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〚館長が語る4〛関ケ原合戦後の立花宗茂

2024/7/1
立花宗茂[1567~1642]

無念の思いを抱えたまま柳川に戻ることになった宗茂ですが、九州上陸の前、同じく九州に向かう島津義弘と日向灘沖で遭遇します。









島津義弘[1535~1619]

島津義弘は関ケ原で敵中を突破して決死の帰国の途上にありました。










宗茂の実父、高橋紹運 ジョウウンは、かつて島津軍に討たれた過去がありますので、宗茂にとって仇とも言える武将ですが、宗茂は過去の遺恨にとらわれることなく、共に助け合うことを約束して帰国を果たしたと伝えられています。







柳川城は東軍についた諸侯に包囲され、鍋島直茂の軍と江上(現在の福岡県久留米市城島町付近)・八院(現在の福岡県三瀦郡大木町・大川市付近)で激しい戦いとなり、立花軍は多くの戦死者をだしました。

しかしながら、徳川家康からの「身上安堵の御朱印状」※1を携えた家臣・丹親次が帰還したことから和睦交渉が進みます。宗茂とは信頼関係のあった加藤清正からの開城要請を受けて柳川城を開城し、領地安堵への期待を残しつつ上洛をするのですが、結果的に改易※2され、筑後一国は、三河岡崎の領主であった田中吉政の治めるところとなったのです。

※1 宗茂が西軍に加わった罪を許すという内容であったと推測されています。
※2 大名としての身分と所領を没収され、浪人となること



加藤清正[1562~1611]

宗茂とその家臣たちは、肥後の加藤清正の客分として高瀬(現在の熊本県玉名市)に仮寓することになり、誾千代は、腹赤ハラカ(現在の熊本県玉名郡長洲町)の屋敷に移りました。









誾千代[1569~1602]

夫・宗茂の大名復帰を強く望んでいたであろう誾千代は、関ケ原合戦からわずか2年後の慶長7年(1602)、熱病のため腹赤の屋敷で死去します。法名は「光照院殿 コウショウインデン 泉誉良清セイヨリョウセイ 大禅定尼 ダイゼンジョウニ」享年35と伝えられます。







誾千代が亡くなった腹赤には墓石があり、その特徴的な形から「ぼたもちさん」と呼ばれています。

熊本県玉名郡長洲町にある誾千代の墓碑
「ぼたもちさん」【長洲町指定文化財】

長洲町の文化財に指定され、周辺の駐車場整備も進んでおりますので、柳川へお越しの折は、少し足を延ばしてお訪ねいただければと思います。


2011.10.19付ブログでは「ぼたもちさん」について 詳しく紹介しています


宗茂自身は少数の家臣とともに再び上洛、徳川家康の許しを待ち続ける苦渋の浪牢生活を送りますが、領国を失った宗茂の大名復帰への望みを託して付き従い続けた家臣達がいたのは驚くべきことです。

浪人中の宗茂は、慶長6年(1601)と翌7年には中江新八、吉田茂武(桃山時代から江戸時代初期にかけての武術家)から日置 ヘキ 流弓術について免許されていますので、厳しい時にあっても武士の本分として武術の鍛錬を怠らなかった姿勢がみえてきます。



そして、慶長11年(1606)、1万石ながら奥州南郷の地(現在の福島県棚倉町付近)の大名として返り咲きを果たすことになり、両度の大坂の陣に出陣します。

宗茂の運命はここから大きく動き出すのです。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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〚館長が語る3〛柳川城主となった立花宗茂

2024/6/1
立花宗茂[1567~1642]

豊臣秀吉にその武功を高く評価され、大友家の家臣から豊臣大名となり、柳川に領知を得た立花宗茂は、妻誾千代を伴って柳川城へ移ることになりました。
天正15年(1587)6月のことです。








間もなく宗茂は、隣国の肥後で勃発した国衆の一揆※討伐に加わります。
宗茂にとって豊臣大名となって初めての戦となったわけですが、そこでの戦功が際立っていたことが秀吉の朱印状に記されています。

※肥後国衆一揆…天正15年、秀吉に肥後を与えられた佐々成政は検知を行うが、それを拒否した隈府城の隈部親永に肥後の国人衆が加担して大規模な一揆に拡大した。秀吉は小早川秀包を総大将とし、筑後、肥前の諸将を討伐に向かわせた。



宗茂はその後、誾千代と共に初の上洛を果たし、若き豊臣大名として大坂と柳川を頻繁に行き来しながら柳川の統治を進めることになります。宗茂22歳のときでした。



そして文禄元年(1592)、秀吉の「唐入り」にあたり、宗茂は小早川隆景を主将とする第六軍配属され朝鮮半島へ渡ります。


小早川隆景 [1533~1597]

