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小さく薄い三角形の金属片

2024/8/1

明治43年(1910)築の立花伯爵邸では、現在では失われつつあるものが、現役のまま建物を支えています。

その最小のものが、“小さく薄い三角形の金属片”ではないでしょうか。


わたしがはじめて庶務を担当したのは、平成25年から27年(2013~15)の夏季に集中施工した、立花伯爵邸「西洋館」のメンテナンス工事でした。外壁を塗り替え、すべての窓の点検・修理をおこないました。

当時のわたしは、慌ただしい作業現場をトンチンカンな質問で騒がせ、むやみやたらに撮影する、お邪魔虫でしたが、快く撮影を許してくださった職人さんたち深く感謝しています。



とくに「上げ下げ窓」の修理作業は、何もかもが珍しく驚くことばかり。

大興奮して一連の作業を動画撮影したものの、10年間もちぐされ続け、2024年1月にやっと披露できました。

平成25年-27年(2013-15)立花伯爵邸「西洋館」保存修理工事の話



つい先日、この投稿が、立花伯爵邸と同年代の建物の保存修理に携わる方のお役に立ったとご報告いただきました。

「~森林博物館改修~木製建具改修の挑戦」
⇒「~ 明治から時を超えて、青森のシンボルを未来へ ~
株式会社 成文組( 青森県青森市 )HP >現場レポートより

「いつかどこかの困っている誰かに届けェ~」と密かに願っていたので、とても嬉しかったです。


近代の建築については、国宝や重要文化財に指定されはじめたのが近年なので、文化財指定や修理の際に作成すべき報告書があまりありません。
明治から昭和初期に建てられた木造洋館に限ると、さらに数が少なくなります。木造洋館に見られる、寺社や和風住宅とは異なる工法については、参考事例が蓄積されていないのです。

おそらく20年ほど前までは、木造洋館の現場を経験した職人さんも健在だったのでしょう。しかし、新素材や新技術の登場により、古い工法は猛スピードで忘れられていきます。

あたかも、フィルムカメラのように……



例えば、わたしたちは「上げ下げ窓」のガラスの固定に苦労しました。

現在は弾性接着剤によるコーキング(シーリング)でガラスを固定するのが主流ですが、西洋館の「上げ下げ窓」ではパテが使われています。パテは隙間を埋めて気密性や水密性を保つだけで、ガラスを固定している訳ではありません。

立花伯爵邸には他にもガラス窓はありますが、木桟で固定されています。



とりあえず、ガラス脇に小釘を打ってみましたが、ガラスが薄いので、かなりの確率でヒビが入りました。

河上先生も寺社修理の経験豊富な大工さんたちも、戸惑っています。
どうしよう?

結論から言うと、窓枠からポロポロと落ちてくる”小さく薄い三角形の金属片”が重要でした。
ここだけの話ですが、当初は金属屑(ゴミ)と見なされていました。



次は困らないよう、取り付けている様子もバッチリ撮影しています。

“小さく薄い三角形の金属片”が見えますか?



立花伯爵邸西洋館メンテナンス工事は滞りなく終了しました。

“小さく薄い三角形の金属片”を忘れる時はありませんでしたが、ほとんどの報告書は建具類について詳述していないので、名前を探せないまま時は流れていきます。



そしてブログの投稿をはじめました。

ブログ形式を選んだのは、報告書等で端的にまとめられる前の、雑多な情報を伝えたかったから。

もちろん、我らが誇る2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』においても、工事をストップして関係者一同を集めて繰り返し最善策を議論しつくした時間については言及されていません。



10年の経過はわたしに、簡単動画加工アプリと『国立国会図書館デジタルコレクション』https://dl.ndl.go.jp/の全文検索をもたらしてくれました。
アプリのおかげで、暗い画像を明るくしたり、自分の奇声を削除したりと、むやみやたらに撮影した動画をお蔵入りさせずにすんでいます。



そして、ブログで取り上げるため、『国立国会図書館デジタルコレクション』で「上げ下げ窓」を全文検索すると、

斎藤兵次郎 著『和洋建具設計実例』,信友堂,明41.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/846407 (参照 2024-08-01)



えッ “三角”釘 !?

三角釘さんかくくぎ
鱗ウロコ釘、亜鉛トタン鋲、葉鋲ハビョー、等ノ別名アリ「はびょー」ヲ見ヨ。

葉鋲 はびょー
障子ニ硝子ヲ取付ケテ動カサラシムル為メぱて下ニ打ツ三角形ノ小キ薄キ金属板(英Spring-Glaziers’ point)「三角釘」トモ称ス。又普通亜鉛板ヲ用フル故ヘ「亜鉛鋲」トモイフ。米国ニテハぶりきヲ用フル故ヘTin point トモイフ。

中村達太郎 著『日本建築辞彙』丸善株式会社 明治39年発行

硝子職
パテは舶来品と和製品あり(後略)
ガラス板を附するに当り之を留むるに鱗釘を用ゆ鱗釘とはブリキ又は亜鉛引鉄板を小さく三角形に切りたるものにてガラス板一枚に付き凡そ四個乃至六個を要す

