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立花伯爵邸「大広間」の隠し機”能”

2024/6/20

これまで立花伯爵邸「大広間」の内緒話をちょこちょこと紹介してきましたが、まだ全てを語りきれていません。

① 知られざる四分一(2023/1/26)
② 銀に輝く壁紙にひそむ新旧の技術(2023/1/31)
③ 「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ(2023/2/6)
④ フレキシブルな「大広間」床の間【前半】(2023/2/13)
⑤ フレキシブルな「大広間」床の間【後半】(2023/2/22)
⑥ Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》(2023/3/2)
⑦ 殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑(2023/3/15)
⑧ 100年前の手仕事が、現代の機械には難しい……(2023/3/25)
⑨ かりそめの素敵な素屋根(2023/9/8)
⑩ 知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。(2023/9/14)


あの話もこの話もしなければと悩みながら「大広間」を覗くと、アレッ⁉️

2024年6月12日の立花伯爵邸「大広間」

……どうやら「大広間」の隠し機能✨️を明らかにする時が来たようです。




「大広間」がトランスフォームした理由は”能”。

残念ながら本年度の公演は終了しましたが、来年度の公演情報がいち早く届くメールマガジンの登録ができます。

また、2022年の能公演の様子が、「柳川藩主立花邸「御花」で能を楽しむ。【前編】【後編】」(ウェブマガジン『アナバナ』https://anaba-na.com/)で紹介されています。






建築当初の「大広間」平面図

明治41年(1908)4月30日に棟上された立花伯爵邸「大広間」は、南は「松濤園」に面しています。


東から18畳、18畳、12畳の部屋がならび、部屋の南北に一間幅の畳廊下がつきます。




そして、西側の2室「西ノ御間(三の間)」と「中ノ御間(二の間)」の畳をはずすと、敷舞台があらわれるのです。












座敷に仕組まれた能舞台が現存する例はほかに、明治37年(1905)築の炭鉱主・高取伊好(1850-1927)の邸宅 【国宝】「旧高取邸」(佐賀県唐津市)があります。ウチと同じく畳と敷居が可動式だそうですが、アチラは「鏡板の松」が襖に描かれた本格的な能舞台であり、時に畳が敷かれて広間として使われたと聞きます。

しかし、今でも実際に能を上演するために活用しているのは、ウチだけではないでしょうか。

もっぱら広間として使われている立花伯爵邸「大広間」ですが、畳と敷居は、必要に応じて人力で可動します。



残念ながら、伯爵時代の「大広間」敷舞台の使われ方は、現時点では確認できていません。演能時の古写真や記録が発見されたら、すぐにご報告します。


(株)御花による大規模な能の公演は、平成6年(1994)から平成19年(2007)にかけて、十数回開催されました。


ただし、御花史料館の開館を記念して開催された平成6年(1994)と平成9年(1997)、平成12年 (2000)、そして福岡県西方沖地震復興を記念した平成19年(2007)の際は、「大広間」敷舞台ではなく、「松濤園」の池上に仮設された贅沢な野外能舞台で演じられています。








余談はさておき、立花伯爵邸「大広間」敷舞台が能の公演で使われるなかで、「大広間の床下には甕が埋められている」と、まことしやかに語られてきました。

能舞台の床下に数個の大きな甕を据える例は、天正九年(1581)の銘がある現存最古の能舞台【国宝】「 本願寺北能舞台」(京都市西本願寺)をはじめ、江戸時代に設営された能舞台にしばしば見られます。拍子を踏む足音の響きを良くする効果があるといわれています。


「大広間」の床下にも大きな甕がある⁉️ 
しかし、「大広間」の床下は外からは覗けない構造です。

「大広間」修復工事(2016-17) にて、 やっと機会が到来しました。

ワクワクしながら覗きこんだのに、切石礎石しか見えません……

立花伯爵邸「大広間」床下

礎石の下はコンクリート? 明治時代にコンクリートの基礎?



「大広間」修復工事(2016-17)では 、構造補強のために「東ノ御間(一の間)」「西ノ御間(三の間)」の荒床板を解体しました。

基礎は確かにコンクリートでしたが、厚さ6cmと薄く無筋で、床下の湿気を防ぐ効果しかなさそうだと判断されました。

工事では構造補強のため、厚い鉄筋コンクリート基礎を可逆的に加えています。

床下の既存コンクリート土間60mm厚の下部に空隙があり、構造補強の基礎設置に必要な部分を撤去し、コンクリート土間100mm厚を新規に整備した。

河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3月 (株)御花 100頁より



でもでも、家屋としては”しょぼい無筋コンクリート基礎”であっても、能舞台としての音響効果は期待できるかも?



実は、江戸時代に設営された能舞台には、甕を埋めるのではなく、「彦根城表御殿能舞台」(滋賀県彦根市 彦根城博物館)のように、 漆喰を塗った大きな桝を床下に設置した例もあるのです。

彦根城博物館HP「3 江戸時代の能舞台
彦根城博物館の見どころ」(彦根城博物館HPhttps://hikone-castle-museum.jp)



もしかしたら、コンクリート基礎の目的が、湿気防止ではなく、音響効果であった可能性もあるかもしれません。(あくまで個人の勝手な期待です。)



「大広間」の音響効果のほどは、演者の方々にしか分かりません。
いつか、甕が埋められた舞台と「大広間」敷舞台との比較検証ができればいいなと、大きな期待を抱きながら願っています。