隆景は、すでに実父と養父を亡くしていた宗茂にとって第三の父とも言える人物です。
若い宗茂に大きな影響を与えた武将であり、これまでの活躍から宗茂に対して高い信頼を置いていたようです。









その期待に応える働きをした宗茂は加藤清正や島津義弘をはじめとする西国大名と固い信頼関係を築くことになります。








誾千代[1569~1602]

一方、誾千代は柳川城の南にある宮永という地に館を建て、城を出て別居することになりますが、その時期は、文禄4年(1595)と慶長4年(1599)の二つの説があります。









いずれも、2度にわたる宗茂の朝鮮出陣直後のことですので、この大きな戦の間に二人の関係に何かがあったのではないかでしょうか。

資料が残っていないため想像の域は出ませんが、初代道雪の娘であり元城主であった誾千代と、婿でありながら秀吉に見いだされて一大名へ出世を果たした宗茂には、それぞれに強い忠節を抱く家臣がおり、そのバランスの危うさも別居の背景にあったのではないかと考えられています。



豊臣秀吉 [1537~1598]

慶長3年(1598)、豊臣秀吉死去の後に朝鮮から帰国した宗茂は、その1年7か月後に天下分け目と言われる関ケ原合戦において、西軍に加担します。









ここに至る経緯については資料が乏しく不明ですが、島津義弘が遺した文書によると「秀頼様に対したてまつるご忠節のため、御軍役の人衆過上の由」と記されているように、軍役の規定を大きく上回る大軍を派兵したとされ、強い決意をもって西軍に投じたことがわかります。



しかしながら、大津城を攻略していた宗茂の軍は関ケ原合戦の本戦には間に合わず、そのまま敗軍の将として無念の思いを抱きつつ九州へ帰還することになりました。



この戦の後、宗茂の人生は大きな試練の時を迎えることになります。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

大久保ヤマト氏イラストの【 宗茂と誾千代キャラクターズバッジ】 をお手元に





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

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〚館長が語る2〛女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代

2024/5/3

前回は、7歳で立花城主となった誾千代が、13歳の時に2つ年上の宗茂を婿に迎えるまでのお話しをしました。





今回は、宗茂と誾千代の結婚と二人の立花城時代についてお話ししたいと思います。

大友宗麟 [1530~1587]

元亀2年(1571)、大友宗麟の命により立花城主となった戸次道雪ですが、男子がいなかったため、主である大友宗麟は戸次一門のうちからしかるべき男子を養子として「立花城」の家督を譲るように勧めます。









しかし、道雪はこれを聞き入れず、天正3年(1575)数え年わずか7歳の娘・誾千代に立花城主の座を譲ってしまいます。この相続は大友宗麟と義統も認めたため、ここに幼少の女城主が誕生したのです。

天正三年(1575)五月二十八日
戸次道雪譲状写(部分)【重要文化財】





その6年後、誾千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが高橋紹運の長男であった弥七郎 ヤシチロウ 統虎 ムネトラ、のちの立花宗茂でした。
誾千代と宗茂の婚儀は天正9年(1581)8月と言われています。

こうして、立花城主の座は夫となった宗茂に引き継がれたのです。



二人の婚儀の背景には、騒乱の九州にあって衰退する大友家の家臣として北部九州を守る戸次道雪と高橋紹運が堅固な軍事同盟を結ぶという意義があったのではないかと言われています。


その頃、道雪と紹運はともに筑前筑後の各地で反大友勢力との戦の中にありましたが、宗茂と誾千代の結婚からわずか4年後の天正13年(1585)9月、道雪は筑後北野の陣で没し、翌14年(1586)7月末には紹運の護る筑前岩屋城も九州の統一をもくろみ北上する島津軍との戦いで陥落、紹運も戦死します。



二人の父を相次いで亡くした宗茂と誾千代は、その時19歳と17歳という若さでしたが、立花家を率い、立花城を包囲する島津軍との20日間におよぶ決死の籠城を耐え抜きます。




そして、大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の軍が九州に入るという報を受けて島津勢は撤退を開始し、立花城は危機を脱しました。宗茂はこの機を逃さず、島津方にあった高鳥居城を激戦の末落城させ、岩屋・宝満両城も奪回します。

豊臣秀吉 [1537~1598]

この武功に感じ入った秀吉は、黒田如水、安国寺恵瓊等に宛てた書状で宗茂を「九州之一物(九州一秀でた武将)」と激賞しています。









この軍功により、天正15年(1587)立花家は大友家から独立して筑後柳河に新たな領知を与えられ、大名となったのです。

天正十五年(1587)六月二十五日 豊臣秀吉朱印状【重要文化財】


九州の要衝である立花城は、その後小早川隆景が入ることになり、宗茂と誾千代は筑後柳川城へと移りました。


立花家御城印シリーズ 「立花城」「柳川城」はじめました






若き豊臣大名・立花宗茂は戦巧者としてその名を知られるようになるのですが、そのお話は、次話でご紹介いたしましょう。




文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
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〚館長が語る1〛近世大名立花氏の誕生と戸次道雪