大泉龍之輔 編纂『建築工事設計便覧』建築書院 明治30年発行



“小さく薄い三角形の金属片”の名前は、「三角釘」 または「鱗釘」または 「亜鉛鋲」 または「葉鋲」といいます。



この名前を知るのに10年。


“小さく薄い三角形の金属片” との出会いから本投稿までの間に、ソチ・リオ・平昌・東京・北京・パリと6都市のオリンピックを見届けてしまいました。


2024.8.2リンク追記

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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シン・立花伯爵邸西洋館煙突

2024/3/24

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。(前回は先にレリーフ復原の話をしました。)





平成18年(2006)の春、立花伯爵邸の煙突は全解体され、この世界に存在しなくなりました。



西洋館1階食堂から見ると、こんな感じ。



しかし、解体された個々のレンガには番号が付され、丁寧にモルタル(セメント+砂+水) がはがされた後、また記録の通りに積み直して、「立花伯爵邸西洋館煙突」は再構築されるはずでした。

ですが、積み直すにあたっては「耐震補強」が必須であり、ただ元に戻すだけとはいかなかったのです。


「耐震補強」とは、 建造物の強度や靱性を改善して、耐震性能を向上させること。世界でも有数の地震多発地帯にある日本では、耐震・制震(制振)・免震の三対策がとられていますが、すでに建っている文化財建造物ではもっぱら「耐震補強」が選択されます。



明治43年(1910)に建築された立花伯爵邸西洋館は木造ですが、耐火でなければならない煙突部分のみレンガ造です。

木造の建築が一般的であった日本では、 洋風建築の技術とともにレンガ造がもたらされ、明治時代の耐火建築物に盛んに用いられるようになりました。しかしながら大正12年(1923)の関東大震災を境に、耐火建築物の主流は施工の簡単な鉄筋コンクリート造へと変わっていきます。



明治・大正期(1868~1926)につくられたレンガ造の建造物は、ほとんどは現在にいたるまでに淘汰され、かろうじて残ったとしても耐震性への不安から解体される例も少なくありません。

例えば、ご近所のレンガ塀、おそらく明治34年(1901)頃の柳河高等女学校の南塀は、スペースやコストの制限等により耐震補強を施す術がなく、年々崩落の危険性が高まるため、保存を諦めるしかなかったそうです。

2022年12月時点のGoogleストリートビュー

2023年10月時点のGoogleストリートビュー

ちなみに、百武 秀「福岡地方の古い赤れんがの化学成分:第2報」『福岡大学工学集報』77号 2006 福岡大学研究推進部 ) によると、柳河高等女学校南塀のレンガと、立花伯爵邸西洋館煙突・立花伯爵邸正門東塀のレンガは、寸法が同じ(230㎜×110㎜×60㎜)であり、柳川周辺で同じ粘土を使って焼かれた”同期の煉瓦”だと見られています。



レンガやコンクリートなどの工業製品を用いた近現代建造物の保存・修理には、日本で長年培われてきた木造建築の保存・修理の手法が活かせず、建造物ごとに新たな課題に直面します。

近現代建造物は,煉瓦,石,鉄,コンクリートといった材料を用い,一体的な躯体を形づくるところに特徴がある。それゆえ,木造のように部分的に解体して,傷んだ部材を補修した後,再び組み立てることは難しく,解体を伴う修理や改修は,文化財の価値を保持する上で必ずしも適当とはいえない。例えば,煉瓦造やコンクリート造の建造物を解体して,分解した材料を再利用しても,材料自体は残るが,建設当初の工法の一部は損なわれる。また,継続的に供用されている近現代建造物は,一般的には設備機器の更新が定期的に行われ,その際には機械の搬入や据付けのための改修を伴う。そうした設備の更新や,それに伴う改修を計画するに当たり,その時点での工事内容を検討するだけでなく,建設当初の記録などを基に現状と比較し,更には将来の改修の可能性も含めて,長期的かつ全体的に計画することが重要である。そのほか,建設材料には工業製品が用いられるようになっているが,その更新に同一の材料や製品を確保することが難しく,類似の新しい工業製品を使わざるを得ないといった課題も見られる。

PDF「近現代建造物の保存と活用の在り方」文化庁HP近現代建造物の保存と活用の在り方(報告)」平成30年(2018)7月より)



「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の当時、レンガ造の文化財建造物の修理事例はまだ些少で、レンガ造の煙突に耐震補強を施した前例は全くありませんでした。

暖炉の機能を残すためには、中を空洞にしなければなりません。外側から補強すれば、煙突の意匠が損なわれます。可能な限り元のレンガを用いるという条件も外せません……難易度がハードすぎるんですけど?
わたしが担当者だったら、早々に暖炉の機能を諦めたかもしれません。



修理工事の補助金を交付する 国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ね、耐震補強の工法が検討されました。「文化財建造物の内部に火は不要ではないか?」と問われたこともあったそうです。

そのなかで、設計・監理を担う河上先生は、難しい要求を淡々と受けとめ、傍からは愉快そうに見えるほど前向きに取り組まれて、下の図面に到達しました。

修理工事後

修理工事前

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花

「耐震補強」は安全のために必要不可欠でしたが、内部構造のビフォーアフターを見ると、 現在の立花伯爵邸西洋館の煙突は、明治43年(1910)当時の煙突と同一であるとは、厳密には言えないかもしれません。