参考文献
『旧高取邸リーフレット』PDF(公益財団法人 唐津市文化事業団HP「旧高取邸」より)、「書院・能舞台」西本願寺HP)、磯野浩光「京都市内に現存する能舞台略考」PDF( 『京都府埋蔵文化財論集第6集』2010 京都府埋蔵文化財調査研究センター) 、山下充康「能舞台床下の甕」PDF(『騒音制御』14巻3号 1990.6 公益社団法人 日本騒音制御工学会)、「江戸時代の能舞台」(彦根城博物館HP)、「 表御殿の調査-彦根藩の表御殿を復元した彦根城博物館-」(彦根市HPより)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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立花伯爵邸「家政局」七変化

2023/9/24

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。

まずは前回の、「大広間」修復工事のビフォーアフターをご確認ください。





そして、「家政局」のビフォーアフターは、こうなりました。

どうして…どうして…




安心してください。

取り戻したかった、100年前の「家政局」の姿は、こちらなのです。

おそらく昭和40年代(1965~75)の「家政局」



ただし、この写真は昭和40年代(1965~75)に撮影されたと推測されるもので、厳密には100年前の姿とは言えません。
実は、「家政局」の昔の写真は、あまり残されていないのです。



明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸は、西洋館・大広間・御居間・御子様御部屋・仏間・御宝蔵・女中部屋などの多くの棟が連なり、廊下で繋がれていました。

立花伯爵邸全域の航空写真 1930~1937年



「家政局」棟は、木造2階建。1階に家政局の事務所と職員の控室が、2階には会議室2部屋と客間1部屋が設けられていました。
もともと家政局とは、伯爵立花家の財産管理などを担う家政機関の名称です。
当時「御役所」と呼ばれていたオフィス棟を、今は「家政局」と呼んでいます。

現在、伯爵邸時代に撮影された「家政局」の外観写真は、撮影日が不明の、この2点しか確認できていません。伯爵立花家の家族が生活する場所ではなかったので、立花家のアルバムに写真が残されなかったのです。



立花家のアルバムに残る「家政局」っぽい室内写真は、今のところコレだけ。
上の2点の外観写真の、高欄の形などから推測しました。

伯爵邸時代の「家政局」?の室内写真
「家政局」は昭和62年(1987)頃にサッシ窓に替えられました。

イヌ、かわいい。


ですが、伯爵邸時代の「家政局」については、また別のおはなしで。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付




時代はとんで昭和20年(1925)、第二次世界大戦の終結後。
戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なったため、立花家は収入源を確保しようと、 料亭・旅館業をはじめます。

昭和25年(1950)5月、立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。
立花家が伯爵ではなくなると、家政機関は不要となり、「家政局」は役割を失います。


立花家17代目の想い出話では、16代当主・和雄は、空きスペースとなった「家政局」を赤の他人に気前よく貸し出し、そのあげく「家政局」でダンスホールが営業されていた時もあったようです。 *これもまた別のおはなしで。



現時点で最も古い、撮影日が確かな「家政局」の写真は、昭和45年(1970)10月30日、「焼肉とイタリアンスナック 御花 一番館」オープン時のものです。

当時「家政局」は60歳、外観を一変して再出発がはかられました。
墨漆喰の黒壁を、なまこ壁風白壁に変えたところに、当時の流行を感じます。
ただし、骨組は変えていません。



昭和39年(1964)の東京オリンピックと昭和45年(1970)の大阪万博を画期として全国的に整備された交通網が牽引し、マイカーの大衆化や高速道路網の発展が推し進めた観光ブームは、柳川にも波及しました。

はじめは伯爵時代の建物・食器・布団などを贅沢に流用して料亭旅館を営んでいた立花家も、昭和46年(1966)に株式会社 御花となり、観光ブームに乗り遅れないよう設備の充実をはかるようになります。
「家政局」の改装も、その一環でした。



「御花」を訪れる観光客はドンドン増え続け、昭和49年(1974)には10万人、昭和56年(1981)は20万人を突破します。



観光地として大賑わいをみせる「御花」では、ホテル棟やレストラン棟が新築され、代わりに「焼肉とイタリアンスナック御花 一番館」は閉店します。

今度は「御花」の来園受付兼土産物店となった「家政局」。
当時は団体旅行で来園した大勢の旅行客がひっきりなしに出入りして、芋の子を洗うような混雑も見られたようです。

残念ながら、当時の写真はありませんが、修復工事の直前の「家政局」のそこここにも、往時の名残が感じられます。



平成6年(1994)に、ショップ「お花小路」を併設した史料館棟が新築、受付の機能が他に移されたため、再びお役御免に。その後は、株式会社御花の事務所として使われるようになりました。

しかし、現代オフィスには必須の、電気設備も空調設備もネット回線も想定されていない旧「家政局」は使い勝手が悪く、すきま風に煩わされない現代建築への大改装を望む声が日に日に大きくなっていきます。


ちなみに、家政局の別の一区画では、すでに昭和26年(1651)頃から柳川藩主立花家に伝来した美術工芸品が展示されていました。

「立花家史料室」 1970年代の「御花のしおり」掲載写真

史料館棟の新築後は、民具を展示していた時期もあります。



ところが、にわかに「家政局」は見直されます。

福岡県西方沖地震(2005.3.20発生)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)を機にご縁ができた、建築の専門家の方々が、「家政局」の歴史的価値を一目で見抜いたのです。
立花家をはじめとする関係者一同は思いもよらず、大改装も考えていた時でした。

奇跡的に生き残り、築100年にならんとする「家政局」。

全国的にみても、旧大名家の家政機関であった建物は残されておらず、いつの間にか希少な一例となっていました。よそのお宅の「家政局」は、役割を失った際にダンスホールにはならず、すぐに更地にされたのでしょう。



そして平成23年(2011)年、もともと旧立花伯爵邸の敷地【下図青色範囲】は、昭和53年(1978)に「松濤園」の名で国の名勝に指定されていましたが、指定範囲が追加され【下図赤色範囲】、名称も「立花氏庭園」と改められました。

ついに「家政局」も、名勝の重要な構成要素として、文化財に!