2024/4/3

福岡県では、旧柳川藩の城下町であった柳川市をはじめゆかりの市町村とも手を結び、戦国時代の終わりに北部九州で活躍し、初代柳川藩主となる立花宗茂と、その妻であり女城主であった誾千代の物語をNHK大河ドラマとして取り上げていただくための招致活動を行っています。


まずは、皆さまに親しみを抱いていただけるよう、「立花宗茂と誾千代」の物語を6回に分けてお話していきます。



今回は、プロローグとして近世大名立花家誕生までのお話。



戸次道雪[1513~1585]

柳川藩主立花家は、戸次 ベッキ 鑑連 アキツラ 、改め道雪 ドウセツ を初代としています。
ネット上や、歴史本では「立花道雪」と書かれていることが多い戦国武将ですが、史実では生涯戸次姓のまま立花城主の座にあった人物です。






立花宗茂[1567~1642]

道雪は立花姓の使用を主の大友宗麟から許されなかったのですが、道雪の養子となった統虎 ムネトラ (後の宗茂)が、天正10(1582)年、「立花」姓を継ぐことになったのです。









さて、そもそも「立花」姓は、遡る事252年の南北朝時代、立花山に城を築いた城主が名乗ることから始まります。



その人物は豊後の有力守護大名となる大友家の一族、大友貞載 サダトシ で、立花貞載となります。これを、道雪以降の立花家と区別して、前期立花家と呼びます。



近世大名立花家のルーツは、豊後の守護大名大友家に深く関わっています
「立花家」について、より深く知りたい方にオススメ‼

◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー






立花城主であった前期立花家は、7代立花鑑載 アキトシ のとき、大友家に謀反をおこし、敗死します。代わって立花城主となったのが、戸次道雪でした。



誾千代[1569~1602]

道雪には男子がなかったため、一人娘誾千代 ギンチヨ が7歳の時に、城主の座を譲られました。










ここに戦国史上稀な女城主誕生となったわけですが、誾千代が13歳のときに、同じ大友家家臣の高橋紹運 ジョウウン の長男統虎15歳を婿養子に迎えました。


高橋紹運 [1548~1586]

紹運が長男を養子に出すということはそれだけ重い決意があったはずで、衰退する主家大友家を最後まで支え続けた戸次家と高橋家が堅い同盟を結ぶという意義が示された婚姻であったといえるでしょう。








九州の戦国期に勇将として名高い二人の武将、紹運と道雪、二人の薫陶を受けて成長した立花宗茂は頭角を表すことになります。





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

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ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。







文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
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【スタッフに聞きました】大河ドラマ妄想キャスト2021

2022/2/14

柳川藩主立花邸 御花スタッフと立花財団スタッフへのアンケートシリーズ第2弾は

「大河ドラマ妄想キャスト2021」

大河ドラマ「立花宗茂と誾千代」が実現したら、どんなキャストに演じてもらいたいかを、自由に妄想してもらいました。

(2022年でないのは、アンケートをとったのが昨年だったからです。)

それでは早速みていきましょう。
ブログを彩るイラストは大久保ヤマトさんによるものです。
(以下、主に敬称略)

【立花宗茂】

 

 

 

 

 

綾野剛
(理由)アクションできるし、戦いのシーンがかっこよく決まりそうということと、私の中ではほかの武将のイメージや漫画のキャラが定着しているということもなさそうだったので選びました。宗茂は人望に厚く、城主を追われても慕う部下が大勢いたと聞いたので、綾野剛さんのイメージが出てきました。

池松壮亮
(理由)肖像画の丸顔がなので。福岡県出身でおばあちゃん家が大川にある。

坂口健太郎
(理由)朝ドラで『俺達の菅波』と視聴者から人気大!

福士蒼汰
(理由)カッコ良いから可愛いまで演じられそう

藤原竜也
(理由)肖像画の顔が丸いから

田中圭

小関裕太
(理由)高身長で、育ちのよさそうな雰囲気がある。

 

【誾千代】

 

 

 

 

 

土屋太鳳
川口春奈
戸田恵梨香
(理由)立花家のお姫様は「御姫様」というイメージではなくて、運動ができて、ハートが強くて、さっぱりしたところが素敵なイメージが勝手にあるため選びました。イメージする人がいろいろ出てきて選べませんでした・・・・

広瀬すず
(理由)誾千代がキリッとしたイメージで、広瀬すずさんもキリッとしてそうなので。

大久保ヤマトさんも広瀬すずさんに演じていただきたいそうです。

武井咲
(理由)芯がしっかりしてそう

高畑充希
(理由)もしくは八千子でも

橋本愛
(理由)冷たそうで笑顔が可愛い

小松菜奈

清野菜名

浜辺美波

沢尻エリカ
(理由)視聴率とれそう

杉咲花

久保田紗友
(理由)きりっとした顔立ちがいい

 

【戸次道雪】

 

 

 

 

 

大沢たかお
(理由)大きくて強そう

市川海老蔵
(理由)力強そうな目が肖像画と重なるので
(理由)目のインパクトで!!