いうなれば、シン・立花伯爵邸西洋館煙突でしょうか。



それはともかく、この「耐震補強」の効果は地震時にしか発揮されないので、今でも正解は分かりません。できれば正解は分かりたくありませんが、分からないが故に迷いも生じます。

それでも文化財というバトンを預かり、次世代へと継承していくために、その時々の最善を探りながら、保存と活用をうまく両立していかねばなりません。

そして、この道の先にゴールは存在しないのです。

文化財は,有形・無形の多種多様な文化的所産からなり,取扱いに細心の注意が必要な文化財が存在する一方で,社会の中で適切に活用されることで継承が図られる文化財も存在する。文化財は一度壊れてしまえば永遠に失われてしまうため,それぞれの文化財の種類・性質についての正しい認識の下に,適切な取扱いがなされることが必要である。
また,保存と活用は互いに効果を及ぼし合いながら,文化財の継承につなげるべきもので,単純な二項対立ではない。保存に悪影響を及ぼすような活用があってはならない一方で,適切な活用により文化財の大切さを多くの人々にえ,理解を促進していくことが不可欠であるなど,文化財の保存と活用は共に,次世代への継承という目的を達成するために必要なものである

PDF「文化財保護法に基づく保存活用計画の策定等に関する指針(最終変更 令和5年3月)」 文化庁



文化財の保存と活用も、諦めたらそこで終了です。

諦められることなく「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)で取り戻されたシン・立花伯爵邸西洋館煙突
知る人ぞ知る劇場版的エピソードを、下記の4話をかけて、やっとお披露目できました。

■ 一気読み! 立花伯爵邸西洋館煙突修理!■
1話 劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney
2話 解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」
3話 失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》
4話 シン・立花伯爵邸西洋館煙突


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》

2024/3/3

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。






レンガの積み直しの話はちょっと先送りして、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の終了後まで跳んでみましょう!



修理工事のビフォーアフターをご覧ください。

煙突が全解体されたとは信じられないくらい、変りがありません。


……あれ気付いちゃいましたか? 煙突のレリーフに。


修理のついでに、いい感じにデコっておきました……という訳ではなく、明治43年(1910)の建築当初の姿に復原したのです。



このように、大正年間(1920年代頃)の撮影だと推測される写真では、煙突にお洒落なレリーフがあることが確かめられます。

おそらく大正年間に撮影された「立花伯爵邸西洋館」南面 

煙突がある立花伯爵邸西洋館の南側は、「大広間」との間の中庭からしか見られないので、わずかな写真しか残されていません。現時点でレリーフが確認できる写真は、この1枚だけです。



そして、いつしかレリーフは失われてしまいました。

昭和61~62年(1986~87)に西洋館の大がかりな修理をした際には、古写真や図面の詳細な調査はなされず、そのままペンキが塗り直されただけでした。

昭和62年(1987)4月

その18年後の平成17年(2005)3月20日に福岡西方沖地震が発生。

平成17年(2005)3月20日 地震直後の「立花伯爵邸西洋館」南面

地震のはるか以前からレリーフは失われていましたが、文化財建造物として健全な状態に回復させるためには、できるかぎり建築当初の姿に復原しなければなりません。

しかし、個人の勝手な判断で、いい感じにデコることも許されません。



有明工業高等専門学校建築科助教授(当時)・松岡氏と河上信行建築事務所(当時)・河上氏が中心となって、立花家に未整理のまま残っていた図面や古写真が丹念に調査されました。煙突が写っている唯一の古写真も、このとき発見されています。

この調査の結果をもとに、柳川市と福岡県と文化庁とも協議を重ねて、煙突のレリーフが復原されたのです。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花 147頁より


デザインが決定したら、あとは漆喰を用いてレリーフを仕上げます。



はい!できました!

平成19年(2007)3月

しかし、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)のビフォーアフターの違いは、 レリーフだけではありません。


その違いの話は複雑で、とても長くなるので、次にします。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」

2024/2/28

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震により、立花伯爵邸西洋館煙突は大きく破損しました。
4月13日に、鉄製の「煙抜き」を地上に降ろすという応急処置がなされ、4月27日に、構造・デザイン・機能を取り戻すため、煙突は解体修理とする方針が決まりました。




諸々の準備を重ねて7カ月後、とうとう災害復旧を目的とする国庫補助事業「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)が、 河上信行建築事務所の設計監理、株式会社 田中建設の施工ではじまりました。

工事の現場代理人は、田中さん。
この工事が終わってから現在までずっと、立花伯爵邸の建物をとても気にかけてくださっています。



西洋館煙突は、応急処置が終わった状態がそのまま維持されていました。



「解体修理」とは、建造物を解体して各部材の補修を行い、 建造物を健全な状態に回復させる修理のこと。つまり、 全ての部材を解体して組み直すのです。

「解体修理」とは、こういうことです。


このスライドショーは、平成18年(2006)1月上旬から3月下旬までの72日間の解体作業にて、煙突のレンガを上から一段ずつ解体して撮影した現場写真を、約2分間に凝縮しています。



文化財建造物の価値を損ねないために選択される「解体修理」では、できる限り元の部材を修理して再利用するので、破壊しないように、石ノミで丁寧にレンガを外していきます。