たちまち、河上建築事務所の綿密な調査により、「家政局」棟の骨組の大部分が建築当初のまま維持されていることが確認され、改造前の姿に戻す「復原」兼、修復工事が計画されました。


また、工事準備にあたり、昭和末期から「家政局」内で営まれていた社員食堂をふくむ、すべての事務所機能がホテル棟へ移されました。



伯爵邸時代から現在まで、一貫して人が集う場所でありつづけた「大広間」と、それとはまさに対照的に、めまぐるしく役割を変えてきた「家政局」。
それぞれ異なる問題を抱えていましたが、様々なハードルを乗り越え、平成の大修復工事が実施されたのです。



100年前の姿を取り戻した「家政局」。
白い「西洋館」との組合せが映える、クラシカルな美しさをご覧ください。

「家政局」修復および外観復元後 2019年4月

「家政局」の過去を知っていると、実際の3倍ほどステキに見えてきませんか?

わたしは、ここに書ききれなかった伯爵時代からの七変化の詳細を知っているので、実際の7倍ほどステキに見えています。


「家政局」を7倍ステキに見たい方は、是非ともオンラインツアーへ。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。

2023/9/14

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」修復工事(2016-17) では、雨漏り被害が年々拡大していた屋根を全面的に改修して、約1万3千枚の瓦をすべて葺き替えました。

修復工事前 2014年7月

修復工事前の瓦の話はこちら。




現在、全国の瓦の多くは、限定された製産地でつくられた機械製品です。

しかし、昭和初期頃までは、各地の身近な土で焼かれた手づくりの瓦がつかわれていました。筑後地方でも、大正7年頃までの瓦生産は、手作業でした。
「大広間」の瓦は、刻印から、地元柳川でつくられたことがわかります。

修復前の旧瓦は、土の耐火度が低いために焼成が十分ではありませんでした。
そして、100年以上にわたり風雨にさらされ続けてきました。

修理の時点で、ほとんどの瓦は、 瓦に滲みた水分が凍結と融解を繰り返す「凍害」により、割れ・欠け等の破損がありました。


新しく葺く瓦は、日本三大瓦の産地といわれる愛知県三河地方の「三州瓦」をつかいます。

耐久性があり、かつ明治期の瓦となじむ色味に調整できる瓦を探しました。良質の粘土を高温で焼き締めた均質な瓦は、明治期の瓦よりもグンと長持ちするはずです。




はい!
では、これから、 約1万3千枚の瓦を葺き替えていきたいと思います!


まず「大広間」を素屋根で覆います。




2016年7月

それでは、瓦をはずしていきましょう。

2016年8月



これは……土、でしょうか?



まごうかたなく土ですね!



ご覧ください!
こんな大量の土が、「大広間」の屋根に隠されていました……



「大広間」は壁の少ない構造の上に、瓦や土を積んだ重く大きな屋根が架けられた「頭でっかち」だとは聞いていましたが、想像をはるかに超えていました。
これでは非常に重いはずです。

屋根全面に敷きつめた土(粘土に川砂や石灰を混ぜたもの)に、瓦をのせて安定させる工法を、「土葺き」といいます。 昭和20年代までは、この工法が主流でした。これだけの量の土なら、断熱効果も高そうです。
屋根の板の上に杉の皮などの下葺き材を敷き、その上に粘土をのせ、粘土の接着力で瓦を固定するそうですが、こんなに石がゴロゴロあって大丈夫だったのでしょうか。

現在は、葺き土を使用しない 「空葺き」工法が一般的です。


文化財の修復は、本物としての価値を損なわないため、現状維持を原則としますが、今回の修復工事では、「土葺き」を「空葺き」に替え、瓦も旧瓦よりも軽い「三州瓦」をつかいます。

屋根をできるかぎり軽量化して、耐震性を高めるためです。
「大広間」内に出入りする見学者の安全確保を、何よりも優先して決めました。





それでは、こちらのバキューム車で、土を取り除いていきましょう!









「大広間」屋根の土の除去作業
【注意:掃除機に似た音がします】

観光客に配慮して、砂埃が舞わないようバキュームで吸い込みました。土というより礫に近く、手作業で砕かないと吸い込めません。吸引力を高めると、野地板の上に敷かれている杉皮まで吸い込むので、加減が難しかったそうです。

想定以上の大量の土を、なんとかバキュームで吸いあげました。



無事、土もなくなりました!
これからは倍速でお見せしていきます !


細い木で押さえれられていた杉皮が撤去され、野地板 ノジイタ (屋根の下地板)があらわになりました。 さらに野地板もはずしていきます。



垂木 タルキ(棟から軒にかけた斜材)は、なるべく元の木材を残しながら、腐朽した部分を修理しました。



あわせて950枚ほどの野地板を新しく張った上に、「改質ゴムアスファルトルーフィング」(合成樹脂を混合したアスファルトを浸透させた防水紙)を敷いていきます。



ルーフィング(防水紙)の上に縦横に桟木 サンギを打ち付け、針金や釘で瓦を桟木に固定します。



最後にかわいくデコっていきましょう!

立花家の家紋「祇園守紋」があらわされた鬼瓦は、旧瓦と寸分たがわぬよう、焼成後の収縮率を計算した上で、手彫りでつくられました。




はい!完成です!!