渡辺謙
(理由)似合いそう

佐藤浩市
(理由)目力がある

 

【高橋紹運】

 

 

 

 

 

役所広司
(理由)大きくて強そう

中井貴一
(理由)中井貴一さんと坂口健太郎さん親子を観てみたい
(理由)個人的に好き

唐沢寿明
(理由)歳はあいませんが、イメージです

鈴木亮平
(理由)鈴木亮平さんが好きなので

竹中直人

 

 

【豊臣秀吉】

 

 

 

 

 

柄本明

 

【加藤清正】

 

 

 

 

 

オダギリジョー

 

【黒田長政】

妻夫木聡
(理由)童顔なので、官兵衛より長政かなぁ

 

【大友宗麟】

 

 

 

 

 

陣内孝則

伊武雅刀

 

【宋雲院】

 

 

 

 

 

小泉今日子

 

【八千子】

 

 

 

 

 

吉岡里帆

今田美桜

 

以上です。

以前、同じように「立花宗茂がドラマ化された場合、どなたに演じてほしいですか」というアンケートをとったことがありました。
2013年4月に「葉室麟 トークライブ」が開催されたときのことです。

そのときの結果はこちらのブログでご覧いただきたいのですが
見比べてみると、いくつかの共通点があることがわかります。

 

①朝ドラの影響力

2013年の宗茂1位に松坂桃李さんがあがっていたのは、前年に放映された「梅ちゃん先生」で人気が爆発していたことからでした。
今回は「おかえりモネ」から、俺たちの菅波がランクイン。

 

②道雪のキャスティングのポイント

ずばり「目力」。

 

③宋雲院のキャスティング

2013年の2021年も小泉今日子さん。
これはもう決まりですね。

 

④柳川にゆかりのある役者さん

陣内孝則さん、妻夫木聡さん、今田美桜さんなど。

 

一方、前回との相違点もいくつか。

①誾千代のキャスティング

誾千代は若くして亡くなったということもあってか、2013年からはだいぶ変化がありました。

 

②ジャニーズがいない

今回はアンケート回答者の範囲が限られていたせいもあると思います。

 

いずれまた、もっと広くみなさんにご回答いただけるような
妄想キャストアンケートを実施する機会を設けたいと思っています。

そのときまでに、みなさんもぜひ、妄想力を全開にして
「立花宗茂と誾千代」大河ドラマのキャストやシナリオを考えておいてください。

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立花家史料館はしばらくお休みです

2020/4/5

前回のブログでは「車でのおでかけは立花家史料館へ」などと言っておりましたが
それからほんの数日で状況がまったく変わってしまいました。

福岡での感染者が急増したこともあり
立花家史料館は4月6日(月)から19日(日)まで
臨時休館することが決まりました。
※追記 臨時休館は5月6日まで延長いたします。
今後も延長の可能性がありますので、おしらせの最新情報をご確認くださいますようお願いいたします。
※5月1日追記 臨時休館は5月31日まで延長いたします。

 

 

 

 

 

 

開館の時期につきましては状況を鑑みて判断しますので、いまのところ未定です。
決まりましたら公式サイトtwitterでおしらせします。

 

休館に伴い、4月10日から始まる予定だった
特集展示「立花家の宝刀と柳川藩ゆかりの刀工」は開始日を延期します。
開始日はいまのところ未定ですが
これまた決まりましたら、公式サイトtwitterでおしらせします。

しばらくお待ちください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏に予定していた、こども企画展「あつまる!アニマル!たまに…オバケ?」は開催を中止し
特集展示「立花家の宝刀と柳川藩ゆかりの刀工」の最終日を9月14日とします。

今年はお休み

 

 

 

 

 

 

 

 

 
もうひとつ大切なおしらせです。
公益財団法人立花財団は4月13日~19日の期間、休業します。
※4月7日追記 休業開始期間を前倒しし、4月8日~19日に変更となりました。
※さらに追記 休業期間は5月6日まで延長しております。

今後も延長の可能性がありますので、おしらせの最新情報をご確認くださいますようお願いいたします。
※5月1日追記 休業期間は5月31日まで延長になりました。
の期間は、電話やメール、郵便等の対応はできません。
休業期間につきましても、さらに延長する可能性があります。

 

では情報を整理します。

  • 立花家史料館の臨時休館
    → 4月6日(月)~5月31日(日) ※延長の可能性あり
  • 公益財団法人立花財団の休業
    → 4月8日(月)~5月31日(日) ※延長の可能性あり
  • 特集展示「立花家の宝刀と柳川藩ゆかりの刀工」
    → 開始日未定~9月14日(月)
  • こども企画展「あつまる!アニマル!たまに…オバケ?」
    → 開催中止

 

最後に、家での時間を充実させるプランのご提案です。

YouTube立花家史料館公式チャンネルを見る

チャンネル登録者数のアップにご協力いただけたら幸いです。
おすすめベスト3はこちら

誾千代ってどんな人?