外されたレンガは、一つ一つモルタル(セメント+砂+水)を剥がして、再利用のために保管されます。「解体よりも、レンガをキレイにする作業の方が、すごく時間がかかってツラかったですもんね」というのが、田中さんの感想です。



また、元の通りに組み直すため、レンガが積まれていた状況を記録しなければなりません。一段ごとに写真やスケッチで残された情報は、このように図面としてまとめられ、国庫補助事業の義務として作成した報告書にも掲載されています。
※図面の段数は、上のスライドとは逆の、最下段からの番号です。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花


そして、この図面の作成は、地震による破損状況も詳らかにしてくれました。

 煙突の破損がもっとも大きいのは軒蛇腹位置(桁位置)であった。一般に煙突など屋根から突出したものが震動を受けた場合、ホイッピング現象(むちうち現象)とよばれる現象が生じ、建物本体より大きく揺れる。当西洋館の場合、頂部が重く(3.6t)、煉瓦積みの煙突が建物の端にあって偏心しているため、接合部に応力集中が生じ、軒蛇腹付近が破断したと考える。また煙突が建物本体に挿入しているために、この部分の建物軸部は、壁や胴差しがなく、土台と桁だけでもっており、建物本体の中でも応力集中が生じ、大きく変形した可能性がある。そのような状況の中、2階床梁、1階大曳からの水平力も煙突に影響し、1、2階の床付近にクラックが生じたと推測する。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花  47頁



わたしは報告書を読んで後日談として知っただけですが、当時の担当者たちの苦労を想像してふるえてしまいました。

無尽蔵ではない予算の範囲で “暖炉に火が入っている光景”を何とか残せないかと、補助金を交付する国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ねた末に「解体修理」が実現できた過程を、ただ中にいた当館館長から聞いた後に見ると、この写真の得難さが身に沁みます。

立花伯爵邸2階 暖炉



解体が完了し、あとは外したレンガを積み直すだけ……とはいきませんでした。
「劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney」は、まだまだ終われないのです。





【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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上げ下げ窓を上げ下げする機構

2024/1/8

前回にて繰り返しご覧いただいたように、明治43年(1910)築の立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、とても軽やかに上げ下げできます。




立花伯爵邸西洋館の窓はどれも大きいのですが、その大きさに見合った重さを予想しながら窓を開けると、肩透かしを食らいます。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』より



どうしてこんなに軽いのでしょうか? タネやシカケはどこに?

わたしには何の変哲もない木造の窓枠しか見えません。



株式会社 御花は、平成25年から27年(2013~15)の3ヵ年にわたり、外壁のペンキの塗り替えを主とする、西洋館のメンテナンス工事を実施しました。災害復旧にくらべると急を要しないため、閑散期である夏季に集中して施工されました。



外壁だけでなく、窓の状態もかなり悪化していたので、西洋館のすべての窓を取り外して、点検・修理をしていきます。

メンテナンス工事前 左下隅のガラスが抜けています

窓を取り外している現場では、予期せぬ”力技”に驚きました。

※5倍速



作業のお邪魔にならないよう注意して、もう少し近寄ってみます。
(手ブレがひどく、ピントがズレている点はご容赦ください)

※音声注意

あらこんなところに、紐と錘と……滑車?



タネとシカケがここに‼



立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、「分銅式」の錘 オモリ を用いた機構により、上下の窓がどちらも自在に動かせる「両上げ下げ窓」です。
窓と同じ重さの分銅がバランスをとることで、小さな力での開閉や、開閉状態の固定が可能になっています。窓枠に仕組まれた分銅は、窓枠上部に取り付けられた滑車を介して、窓の両側とロープで繋がり、窓が分銅で吊るされたような形になっているのです。エレベーターと同様の仕組でもあります。

実際、メンテナンス工事の際に錘を量ると、およそ4.5kgほどでした。つまり、窓1枚の重さは4.5×2=9kgとなります。

ちなみに「上げ下げ窓」は、「引き窓」と比べると、戸車がないため気密性が高まる一方、上下に開口部をつくれるため換気効率も上がります。構造上外から開けにくいため、防犯面も安心です。



立花伯爵邸西洋館の各窓枠には、上下2枚の窓と、ロープでつながる4つの分銅が収まっていますが、100年が経過するなかで、木製建具がゆがんだり、ロープが切れたり、滑車が回らなくなったり、分銅が腐食したりと、様々な不具合が生じていました。

メンテナンス工事では明らかな不具合は修理しましたが、建築当初の素材や機構をできる限り後世に伝えたいと、切れずに残っていたロープや分銅など、経年劣化が明らかな部品でも、なるべく現役で頑張ってもらっています。

ですので、

100歳を超えた木造建築に斟酌していただき、通常のご見学時には、窓の開閉はご遠慮ください。



その代わり、いつでもこちらで、宗茂さんと誾千代さんが上げ下げ窓を上げ下げしている様子を御覧いただけます。




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上げ下げ窓を上げ下げする

2024/1/2

2024年、令和六年 甲辰歳がはじまりました。



新年

あけましておめでとうございます。

※ぜひ音声付でご覧ください





このブログのため、柳川藩初代藩主・立花宗茂【立花家史料館公式キャラクター】に、明治43年(1910)に建てられた立花伯爵邸西洋館の窓を、開け閉めしてもらいました。




せっかくですので、宗茂の正室・誾千代姫 【立花家史料館公式キャラクター】 も。



お分かりいただけましたでしょうか?

