爵邸と松濤園は、現在もその姿を留めています。
主な展示作品 ・立花伯爵家東京邸周辺地図 近代
・中寿老白鹿左右蓬莱山水図 川合玉堂筆 近代 ほか
[3]伯爵立花家と柳川
明治維新後、華族となった旧藩主家は、会社や学校の設立に際して出資するなど、旧藩領の近代化の推進に大きな役割を果たしました。伯爵立花家も、柳川における尋常中学校の存続に尽力し、筑後地方で大きな災害がある度に義捐金を出しています。また、財政の管理をはじめ伯爵立花家の運営は、旧柳川藩士やその子孫によって支えられていました。
主な展示作品

・五七桐紋朱漆塗盃
明治25年(1892)2月25日、14代寛治が筑後国山門郡城内村柳川高等小学校体操場敷地購入費として50円寄附した事を賞して内閣府より下賜される

 ほか
[4]伯爵立花家のくらし
旧藩領を離れ東京に定住する旧藩主もいましたが、伯爵立花家は柳川に戻り、江戸時代に「奧」屋敷があった地を拠点としました。明治43年(1910)に完成した新邸は、流行を取り入れ、洋館を玄関とし、和館と並列させています。洋館に相応しい洋食器類も揃えられましたが、洋館内に茶道具を飾るなど、武家の家風を残した生活も続けられていたようです。
主な展示作品 ・染付藤文洋食器 香蘭社製 近代 ほか
[5]14代寛治伯爵、農事試験場をつくる
明治19年(1886)、農事の改良が国益に繋がると考えた寛治は、山門郡中山村(福岡県柳川市)に大規模な農事試験場を築きます。試験場では、国内外から集めた様々な種苗が試され、毎年の交換会で全国の農家へと広められました。国の農業政策が整備されてきた大正9年(1920)、寛治は試験場を「立花家農場」と改め、商品作物の栽培に励むようになりました。
主な展示作品 ・立花家農事試験場平面図 明治39年(1906)11月版
・第14回立花家農事試験場柑類品評会一覧 明治37年(1904)12月
・立花家農事試験場事蹟 明治44年(1911)8月20日発行
・立花家農場事蹟 大正12年(1923)10月発行
・第42回大日本農会農産品評会1等賞状 大正4年(1915)1月23日
[6]15代鑑徳伯爵、橘香園をひらく
昭和4年(1929)に伯爵となった15代鑑徳は、試験場時代から「柑橘類品評会」を開催して蜜柑の品種改良に努めてきた「立花家農場」も受け継ぎました。昭和11年(1936)、鑑徳は日本初の早生種「宮川早生」を普及させるため、上内山(福岡県大牟田市)に「橘香園」を開きます。以来「橘香園」は、鑑徳が築いた石垣の段畑のまま、立花家によって運営が続けられています。
主な展示作品 ・爵記 立花鑑徳宛 昭和4年(1929)5月2日
・寄木細工釣具箪笥 立花鑑徳所用 近代
・立花家上内橘香園昭和十四年度現計表 昭和14年(1939) ほか

御花 立花財団