2017年8月



ビフォーアフターは、こんな感じ。

なんということでしょう!
ただ瓦が新しくなっただけに見えます。


大量の土が失われ、屋根の重さが激減したことに、いったい誰が気づくでしょうか?(反語)


わたしと吉村さん(現場代理人)と河上先生(設計監理)と、バキューム作業に携わった少人数しか知りえない事実をわかちあった貴方に、ひとつお願いがあります。




立花伯爵邸「大広間」が超重い屋根に耐えてきた100年間を、どうか忘れないであげてください。   



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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かりそめの素敵な素屋根

2023/9/8

工事中の建物を風雨から守るために覆う仮屋根を、「素屋根」といいます。

文化財建築物の修復工事の現場では、各々の事情に合わせ「素屋根」が設営されますが、すべて工事後には解体され、その姿をとどめることはありません。


現在(2023年9月)、Googleマップ航空写真に見る「立花氏庭園」は、「大広間」修復工事中(2016-17) に撮影されていたようです。

国指定名勝の全貌が見えないのは残念ですが、今にいたるまで素屋根の姿が残されていて、わたしはとても嬉しいです。

工事終了後の全貌 は、Googleアースの航空写真で見られます。



現場代理人・吉村さんの頼れる背中

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」工事の現場代理人は、吉村さん。
センス・知恵・経験が豊富で、ものすごく頼りがいがありました。







「大広間」工事の素屋根には、吉村さんの英知がこめられています。



作業足場と素屋根の設営は、修復工事のはじめの一歩。
しかし、その前に大きなハードルがありました。


修復工事と観光の両立です。

民有の文化財である国指定名勝「立花氏庭園」の修復工事は、国・福岡県・柳川市からの補助をうけながら、所有者の株式会社 御花が主体となって実施します。

文化財保護のためには、「安かろう悪かろう」工事は許されません。
民間企業としては、文化財を活用して蓄えた資金を文化財の修復に費やすという運用をストップできないので、営業を続けていかねばなりません。


「大広間」はおよそ110歳、大規模な修復工事は今回が初めてです。

順次建てられた新築時とは異なり、北は「西洋館」、東は「御居間」、南は「松濤園」と密接しています。四方を文化財で囲まれた「大広間」まわりの狭さは、航空写真をみると一目瞭然でしょう。


修復工事中も平常とかわらず観光客を迎えるなか、文化財を傷つけずに工事作業をすすめるため、有識者による「名勝立花氏庭園整備委員会」でも議論が重ねられましたが、観光客の多少の不便は仕方ないという雰囲気でした。しかし、所有者の希望は、お客様ファーストです。


どうする吉村さん!

わたしは今も鮮やかに思い出せます。
工事の落札直後、吉村さんが「素屋根の改良案があるのですが」と言い出された瞬間を。



そして、「松濤園」展望デッキが組み込まれた「素屋根」が設営されたのです。

CNES/Airbus、Maxar Technologies、地図データ ©2023を加工

「工事後も展望デッキは残してほしい」と本末転倒な声があがるほど、大好評を博した展望デッキは、予定を超過して、素屋根を解体するギリギリまで活用され続けました。



素屋根足場に凝らされた吉村さんの工夫は、これだけではありません。


限られたスペースを効率的につかい、台風にも負けない強度となるよう、ブレース構造(筋交い)の枠組を多用したり、防炎シートをスムーズに張れるよう、屋根部分をフラットにしたりと、計算を重ねてています。
天井に半透明部分をスリット状に入れて、採光を確保。全体を覆うのは、内部に熱や湿気がこもらない通気性のシートです。


屋根材としては、トタン板(亜鉛鉄板)やタキロン(硬質塩化ビニール波板)などの候補もありましたが、手間・工期・費用・強度・勾配を総合的に判断して防炎シートに決めたと、吉村さんから聞きました。シートは継ぎ目ができないため、屋根の勾配を緩くできるそうです。


たとえば、福岡県西方沖地震(2005.3.20発生、柳川市は震度5弱)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)の「素屋根」と見比べると、屋根の形やつくり等の差違がわかります。

「御居間」は文化財建物に挟まれてないので、「大広間」まわりより余裕がありました。何より、松濤園のマツの木々との距離にもゆとりがあります。



「大広間」の工事では、どのように工夫してもマツが邪魔してきます。
しかし、素屋根足場の障害物となるマツも、国指定名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素です。文化財の一部として、保護しなければなりません。



マツには少し退いていただくことになりました。


しかし、これを理由に100年かけて育ってきたマツが衰弱したら、困ります。
前年に根回し(根の周囲を切って細根の発生を促す準備)をした上で、 2016年2月に仮移植しました。
「松濤園」には重機が入らないので、すべてが人力作業。とてつもない大仕事でした。

もちろん、工事終了後は、元の位置にきちんと戻っていただきます。

植木職人さんから「戻さなくても良いのでは?」と尋ねられました。
わたしも気持ちが傾きかけましたが、「名勝」とは「眺め」を文化財として指定されているので、指定時の「眺め」から変更することは許されません。
ふたたびの重労働の末、マツは工事前の位置に戻されました。




マツに退いてもらっても、作業スペースは確保できません。


解決策として、「大広間」と「西洋館」の間の中庭、ソテツの上空に作業用ステージを設けました。ここで素屋根のパーツも組み立てています。



しかし、ソテツも名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素
枯らさないため、 日照と雨水を確保できるよう配慮しました。



台風襲来!
嵐が来るぞ、”帆”をたため!!