宗茂さんも誾千代さんも、とても軽やかに窓を上げ下げしています。

*通常のご見学の際は、建物に手を触れないようお願いしていますので、特別な許可を得て、御二人に代行してもらいました*



ご覧のように、力を全く込めずとも、窓はスッと上がります。
閉めているときのギギギ音は、110歳を超える木造建築の音で、窓の重さには由来しません。

立花伯爵邸西洋館の窓はすべて「上げ下げ窓」、なかでも上下両方の窓が動かせる「両上げ下げ窓」です。文字通り、窓を上下にスライドさせて開閉します。

実は、軽やかに上げ下げさせる機構が、窓枠内部に仕込まれているのですが、それはまた別のおはなしで。




手を放しても、自然と上がっていく軽やかさを、もう一度ご覧ください。

この立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓のように、
本年が、軽やかで苦労がない一年となりますように。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney

2023/12/31

立花伯爵邸の煙突から、サンタさんはやって来ませんでした。
前回、ムリだろうなと予想しながらも誘ってしまい、サンタさんへの配慮に欠けていたと深く反省しています。




やはりこの穴のサイズでは、煙は通っても……

立花伯爵邸 西洋館の煙突の穴 2005年4月13日撮影 

この写真は、実際に立花伯爵邸 西洋館の煙突の穴を撮影したものです。



話は平成17年(2005)3月20日 日曜日にさかのぼります。

10:53 福岡西方沖地震が発生。
柳川市では震度5弱を観測しましたが 、幸いにも人的被害はありませんでした。

国指定名勝「松濤園」(当時の名称)の被害はどうでしょうか。

え?

え~⁇

西洋館の煙突って、レンガ造りだったの⁈



ここからは、当時現場にいた当館館長に取材し、臨場感を添えてお届けします。



日曜の自宅にて、地震に驚愕しながらも無事にやり過ごした午後、やっと電話も通じるようになったと思っていた矢先に、

「もう、大変なの~、大変なことになってるのよ!」 

という職場からの電話。
慌てて地震の混乱が冷めやらぬ通勤路を乗り越え、西洋館南側に到着。
柳川市の文化財保護担当者と、被害状況を確認しました。



柳川市作成の備忘録には、このように記されています。

14:00 名勝「松濤園」所有者の立花氏から西洋館損壊の連絡。
15:30 松濤園被害状況確認。西洋館マントルピースの上部損壊(崩落の危険性あり)。庭園内の灯籠2基が倒壊。対月館南側の水路際の塀が倒壊。西洋館周辺についてはコーンにより立入禁止区域を設定。

崩落の危険性!!!
頂上部分が落下し、対面の立花伯爵邸「大広間」を破壊するという、二次被害も想定されます。

どうする?

翌21日は振替休日でしたが、まずは福岡県文化財保護課へ被害状況を報告。
崩落防止のためにマントルピース周囲に足場を組み、建物からワイヤーなどで引っ張る措置を指導され、22日に応急措置を実施しました。

3月23日
柳川市史 歴史建造物専門研究員でもある、有明工業高等専門学校建築科助教授(当時)・松岡氏と、過去に西洋館を修理した実績がある株式会社 大林組により立入調査がなされ、構造的には問題はないが、マントルピース及び内装の修理が必要と診断されました。

しかし、崩落までのタイムリミットは変わりません。

なるべく早く、煙突頂上部分を取り外したいところですが、国指定名勝の一部なので、所有者の一存だけでは何も出来ません。

柳川市と福岡県と文化庁と、密に連絡をとり、協議を重ねます。
災害復旧のため、現状変更したり補助金を申請したりするにも書類の提出が必要となり、根拠を示す資料も作成しなければなりません。
他にも地震の被害が判明し、予期せぬ出費が次々と生じてきます。



平成17年(2005)4月13日 水曜日 
9:00 西洋館煙突の先行解体工事がはじまりました。

ハラハラ

※BGM注意、3倍速



ドキドキ

2本並んだ煙抜きは鉄製で、かなりの重さだと推測されていました。
ブロック状にしてクレーンで吊り降ろす間に、崩れる可能性もあります。
頂上部分を動かすことで、不安定になっているレンガにどんな影響があるのか分かりません。

※BGM注意



ホッ

※BGM注意、3倍速

無事に中庭へと降ろすことができました。
なんと重さは3.6トン!