 

へっちゃらへいたろうシリーズ(全3巻)

 

柳川みのり幼稚園劇 立花宗茂―天に向かって、恥じぬ生き方こそ「立花」

 

Google Arts & Culture で遊ぶ

当館のコレクションを高解像度で見たり
オンライン展示で「名勝立花氏庭園の歴史」や「伯爵令嬢立花文子」の物語を知ったり
いろいろな楽しみ方があります。
さらに世界中の美術館・博物館へweb上で旅することもできます。

 

「立花宗茂と誾千代」が大河ドラマになったら…を妄想する

配役やストーリー展開、ロケ地や撮影セットなどを妄想してみましょう。
予算や年齢、史実等で縛りをかけて現実的に妄想するもよし
すべてを解き放ったあなただけのドリームプランを妄想するもよし。
妄想は自由です。しかも楽しい。

 

それでは、またお会いできるときがきたら
こちらから呼びかけますので
それまでお互い元気にお家で過ごしましょう。

 

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記録頼みで振り返る夏と秋の出来事

2019/11/27

夏の記憶がありません。

はっと気がついたら、寒い季節に突入していました。

 

記憶はありませんが記録はありましたので
今年の夏と秋を駆け足で振り返ります。

 

 

まずは前回のブログで参加者特典だけ紹介した

立花家史料館友の会・公益財団法人立花財団賛助会 会員特典イベント
「旧柳川藩主・立花家のお盆」を特別体験
イベントの内容は次のようなものでした。

立花家の菩提寺である福厳寺に響く独特な黄檗宗のお経

 

 

 

 

 

 

立花家歴代のお墓参り

 

 

 

 

 

 

立花氏庭園に戻り、普段は非公開である立花家の御仏間でお参り

 

 

 

 

 

 

 
総位牌もご覧いただきました。

 

 

 

 

 

そして歴代藩主レクチャー

 

 

 

 

 

 

さらに立花家17代の兄弟3人を囲んだ夕食会

 

 

 

 

 

 

最後は燃えさかる精霊船を花火と共にお見送り

 

 

 

 

 

 

盛りだくさんな夏の午後でした。

 

 

夏から秋にかけての展覧会シーズンには
当館からの資料貸出ラッシュもありました。

これらの他に「博物館 明治村」も

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展覧会シーズンが落ち着いた現在は、返却ラッシュのまっただ中です。

 

 

9月のとある雨の日。
史料館の外に突如大量のカエルが現れピョンコピョンコと大騒ぎ。
主に騒いだのは人間の方でしたが。
翌日には影も形もなくなっていた、あのカエルたちは
いったいどこから現れ、そしてどこに去っていったのか。
まあ大方は史料館横の堀でしょうけれども。

 

 

10月17日は誾千代の命日。
この日にあわせてYouTubeの立花家史料館公式チャンネル
「誾千代ってどんな人」を公開しました。

肖像画や文書などの資料と、これまでに撮りだめていた写真を駆使した動画です。
ラストは神々しくしてみました。
できればこれからもこのような動画を増やしていきたいと思っていますので
みなさまチャンネル登録をぜひともお願いします。

 

 

10月22日、即位礼正殿の儀の様子を見ていた学芸員が
「この風景見たことある」と、突然のデジャヴ発言。
平成のときのことを言ってるのかと思ったら
いやいや、うちの資料の中で見たと。
収蔵品のデータベースを検索してみたところ
大正天皇の御大典図がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは確かにデジャヴを感じる光景。
数千点ある資料の中の一枚(しかもこれまで展示したことはない)を
よくぞ覚えていたもんだと
早速収蔵庫から出してきて、アップで撮影し、twitterに投稿しました。

 

10月26日には第5回九州大名家資料研究会を
侍展開催中(当時)の福岡市博物館で開催しました。

 

 

 

 

 

過去の研究会の様子はこここことをご覧ください。
今年は「実戦期の伝来資料 -勝利への願い」をテーマに
4件の報告がありました
・細川忠興所用黒糸威二枚胴具足のレプリカ製作について
・柳川藩主立花家伝来の軍書と武具-軍書の仕様どおりに作られた武具類-
・戦国武将毛利元就の軍略と祈り-毛利家伝来資料から見た-
・実戦期における甲冑の様式変遷

九州のみならず中国四国地方の研究者も参加され
とても有意義な会になりました。
(その後の懇親会も含めて)