「計算上どんな台風でも全く問題ありません」という吉村さんの言葉は非常に頼もしかったのですが、台風接近予報のたびに、”帆”をたたみ、ブルーシートで覆う手間はとても大変そうでした。




ふりかえってみると、現場代理人・吉村さんと、設計監理・河上先生と、素敵な「素屋根」とともにあった「大広間」修復工事の日々。



あの素晴らしい「素屋根」をもう一度……とは全く思いません。

2017年3月 
2016年4月発生の熊本地震による災害復旧工事も同時進行していました



かりそめがゆえの美しい想い出。


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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100年前の手仕事が、現代の機械には難しい……

2023/3/25

立花伯爵邸「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的に、平成28~31年(2016-2019)の修復工事は実施されました。
屋根瓦の葺き替えは、現代の機械により省力されましたが、機械化があだになった工程もあります。

とくに「大広間」の内装工事では、100年前の手仕事と、機械化が進んだ現代とのギャップに苦心しました。

金剛砂

例えば、「大広間」のガラス障子の格子模様。
奈良産の金剛砂(柘榴石)を吹きかけて削る、サンドブラストという技法によります。






【修理前】格子模様のないガラスが補完されています

修理工事では、(株)クライミング に、「大広間」のガラスを模造してもらいました。
通常は、ブラスト加工と薬品処理で “表情豊かなガラスを創る” を実現されている会社ですので、単純な格子模様はまったく難しくなかったのですが、意外な落とし穴がありました。

ガラスの厚さです。
明治43年(1910)築「大広間」のガラスは厚さが2mm、現代の一般住宅でよく使われるのは3~6mmなので、すこし薄めです。

この厚さ2mmのガラスに、通常どおり機械で砂を吹きかけると、ガラスが割れてしまいます。
しかし、風圧を落とすと、砂がノズルに詰まってしまう……

「大広間」の建具は厚さ2mmにあわせて作られているので、ガラスを厚くする手もありません。

職人さんも予期せぬ難点でしたが、「割れるな」と念を込めながら微調整を繰り返した結果、100年前の「大広間」のガラスが模造されました。

【修理後】すべて格子模様のガラスが補完されました

それ以上に苦心したのは、やはり「大広間」の壁紙です。




もう一度、修理前の壁紙をご覧ください。

【修理前】「大広間」東床の壁紙

お分かりいただけますでしょうか?

そこここに模様が抜けている箇所があります。

模様が緊密だと息苦しくなるため、適度に空白をつくり、軽やかに仕上げたのでしょう。
とってもお洒落です。

しかし、この空白をつくり出すのが一苦労でした。

京都から来た株式会社 丸二の職人さん達・設計監理・現場監督の三者により検討が重ねられました。

空白に法則性があるかも?と、長時間にわたり壁紙と向きあい続けた職人さん達。
ついには「”寿”という文字が見える!」と口走りはじめました。

あたかもランダム・ドット・ステレオグラムのように、「目を凝らせば見える」と。

ランダム・ドット・ステレオグラム一昔前に流行しましたが、ご存知でしょうか?
わたしは見えた経験は全くないのですが、言われるがままに壁紙を凝視します。


なんとなく”寿”が浮かびあがってくるように感じました……



結局、無作為だろうという判断におちつきました。



元々の「大広間」の壁紙の模様は、版木をつかって擦られたものでした。

株式会社 丸二さんが、版木による色擦りについて、とてもわかりやすい動画を公開されています。

「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)

絵具のせの段階で、のせたりのせなかったりと、無作為にムラをつくったのでしょう。

当時の職人さんの気持ちでつくられた空白には、文字は隠されてないはずです。



壁紙を張り替えるにあたり、この”無作為”が、最大の難点でした。

現代でも動画のように手仕事をお願いできますが、予算をとてつもなく超過してしまいます。

文化財を末永く保存活用していくためには、無尽蔵ではない予算を上手に配分せざるを得ません。
補助金を交付する国・福岡県・柳川市と相談しながら、名勝立花氏庭園整備委員会で修理の方針を決めていきます。



現代の機械をつかって、可能な限り「大広間」の壁紙に近いモノを制作することになりました。
つかう技法は、版木のような凸版ではなく、孔から絵具を通して刷る孔版です。ステンシルや合羽刷りともいいます。

“寿”を空目した職人さんたちにより、バランスよく空白を入れた4パターンの型紙が描きおこされました。

4パターンの型紙 福井県越前市 前田加工所にて

そこに、金銀2色刷と組み合わせることで、意図的に無作為をつくり出しました。(わたしは計算が苦手なので、4パターンの型紙×2色の場合、何通りの模様が出来るのか全く見当もつきません)

金色のみ印刷した壁紙 福井県越前市 前田加工所にて

100年前の手仕事とくらべると、すごく遠回りはしましたが、現代の機械でも、適度に空白のある軽やかな壁紙が出来ました。

【修理後】「大広間」東床の壁紙

わたしには見えませんが、もし”寿”の字が見えた方がいらっしゃいましたら、挙手をお願いします。



参考文献
株式会社クライミング(福岡県みやま市)HP株式会社 丸二(京都府)HPYouTube動画「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑

2023/3/15

平成28~31年(2016-2019)の修復工事がはじまる頃、(株)御花の古株社員の某氏から、深刻な表情で話しかけられました。

某氏「今度の修理では大広間の瓦もやりますか?」

「やります!すべて葺き替えます!これで雨漏りに悩まされなくなりますよ!」

暗い顔の某氏「今の瓦はどうなりますか?」

「残念ながら記録を残して廃棄ですねぇ」(古い瓦に愛着があるのかな?)