さらに手作業の範囲で、上部から順にレンガを降ろしました。
ただ、これはあくまで応急処置でしかなく、修理工事は始まってもいません。



4月15日には福岡県から、4月22日には文化庁から、被害状況の現地視察に来られ、これから進めていく修理工事の方針が検討されました。

修理工事の監修は、ひきつづき松岡先生に依頼することになりましたが、設計してくれる方を早急に探さねばなりません。
そこで推薦されたのが、福岡県文化財保護課からの信頼も厚い、河上信行建築事務所(当時の名称)でした。



松岡先生と河上先生、ここに御二人が揃ったときから、現在の国指定名勝「立花氏庭園」の文化財としての整備が、大きく動き出すのです。



そして4月27日、福岡県西方沖地震被害にともなう松濤園修理事業実施のための具体的な協議のため、関係者が一堂に会しました。

株式会社 御花を事業主体者として、現状復旧を目的とした修理工事を進めるにあたり、 梅雨や台風による影響を考慮した修理箇所の優先順位、修理工事の期間、その間の営業導線の確保などが決定されていきます。



ただ、西洋館の煙突の修理方針については、議論が紛糾しました。

危険箇所のみを取り外して旧材を積み直す工法なら、暖炉は使用はできなくなるが、煙突を解体する範囲が狭まるかもしれないという意見も出ましたが、最後には、構造・デザイン・機能を取り戻したいという所有者の希望が尊重されました。

現時点で振り返ると、暖炉が現役のまま残されたことで、文化財としての活用の幅が広がって良かったと、しみじみ思います。


この協議を契機に、名勝「松濤園」の保存・活用を進めるための委員会が設置されたこと、伯爵邸の各部屋の名称が整理されたこと、営業及び来館者、宿泊客の導線の整理されたことで、後のわたしたちも大いに助けられました。



「一民間企業体としては、長期間の営業縮小というダメージは大きく、短い時間の中で重大な決断を次々と下して文化財修理と向き合わなければなりませんでした。」と館長が語る、当時の御苦労は重々承知してはいるものの、後日談として話を聞く身にとっては、まさに劇場版とも言えるスリルと疾走感で、ワクワクしました。



しかし、これから煙突が修復されるまで、まだまだ数多の困難が待ち構えていて、汗と涙があふれる日々が続くのです。



参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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サンタさん、立花伯爵邸の煙突、今も現役ですよ!

2023/12/23

明治43年(1910)に建てられた、立花伯爵邸西洋館の暖炉は、今でも薪を燃やして暖をとることができます。
もちろん、実際に火を点す機会はごくごく稀です。

立花伯爵邸 西洋館2階 暖炉

2019年2月の柳川藩主立花邸御花のイベント「Classic CAFE&BAR OHANA 」では、こんな感じ。
※4枚目と5枚目の写真をご覧ください

Classic CAFE&BAR OHANA 「夜の御花をゆっくりとくつろいでいただきたい」という思いからいまれたCAFE&BAR OHANA。 サックスやピアノ演奏もあり、西洋館が見事オシャレなバーに変わりました。 暖炉に火が灯り、どこか異空間にタイムスリップした気分です。 ちなみにバーテンダーは、前職でバーテンダーだったフロントスタッフのN氏。 さすが、カクテルを作る姿もさまになっております。 心地よい演奏を聴きながら、皆さん美味しいお酒に旅行の疲れを癒しておりました。 ( 2019年2月12日投稿 柳川藩主立花邸御花Instagram より)



つまり、立花伯爵邸西洋館の煙突は現時点でも外と通じていて、空気を取り込んでいるのです。


え、それって煙突からサンタさんがやって来られるってコト!?


実は、明治・大正期に日本で建てられた洋館の暖炉のなかで、立花伯爵邸西洋館のように薪を燃やすことができるものは、あまり残っていません。


薪を燃やすだけの暖房は、他の暖房器具と比べて暖房効率がとても低いので、多くの洋館では、暖房器具を暖炉から変更しています。
そして、昭和初期になって建てられた洋館では、ほとんどの暖炉は当初から装飾でしかなく、煙突は不要となってしまいました。


例えば、明治42年(1909)10月17日に開業した奈良ホテル(奈良県奈良市)の場合、大正3年(1914)に約1年をかけて全館セントラルヒーティング化(スチーム暖房化)したようです。(奈良ホテルHP「奈良ホテルヒストリー」
「マントルピースの煙突が、いつの頃からか屋根から消えていますが、この時の工事の際に取り払ったのかも知れません。奈良ホテルのマントルピースは、この工事を境に実用の物ではなく装飾品となりました。」(『奈良ホテル物語』)

煙突がある頃の奈良ホテル
奈良ホテル』(たましん地域文化財団 所蔵) 「ADEAC:デジタルアーカイブシステム 収録」 (https://cultural.jp/item/adeac-R100000094_I000102187_00)
Cultural Japan



また、明治29年(1896)に建てられた「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)の洋館の場合、最低限の煙突で各部屋に暖炉が備えられるよう工夫された配置や、 屋根にある煙突の痕跡から、建築当初は暖炉を使っていたようですが、「本邸は都市ガスを熱源にしたボイラーが設置され、スチーム暖房が全館に配備されていました。」(『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』)と記述されるので、早い時期に変更されたのでしょう。



しかし、立花伯爵邸は暖炉から新しい暖房器具へと変更しませんでした。
立花伯爵邸の西洋館は、伯爵家族が日常的に生活する場ではなかったので、暖炉のままでも困らなかったのかもしれません。



現存する明治・大正期に建てられた洋館のほとんどは、戦後になって公共施設として利用されていたものです。そのため、不便な暖炉は廃止され、邪魔な煙突は撤去されてしまいました。
立花伯爵邸のように、住宅のまま使われ続けた数少ない洋館の場合、なおさら快適さが優先され、やはり暖炉と煙突は失われてしまいます。