 

木の葉を散らす冷たい風が吹き、松濤園では鴨が群れ遊ぶ季節となりました。
世間は年末に近付きつつありますが、立花財団は12月から新年度となります。

次年度の展示スケジュールはこちらでご覧ください。
刀剣展がいつもとちょっとだけ違うことになりそうです。

 

「記録って大事だな」とは
歴史でご飯を食べている身として常々思っていましたが
今回改めてひしひしと感じたことでした。
これからは記憶喪失に気を付けます。

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特別展における干支別おすすめ作品

2017/12/20

立花宗茂生誕450年にあたる2017年。
記念の年の最後を飾る最大のイベント、特別展「立花宗茂と柳川の武士たち」
柳川古文書館と立花家史料館の2会場で、12月9日から始まりました。

 

今年もあっという間に時が過ぎ、気がつけばもう年末。
そこで全展示作品、2会場合わせて130点余りの中から
干支別のおすすめ作品をご紹介したいと思います。

 

【「子年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第4章 改易 より
「立花宗茂書状」(個人蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

慶長17年(子年)に出された書状です。
肥後加藤家に仕える十時成重が
奥州南郷(棚倉)領主となった宗茂のもとへ
転仕したいと希望するも
加藤忠広の家督相続という大事な時期だから
転仕願いは当分控えなさい、という内容です。

 

【「丑年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第2章 立花山城へ、第3章 柳川城主となる より
「金箔押桃形兜」(立花家史料館蔵)

修復復元

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おなじみ金甲です。
なぜ丑年なのか。
裾黒の後立が、白と黒でなんとなくホルスタイン色かな、と思ったので。

 

【「寅年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「火縄銃 銘 大虎・小虎」(個人蔵)

大虎 部分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝鮮出兵の時に米多比鎮久が虎狩に用いたとされる火縄銃です。
一緒に伝来した「虎の歯」も並べて展示しています。

なお寅年生まれの方には他に
「加藤清正書状」なども併せておすすめいたします。

 

【「卯年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「鉄黒漆塗縹糸素懸威最上胴具足」(個人蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

生形家に伝来した甲冑です。
杏葉部分を見ると、こちらを向いたウサギさん(真向兎)がいます。
全展示の一番最後に登場する甲冑なので
「さよなら、また来てね」と言っているようにも見えます。

 

【「辰年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「鉄黒漆塗桶側二枚胴具足」(個人蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

由布家に伝来した甲冑です。
いかつい龍頭の前立が、こちらを威嚇するように睨みをきかせています。
誰もいない夜中には、金色の羽で飛び回っているかもしれません。

 

【「巳年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第2章 立花山城へ より
「誾千代肖像(写真パネル展示)」(良清寺蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

7歳にして立花山城の女城主となった誾千代は
永禄12年、巳年生まれです。

 

【「午年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「刀 無銘 伝清綱」(個人蔵)

白鞘 部分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後に儒学者となった安東省菴(親善)が
「有馬之役」つまり島原の乱で佩びたことが
白鞘に記されています。
「有馬之役」。
有「馬」之役。

 

【「未年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「鉄黒漆塗碁石頭伊予札紺糸素懸威二枚胴具足」(立花家史料館蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十時家に伝来した甲冑です。
胴に配された鼻紙入(緑色のポケット部分)は、おそらく羊の毛織物製。

 

【「申年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「豊臣秀吉朱印状」(立花家史料館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

宗茂に筑後三郡を与えますよという、豊臣秀吉の朱印状です。
これがなぜ申年なのかは、お察しください。

なお申年生まれの方には他に
豊臣秀吉から拝領した「唐物茶壺(呂宋壺)」なども併せておすすめいたします。
こちらも理由はお察しください。

 

【「酉年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第2章 立花山城へ より
「脇指 無銘(雷切丸)」(立花家史料館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大人気の雷切丸。
戸次道雪が雷を斬るまでは「千鳥」という刀でした。

 

【「戌年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「金白檀塗色々威壺袖」(柳川古文書館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗茂と家臣との仲をものがたる袖として、テレビや新聞で取り上げられた作品。
話題になったおかげで、YAHOO!ニュースの見出しに
「立花宗茂」の文字を見ることができました。
宗茂が小野にこの袖を与えたところ、小田部が袖を献上し云々
の話が記されている道具帳は
安永7年(戌年)に作成されたもの。

 

【「亥年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「軍神掛物」(立花家史料館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗茂が陣中に持参した御守本尊と伝わる資料。
中央の摩利支天が乗っているのは猪です。

 

 

立花宗茂生誕450年記念特別展「立花宗茂と柳川の武士たち」
会場は
第1章~第2章 柳川古文書館
第3章~第6章 立花家史料館
2018年2月4日まで、会期中無休。
今度のお正月休みは柳川でゆっくりとお過ごしください。