さらに暗い顔の某氏「言っていいものかどうか迷うのですが……」

「そんな話こそ聞きたいです!」

某氏「あのですね……新入社員の頃に大先輩から聞いた話なのですが」

(ワクワク)

某氏「大広間の建築資材は大阪から船で運んできたそうで」

(口伝だ!大阪から運んだことは報告書でも読んだぞ〔註1〕

某氏「その船上でですね」

(船上!ワクワク)

声をひそめた某氏「大広間のための瓦が粗悪品とすり替えられたそうなんです……」

(え!!!!)

某氏「木材は建てた後も殿さん〔註2〕の視界に入るけれど、瓦は屋根に載せたら最後、絶対に殿さんの目には入らないからバレない、と」

(すごくもっともらしい!騙され方が、とても殿さまっポイ!)

某氏「大広間の瓦は、出来が良くないからヒビが入って、だから雨漏りするんですよ」

(これは事実。実際、大広間の瓦は焼き締めがあまく経年劣化が激しいです〔註3〕

某氏「柱などの木材はすべて立派じゃないですか」

(これも事実。選りすぐりの木材が使われています〔註4〕

某氏「木材と瓦の品質に差がありすぎるのは、殿さんが騙されたからだと大先輩が言ってました」

(ちゃんと筋が通ってる!信じちゃう!)

深刻な某氏「殿さんが騙された話は、おおっぴらには言えないので、今まで黙ってきました」

(えらいな、社員の鑑だな)

とても深刻な某氏「でも、瓦も修理するなら、白日の下にさらされるのですよね……」

「安心してください、殿さんは騙されていません。大前提が違ってます。木材は大阪から取り寄せましたが、瓦は地元の柳川周辺でつくられたものです

某氏「え!!!!そうなのですか?
でも、木材はわざわざ遠方から取り寄せたのに、なんで瓦はそうしなかったのですか?」

「それはですね、瓦はとても重く、そして大量の瓦が必要だったからです。 当時の輸送力では、遠方から瓦を運ぶのはとても難しく、地産地消となったのです

某氏「じゃあ、騙された殿さんはいなかったのですね、よかった……」

以上、多少脚色しましたが、実話です。


おそらく御花の大先輩は、目の前のチグハグさを、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、知らずにストーリーを作ってしまったのでしょう。とても興味深い事例です。
そして、殿さんが騙された話は絶妙に面白く、確証がなければ、わたしも完全に否定できなかったかもしれません。

註を解説しながら、騙された殿さんがいないことを証明していきます。

まずは、註2:殿さんは、柳川ではトンさんと読みます。


註1
国の指定文化財を、国・県・市などから補助金を交付されて修理する場合、修理の前後をきちんと記録に残すために、報告書を作成しなければなりません。

(株)御花が主体となって実施した修理工事の報告書は、2007年『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』、2020年『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』の2冊があります。

報告書の作成にあたり、有明高等工業専門学校建築学科教授・松岡高弘氏と(株)河上建築事務所・河上信行氏が中心となって、残された図面や古文書類まで丹念に調査され、その成果も報告書にまとめていただきました。

とても充実した内容の、自慢の報告書です。


註3
立花伯爵邸の瓦は、瓦に刻印された地名から、地元柳川でつくられたことがわかります。

現在、全国の瓦の多くは、限定された生産地域でつくられた機械製品です。しかし、昭和初期ころまでは、それぞれの土地で焼かれた手作りの瓦がつかわれていました。

修理前の瓦は、土の耐火度が低いために焼き締めが十分でなく、100年の経年劣化もあわせて、「凍害」「割れ」「欠け」のある瓦が多く見られました。

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、明治期の瓦に色が近く、耐久性のある瓦をもとめ、瓦の日本三大産地のひとつ、愛知県の三州瓦を約1万3千枚つかっています。


註4
立花伯爵邸の材木「御建築用材」の調達は、成清仁三郎さんが請け負い、長崎・大阪・名古屋で材木の市場調査の末、材料や木挽人夫等の手間賃の高騰に困らされながも、ケヤキ・ヒノキ・スギ・ツガ・マキ・タガヤサン等を大阪から納入したことが、残された文書資料からわかります。

ただし、修理で発見された板の摺書には、秋田や宇都宮の地名も見られるので、全国から集められた中で選りすぐりの良い材木を見分したのでしょう。



報告書では、刻印や摺書の写真や、ほかの文書資料なども掲載され、註3と註4がさらに詳述されています。



実際の修復工事にて、大型トラックやクレーン車、瓦を屋根に揚げる機械「瓦揚げ機」の大活躍ぶりを目にすると、100年以上前に人力のみで瓦を葺いた際の労力は計り知れません。

この修復工事をつぶさに見学した経験と、報告書の記録により、 わたしは確信をもって瓦の疑惑を否定することができます。


ですが、歴史を学ぶ必要性を実感する、とても良い教材となりました。


参考文献
名勝松濤園修理事業委員会 河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

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Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。




最近は床の間のない住宅が主流になりつつあります。
床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も多くはありません。
床の間になじみのない方に、テキストだけで説明するのは難しすぎるのだけれど、どうしよう……


そんなときは新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。
立花伯爵邸内のGoogle撮影に立ち会ったのに、すっかり忘れていました。
画像の拡大も、360°回転も可能です。


さっそく、立花伯爵邸「大広間」東床を、のぞいてみましょう!

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にうってつけのメディアです。
東床と西床とを並べて、”間違い探し” もできます。

「大広間」東床・西床の詳細を知りたい方はコチラ




ついでに、立花伯爵邸「御居間」棟の「床の間」も並べてみます。

現在「御居間」は柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用され、通常の有料見学範囲には含まれておりませんので、ご注意ください



最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

左上に見える欄間の意匠は「帆の丸祇園守紋」。立花家の家紋「祇園守紋」のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。



ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。



隣は寛治の書斎であった「鈴の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

右をのぞくと見える欄間の意匠は「崩し祇園守り紋」。これも立花家の家紋のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。




「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。
伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左上に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



寛治の三番目の妻・鍈子(明治31年結婚)の居間が「花の間」です。
伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左をのぞくと見える欄間の意匠は梅、やわらかく洒落た雰囲気になっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



なんということでしょう!
各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。
さらに、視点を変えて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

「立花伯爵邸」の「床の間」には、当主をトップとするヒエラルキーが明確にあらわされています。
柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅の特徴でしょうか?