その後、これらの洋館が文化財として見直されると、暖炉と煙突が外見的に復元されるのですが、暖房器具の機能まで復活させた例を聞いたことはありません。

サンタより、火気厳禁の原則やメンテナンスの都合が重視された結果でしょう。



ゆえに、立花伯爵邸西洋館は、サンタさんをお迎えできる設備が現役のまま使われている、とても希少な明治期の洋館だといえるのです。



サンタさんへ
このような貴重な煙突、実際に通ってみたくないですか?
暖炉からのご訪問、お待ちいたしております。

現在の立花伯爵邸 西洋館1階 暖炉前



参考文献
営業企画課「奈良ホテル物語」編集室『奈良ホテル物語』2016年7月(株)奈良ホテル 、『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園 (都立9庭園ガイドブック)』2011年6月 公益財団法人 東京都公園協会、

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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西原吉治郎設計「西尾市岩瀬文庫書庫」

2023/10/19

まずは、前回の「Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》 」から、ご覧ください。





今回の捜索で出会えた、西原吉治郎の最大の足跡が「西尾市岩瀬文庫書庫」・「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」です。

ありがたいことに愛知県西尾市【公式】 が、吉治郎さんが設計した建物の解説動画を YouTube上で公開されているので、恩恵に預からせていただきます。




明治41年(1908)に、私立図書館「岩瀬文庫」を開設した豪商の岩崎彌助は、大正年間(1912‐26)に文庫の拡張を計画し、吉治郎が名古屋で開いていた西原建築工務店に依頼しました。

岩崎彌助については、この動画でわかりやすく解説されています。

西尾偉人図鑑
西尾市制70周年記念式典で放映された映像です。
※「岩崎彌助」の解説のはじまりを開始位置に設定



吉治郎が設計し、大正8年(1919)頃に完成した「西尾市岩瀬文庫書庫」は、レンガ造の地下1階地上3階建。小屋組はトラス構造です。

西尾市岩瀬文庫 旧書庫の案内
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫旧書庫の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



また、吉治郎は児童館も設計しました。
大正14年(1925)頃に完成した「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」は、小規模な木造の洋風建築 です。

⻄尾市岩瀬⽂庫 おもちゃ館(児童館)内の案内

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫おもちゃ館(児童館)の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



岩瀬文庫には他にも建物がありましたが、上記2棟のみが戦災や三河地震(1945)をくぐりぬけ、国の登録有形文化財となりました。

そして、令和4年(2022)3月に策定された保存活用計画にむけて、耐震補強工事等の調査が実施されていたようです。

* 詳細は、西尾市教育員会文化財課「西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB) 」2022.3



おかげで、普段見ることのできない内部構造の解説動画も公開されています。
建築家の専門家による丁寧な説明が、とても分かりやすく、楽しいです。



「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

現在調査中の西尾市岩瀬文庫旧書庫の内部構造についてお話を伺います。普段見ることのできない旧書庫の秘密が明らかに!




お分かりいただけましたでしょうか?

丸繁建築事務所の内田麻紀子氏が、「教科書どおり」と2回繰り返されました。

「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)

※30秒ほどの間で「教科書どおり」と2回繰り返していらっしゃいます



実は、修復工事で設計監理をつとめ、報告書を作成された河上先生が、立花伯爵邸を評するときに頻繁に使われた言葉も「教科書どおり」でした。



もういちど、 建築家・西原吉治郎(1868~1935)の簡単3行経歴を思い出してください。

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した



「教科書どおり」という言葉の背景に、吉治郎さんの経歴を重ねると、すんなりと納得できる気がします。勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿が浮かんできませんか。



「岩瀬文庫書庫・児童館」は、西原吉治郎が愛知県の職を辞した後に設計した建物です。
そして、吉治郎が福岡県時代に設計を引き受け、愛知県へ移動後は手紙などで工事を指示した「立花伯爵邸」も、吉治郎が個人的に請け負った仕事になります。

木造建築の公共施設は、利便性が優先されるため、時代に合わせて改築され、門も残さずに失われてしまう例がほとんどです。
いろいろな事情が重なった末に、福岡県と愛知県にそれぞれ残された西原吉治郎の建築が、立花伯爵と豪商・岩崎彌助という特徴的な個人を施主とするのは、とても興味深い巡り合わせではないでしょうか。



オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長が解説します。
福岡県に残る「教科書通り」の建築が気になる方は、 是非オンラインツアーへ!