そして観覧の際には、それぞれの干支のおすすめ作品に
注目してみるのも楽しいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なお、立花家史料館は通常、展示作品の撮影が可能なのですが
本特別展は借用資料が多いため
写真撮影をご遠慮いただいています。

 

 

 

 

 

 

 
入口付近に撮影スポットを用意しましたので
そちらで存分に撮影した後、展示作品はご自分の目でご堪能ください。

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「歴史秘話ヒストリア」秘話

2012/6/14

「ツンデレ」の文言で物議を醸した、昨夜のNHK「歴史秘話ヒストリア」。
ご覧になりましたでしょうか。

「ヒストリア」でリアルタイム検索しながら視聴したのですが
みなさん賛否両論盛り上がってましたね。
それにしても、HOTワードで「宗茂」・「誾千代」・「立花」が
100位以内に入るなんてことが、いまだかつてあったろうか。

みなさんの感想の中で、「地元なのに誾千代を知らなかった」といったご意見をたびたび見かけました。
これまでは熱狂的なファンがいる一方、名前も知らないという人が大多数であった誾千代です。
しかし!昨夜のヒストリアでついに全国のお茶の間デビューを果たしました。

これは、誾千代お茶の間デビューまでの物語です。

NHKの制作担当者から最初に連絡があったのは、1月半ば(直木賞発表の日)のことでした。
そのときはまだ、番組にできそうかどうかリサーチ中ということでしたので、
こちらも「取り上げてもらえたらいいね」ぐらいの気持ちで資料をお送りしました。

ところがとんとん拍子で話が進み、
2月の初めには担当ディレクターが下調べにいらっしゃいました。

その後何度かの打ち合わせを経て
柳川藩主立花邸 御花内での撮影が行われたのは、3月下旬のことです。

主に撮影を行ったは、松濤館の鶴の間という部屋。
史料館でも、資料の撮影に使うことのある部屋です。

20120614_01

まずは文書史料の撮影から。
資料を寄託している柳川古文書館の学芸員立ち会いの下で行いました。

20120614_02

モニターでチェック中。

ひとつの画を撮るにも、
なぜこのカットが必要なのか、それをどのように使うのか、などを
強面カメラマン(でも、すごくいい人)が強気なディレクターに確認します。

20120614_04

金甲の撮影では、並べる個数や金甲の角度、カメラの高さなど
かなりこだわってみました。

20120614_05

道雪所用の薙刀が、ライトのマジックでキラーンと光っています。
さらにバックには、フェルメールの絵のような光が。
普段私たちが資料撮影する場合は、全体にまんべんなくライトをあてるのが普通ですので
このような撮影の仕方は非常に新鮮でした。

切っ先側にカメラをかまえ、茎から切っ先に向かってきらーんと光らせた、
いかにも武器です!という感じの映像(説明しにくいので、録画した方はそちらでご確認ください)
を撮ったときには、あまりにも面白かったので、
自分のカメラでも同じ映像を撮らせてもらいました。

20120614_03

続いて、室長のインタビューの撮影。
場所は史料室です。
本棚の本の並び(さりげなく『無双の花』)とか、周りの小物(さりげなく金甲ストラップ)とか
背景をいろいろ調整させてもらったのですが…
オンエアでは、室長の顔の周囲で切り抜かれた画になっていたので
柳川市史だけが映っていました。残念。
ちなみに、いくつかツイートがありましたので申し上げておきますが
史料館公式twitterの中の人は、室長ではありません。

20120614_09

【おまけ】インタビューをそっと見守る宗茂(fromはなの舞)。

ぼたもちさんでの撮影は、桜の開花を待って4月1日に行いました。

20120614_06

本当は3月31日の予定だったのですが、天候不良のため一日延引。
でもそのおかげで、きれいに咲いた桜の下で撮影ができました。

20120614_08

供養祭でもお世話になった柳川の有志のみなさんが、手を合わせます。
みなさん本当に誾千代のことが好きで
オンエアはされませんでしたが、誾千代の歌も歌ってくださいました。

この日をもって、柳川およびその近郊での撮影は終わり。

これらの映像が、どのような番組に仕上がったのかはわかりませんでしたので、
私たちもどきどきしながら、誾千代お茶の間デビューの日を迎えました。

ディレクターに厳しい指導をする、強面カメラマン(でも、すごくいい人)、
怒られながらも、むしろ睨み返す勢いで応戦する、強気なディレクター、
その周りでわいわいしている学芸員たち。

わいわいしていた私たちにも、
本気でいいものを作ろうとしている制作スタッフの様子は伝わってきました。

スタッフの本気が詰まった「歴史秘話ヒストリア 戦国女BOSSがゆく」の再放送は
6月20日(水)16:05〜です。
国会中継が入らないことを祈ります。

なお、番組の構成や内容につきましては、
当史料館にお問い合わせいただきましても、お答えできませんので
その点ご了承ください。

さて、ついに訪れた(?)誾千代ブームに拍車をかけるため、立花家史料館では、
年末あたりに企画展「戦国の白花・誾千代姫伝説と立花家記(仮)」を開催予定です。
詳細は追々史料館公式サイトで告知いたしますので、しばしお待ちください。