よそのおうちの「床の間」がとても気になる……
数多くの作例を見るほど、「床の間」を “見る目” も養われていくはずです。


明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準に、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、《オンラインツアー「床の間」拝見》にGO!!



まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビューもオススメします*

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。
さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。かわりに襖に趣向が凝らされ、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。

「四分一」?と思われた方はコチラ





旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格が下げられています。紙貼り付け壁ですが、「四分一」はありません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱は鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。 伯爵家から傳右エ門 嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1.5間の畳床、床柱は赤松の面皮柱筍面付、床框は三色黒漆塗の面皮塗残し、丸竹の落掛け。床脇は欅玉杢の一枚地板に亀甲組の天井が見えます。




次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。

文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』) より引用

贅を尽くした旧毛利家本邸では、 誰もが豪華さに圧倒されます。

とくに、先に “11万石” “外様” “伯爵” という「立花伯爵邸」を見ておくと、「旧毛利家本邸(毛利博物館)」が醸し出す ” 36万9千余石 ” “薩長土肥” “公爵” という風格がより強く、はっきりと感じられるので、オススメです。


わたしのイチオシは「旧毛利家本邸」の「本館客室(一階大広間)」。
絶妙な画角で「床の間」が拝見できないのが惜しまれます。
極めてゴージャスなので、ぜひとも現地を訪問して御確認ください。




最後は、洋館と和館を併設した住宅というつながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名です。

「大広間(和館)」の床柱は正角、おそらく杉の四方柾でしょうか。
この部屋の格の高さがわかります。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。*畳床に通常の畳を縦に用いている点が合理的です。



Googleマップツアーって、とても楽しい!
「みんなちがって、みんないい」



「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」の話はコチラにもアリマス





参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸HP(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、『飯塚市指定有形文化財 旧伊藤伝右衛門邸修復工事報告書』2007.3.31 飯塚市、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

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フレキシブルな「大広間」床の間[後半]

2023/2/22

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の西側の床の間「西床」を復原しました。




参考としたのは、一枚の古写真と柱や梁に残された痕跡です。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

河上建築事務所による入念な調査の末に、復原のための設計がなされました。

理想としては、元の「西床」の木材を再利用したいところですが、関係者一同、誰も心当たりがありません。
ステージの改造は、およそ半世紀前。
当時は文化財であるという意識も薄かったので仕方ないと諦めて、新造する設計になりました。

修復工事がはじまった頃、わたしは倉庫で丸太につまずきました。
年に5回ほどしか来ない倉庫なので、毎回忘れて、毎回つまずくのです。

なぜここに 丸太が 転がっているのだろう?
長くて重くてすごく邪魔……と思った瞬間、ハッとひらめきました。

これって「西床」の木材じゃない?!

きちんと見ると、長さ12尺(3.6m)ほどの鉄刀木 タガヤサンで、ホゾ穴があき、加工されています。東南アジア産の鉄刀木は、漢字のとおり非常に硬くて重い高級木材であり、よく床柱として使われる材です。

急いで設計監理の河上先生に報告すると、フレキシブルに設計が変更され、「西床」の床柱として組み込まれることになりました。



きれいに洗われて、今では立派な床柱によみがえっています。




見るたびに、これぞ適材適所としみじみ思います。


修復工事後に、戦前から立花家・御花に勤めていた番頭さん(故人)が「大広間の床柱と仏間廊下のケヤキ板を床下に入れた」と仰っていたという証言を聞きました。
現時点では床下ではなく倉庫ですが、ケヤキ板もちゃんと保管されていますので、ここに記しておきます。



よみがえった「西床」の床柱は鉄刀木の面皮柱です。
「東床」はどうでしょうか?



2017年8月のGoogle撮影時は床框 トコカマチ(床の間の前端の化粧横木)に保護カバーが被せられていますので、こちらもご覧ください。

大広間「東床」修復後
ちなみに修復前の「東床」

お分かりいただけますでしょうか?

「東床」の床柱は杉の角材です。
数寄でも侘びでもなく、まったく面白みはありません。

しかし、この柱は「四方柾 シホウマサ」
四面すべてを細めで均一な柾目 マサメ(まっすぐな木目)にするために、数倍の大きさの丸太から贅沢に切り出された最高級品です。

また、縦の床柱と横の長押 ナゲシ との接点(釘隠 クギカクシ のある所)での、長押が裏までまわりこむ取付き「枕捌 マクラサバキ」や、床框の黒漆蝋色塗 ロイロヌリ での仕上げなど、すべてに手間がかけられています。

つまり「東床」は、最も格式が高い床の間としてつくられているのです。

ちなみに「西床」は、長押が床柱の正面でとまる「雛留 ヒナドメ」という取付き、床框は拭き漆仕上げとなっていて、一段階ほど格が下がります。

それでも、床の間の畳「畳床」にはサイズ(東床は約390×120cm、西床は約242×95cm)に合わせた大きな特注品(一般的な畳のサイズは約182×91cm)が使われるなど、シンプルですが贅沢です。