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付

参考文献
YouTube「愛知県西尾市」【公式】文化遺産オンライン(文化庁)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館」文化財ナビ愛知) 西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 本文編 (PDF 4.0MB)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB)愛知県西尾市HP西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》

2023/10/17

ただいま、 オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催) の解説冊子を鋭意作成中です。


立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求しています。

しかし、報告書の作成は平成19年(2007)。新知見も出てきています。


とくに、立花伯爵邸「西洋館」を設計した西原吉治郎については、調査研究が蓄積され、その姿がより明確に見えてきました。


詳細な経歴は下記の文献におまかせして、建築家・西原吉治郎(1868~1935)の経歴をものすごく簡単に3行にすると、

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した

となります。

吉治郎は明治初年生まれ。およそ30歳、40歳、50歳で職場を変えながらも、工手学校在学時からずっと現場でキャリアを積み、建築家として働き続けました。
わたしは勝手に、勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿を想像しています。


優れた先行研究をもとに、現存する吉治郎作品をインターネットにて捜索していたら、興味深い事実をいろいろと見つけてしまいました。


そこで急遽、建築家・西原吉次郎の足跡をたどるGoogleマップツアーを開催!
オンラインツアーのプレ企画として、 お楽しみください。


吉治郎の在籍時に福岡県営繕が手がけた建築活動は、病院や県立学校、郡役所など様々でした。

なかでも、明治33年(1890)9月に「設計及工事監督」を嘱託され、翌年に竣工した「日本赤十字社福岡支部本館」は、吉治郎が最初に設計した本格的洋館であり、のちに設計する「立花伯爵邸西洋館」と共通する点も多かったようです。

*共通点の詳細は、河上信行・松岡高弘「福岡県技手西原吉治郎と雇亀田丈平」(『日本建築学会研究報告』49号 2010.3 日本建築学会九州支部) を参照

残念ながら建物は昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で焼失してしまいました。



ところが、その正門の門柱は焼失を免れ、病院とともに場所を移して再建された日本赤十字社福岡支部の門として、今もきちんと保存されているのです。

日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱 【福岡市登録有形文化財】
高さ3.59m 上部の笠石は別造り 石材は徳山産花崗岩



そして、本来は左右2本ずつ計4本だった門の外側の2本は、久留米赤十字会館ににて門柱としての役を担っています。



これらの門柱と、立花伯爵邸の正門とを見くらべると、

同じバイブスを感じます。

門扉など鉄を素材とした部分は戦時中の物資供出で失われ、戦後に再現されました



立花伯爵家のアルバムを探すと、明治43年(1910)の竣工よりも前、建築工事中の正門の写真も見つかりました。【上段左写真の赤枠内】

まさに、西洋館が”映える”ようにデザインされた門柱ではないでしょうか。



建物の設計者が必ずしも門までデザインするわけではなく、誰の作だと判断する術もないのですが、立花伯爵邸の正門については、当時の寸法図が残されています。

正面門柱の正面図 原寸1/5スケール

ここまで精密に描かれた図面をみると、吉治郎自身がデザインした可能性は十分にあります。

となると、共通する雰囲気をもつ日本赤十字社福岡県支部 旧正門柱にも、吉治郎の意向が反映されていると考えたいところです。



作例は多いほど楽しいので、吉治郎さんの足跡をさらに辿ってみます。



吉治郎の在籍中に福岡県営繕が手がけた建築には、県立中学校も含まれます。
現時点で吉治郎がどの学校を担当したのかは不明ですが、柳川の伝習館、久留米の明善、福岡の修猷館、京都の豊津、北九州の東筑……
そういえば、我が母校はどうだったっけ?

木造校舎ではありませんでしたが、古めかしい正門があったような気がします。

明治31年(1898)開校の福岡県東筑尋常中学校は、翌年「福岡県東筑中学校」と改称、明治35年(1902)に現在地の新校舎に移転しました。
今の県立東筑高等学校の正門は、新校舎移転時からのものだと推測されます。

「日本赤十字社福岡支部本館」や「立花伯爵邸西洋館」の門柱と、共通する雰囲気があるような……

いずれ確かめに行かねばなりません。



さらに愛知県へと足をのばします。

西原吉治郎は、愛知県では営繕のトップにつき、多種多様な公共施設の設計・工事監督を担当しました。

例えば、吉治郎が新築移転の任にあたった、大正3年(1914)完成の「愛知病院・医学専門学校」の正門がこちら。2基が同じ道路沿いに立っています。

旧愛知県立愛知病院正門及び外塀 【国登録有形文化財】

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀 【国登録有形文化財



ここまで見てきた門柱たちのバイブス、かなり似てなくない?



しかし、趣がちがうデザインの門柱も残されています。

明治村第八高等学校正門【国登録有形文化財】 
昭和45年(1970)愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂町より移築

吉治郎を中心とした愛知県営繕が設計を担当し、明治42年(1909)に建てられた第八高等学校の正門が、今は博物館明治村の正門として残されています。

赤煉瓦と白御影石を積んだデザインは、この頃に流行していた「辰野式」を彷彿させます。「辰野式」とは、日本近代建築の父とも称される建築家・辰野金吾が好んで用いた様式のこと。
吉治郎さんの意向ではなく、第八高等学校の設計の基本方針を示したとされる初代校長や文部省営繕課の意向が影響した結果ではなかろうかと、わたしは邪推しています。ただし、根拠はありません。



今回は結局、門だけしか見てきませんでした。
(それでもわたしはものすごく楽しかったです)
もっと西原吉治郎について知りたくなった方は、是非オンラインツアーへ!

オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長がじっくりと解説しながら、ちゃんとご案内いたします。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付



建築家・西原吉治郎についての先行研究





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、福岡市文化財HP平成25年度の福岡市指定文化財・登録文化財について」、 文化遺産オンライン(文化庁)、福岡県立東筑高等学校同窓会東筑會HP「母校沿革」文化財ナビ愛知HP(愛知県)、博物館明治村HP

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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