さらに企画展に先駆けて、「誾千代イラストコンクール」を開催します!
テーマは「わたしの誾千代姫」
未発表の作品に限ります。
募集開始は11月を予定しています。
こちらの詳細については、7月16日に発表します。
なぜ7月16日かって?
それは誾千代への譲り状の日付、天正3年5月28日を現代の暦になおした日が7月16日だからさ。
さあこの夏は、みんなで誾千代を描こう。

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誾千代をぼたもちさんにて偲ぶ

2011/10/19

10月16日 よく晴れた日曜日。

初代藩主 立花宗茂の正室、誾千代の命日を翌日に控え、
供養祭がありました。

今年の供養祭には、『文蔵』(PHP研究所)にて「まりしてん誾千代姫」を
好評連載中の、山本兼一先生も編集の方と一緒にお見えになりました。
「まりしてん誾千代姫」は現在のところ、
秀吉の九州攻めが終わり、筑後柳川を賜ったあたりまでお話が進んでおります。
未読の方は、単行本化(来年あたり?)をお待ち下さい。

さて、供養祭に先立ち、まずは三柱神社でお祓いを受けました。

20111016_01

三柱神社は、9代藩主鑑賢の時代に創建されました。
祭神は、戸次道雪(梅岳霊神)・立花宗茂(松陰霊神)
そしてこの日の主役である誾千代(瑞玉霊神)です。

道中の安全などのお祓いを受けたら、いよいよぼたもちさんへ向けて出発。
場所は熊本県玉名市長洲町腹赤。車で約1時間の距離です。
加藤清正領であった腹赤は、誾千代が晩年を送った場所。
亡くなったのもここです。

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のどかな田園風景の中に

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ありました。誾千代の供養塔、通称「ぼたもちさん」です。
近寄って見てみましょう。

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ぼたもちというより……きのこ?
なんとなく目鼻を書きたくなる造形です。

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「光照院殿泉誉良清大姉」
これが誾千代の戒名です。
享年は34あるいは35と伝えられています。
幟旗は、地元の方が管理してくださっています。
ちなみに、写真は十七代当主で当館の館長でもある立花宗鑑奉納の旗。

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地元の住職さんがお経をあげてくださいました。
正座されているのが山本兼一先生です。
(すみません、後ろ姿の写真しかありませんでした。)

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お経とお説教の後はお食事です。
お斎という感じではありませんが、ちょっと豪華にデラックス弁当。
なんと、おいしいぼたもちさんも付いてます!

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食べ終わってふうっと一息。
周りを見渡すと、梅の木が二本。
これらは縁あって、太宰府の紅梅・白梅を植樹したものだそうです。

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桜の木も何本か植えてありました。
春になればお花見も楽しめますね。

誾千代がこの地で、どんな晩年を送ったのかはわかりませんが、
今のぼたもちさん周辺は、
長閑だけど、ちょっと賑やか(近隣の中学校の部活の声が聞こえていました)で、春には綺麗な花も咲く。
誾千代さんも、喜んでいるのではないかと思いました。

それもこれも、竹藪に囲まれひっそりと寂しい雰囲気だったここを、
整えたり、お世話したりして下さっている、
地主さんや区長さん始め腹赤のみなさん、それから柳川の有志のみなさんのおかげです。
ありがとうございます。そしてこれからも、よろしくお願いします。

さて、再び1時間の道のりをたどり柳川へ。
誾千代の菩提寺である良清寺へ行きました。

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ここは、宗茂が柳川再封後に、誾千代の菩提を弔うために建立した寺です。
寺の敷地の奥の方に、誾千代の墓があります。

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真ん中が誾千代の墓、
向かって左は、5代藩主 貞俶の室、珂月院の墓、
向かって右は、珂月院の父、立花弾正貞晟(3代藩主忠茂の子)の墓です。
珂月院も貞晟も、江戸で亡くなり、深川の本誓寺に葬られていますので
ここにあるのは供養塔なのでしょう。

近くに池があるためか、蚊がぶわんぶわんしていました。

この後、お向かいの瑞松院などにも行ったのですが、
とりあえず、誾千代供養祭はこれにて結び。

さて近年、お墓巡りをされる歴史ファンの方が多いようです。
そのこと自体はいいのですが、中には無断でお寺に入り、お墓の写真を撮る方もいるそうです。
お墓参りをするときには、お寺さんに一言断って、許可をいただいてからにしましょう。

「ルールとマナーを守って、楽しいお墓参りを。」

立花家史料館からのお願いです。

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