修復工事では、「東床」の床框も塗り直しました。

「東床」の蝋色塗仕上げも、 「西床」の拭き漆仕上げも、どちらも丹念な手仕事です。とくに「西床」は、 参考資料が白黒写真しかなかったため、色合わせに苦心しました。

木地に油分を含まない漆を塗り、木炭で研ぎ出し、さらに磨いて光沢を出す「蝋色塗仕上げ」の工程は、古研ぎ→錆繕い・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り鏡面仕上げ。
木地に透けた漆を塗り、余分な漆を拭き取る「拭き漆仕上げ 」の工程は、生漆固め・研ぎ→ 錆下地付・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り。
どちらも下塗り3回に上塗り1回という工程を重ねています。


この艶めき、キズひとつ付けてはならぬ!と心に誓いました。


実際の「大広間」では、どうか、お手を触れずにご鑑賞ください。



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フレキシブルな「大広間」床の間[前半]

2023/2/13

明治43年(1910)築の立花伯爵邸「大広間」が誇る、 “明るさと軽やかさと新しさ” 、その “新しさ” のアピールポイントは、まだあります。




再び、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、 『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手にまた選んでみました。

「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

しかし、今回は床の間の向かい側をくらべます。
お手数ですが、3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』「大広間」(Matterport)にて、ふりかえってみてください。

*実際にふりかえると、畳廊下をはさんで「使者之間」があります。つまり、「大広間」からは出てしまいます*



では、立花伯爵邸「大広間」は? 

立花伯爵邸のGoogleストリートビュー「大広間」 にて、ふりかえってみてください。

お分かりいただけますでしょうか?

ふりかえると見えるのは、こちらの床の間です。

立花伯爵邸「大広間」西床 修復後

そうです、
立花伯爵邸「大広間」には、床の間(床・棚・付書院)が2つあるのです。

『高山陣屋』のような近世の書院造では、一方向の軸性が強調されます。

他方、立花伯爵邸「大広間」は、南側の庭園「松濤園」を隅々まで見わたせるような部屋の配置で、東西に床の間があるため、横の広がりを感じさせます。

東の床の間が主であり、西の床の間は、広間を分割して使用する際につかわれたのでしょう。
このフレキシブルさが、近代ならではの新しさだといえます。



実は、今ご覧いただいている西の床の間「西床」は、平成28~31年(2016-2019)の修復工事によって復原されたものです。

修理前はステージが設けられ、貸会場として「大広間」を利用される際には大活躍していました。

立花伯爵邸「大広間」西側ステージ 修復前

もちろん、明治43年(1910)の建築当初は、写真のような床の間でした。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

昭和42年(1967)ころには、ステージへと改造されたようです。

床の間 → ステージ → 床の間復原 という変遷なら、をみると、ステージの時代は不要だったと思われるかもしれません。
しかし、フレキシブルに姿を変えてきた「西床」は、立花伯爵邸の歴史をそのまま反映しているのです。



昭和25年(1950)に立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なった状況で、収入源を確保するため、立花家は料亭・旅館業をはじめます。

「大広間」は、宴会場として地元の人々に頻繁に利用されるようになりました。
宴会には余興が欠かせません。
需要にこたえて「西床」が解かれ、ステージが設けられたのです。

時代に即したフレキシブルに 改装などにより、料亭旅館「御花」は創業70年をこえる老舗となり、立花伯爵邸は失われることなく、新築時からの姿を大きく変えずに残されました。


築50年は珍しくはありませんが、築100年をすぎると文化財として扱われるようになります。現に、旧大名家の明治期の住宅が良好に保存されている例は全国的に見ても希少であり、立花伯爵邸をふくめた「立花氏庭園」は、国の名勝に指定されています。



文化財となると、今度は「変わらない」努力が求められます。

文化庁の指導に基づき、国・福岡県・柳川市のご協力を賜りながら、適切な維持管理に努めるなかで、「大広間」の修復工事が計画され、そこに「西床」の復原も組み込まれたのです。
文化財建造物の修理の際に、改造前の姿に戻すことを「復原」と言います。


それでは、一枚の古写真と、柱や梁に残された痕跡をもとに、「西床」はどのように復原されたのでしょうか?




参考文献
高山陣屋HP(岐阜県)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ

2023/2/6

立花伯爵邸「大広間」の明るさと軽やかさのヒミツは、修復前の写真にも写っています。

お分かりいただけますでしょうか?

2016年7月 修復工事の直前

現代を生きる私たちは、明るくて広い室内空間に慣れすぎているため、驚きなく「大広間」を受け入れてしまいます。

よく畳の数を質問されますが、わたしが宣伝したいのは軽やかな開放感です。

ただし、「大広間」は襖で3室に区切られますが、近年はすべての襖をはずしているので、より開放感が増しております。

蛇足ですが、平成28~31年(2016-2019)の修復工事 で新調全交換した「大広間」の畳の数は、97枚+半畳2枚+本床2枚です


立花伯爵邸「大広間」は、室町時代にはじまる住宅建築の様式「書院造」をきちんと踏襲し、旧大名家にふさわしい格式を備えています。

書院造 →わかりやすい動画解説「書院造」(『NHK for School』)

本来は呼称のとおりの書斎でした。
 例:『吉水神社書院』【重要文化財】、『慈照寺東求堂【国宝】

時代が下がると、接客や儀礼の場として使われるようになり、大規模な書院もつくられました。
 例:『二条城 二の丸御殿【国宝】、『本願寺書院(対面所及び白書院)【国宝】、『名古屋城 本丸御殿(復元)』

※画像が見られる例を選びましたので、ぜひ各サイトもご覧ください。とくに名古屋城本丸御殿は、3Dバーチャルツアー (Matterport) 『本名古屋城丸御殿(表書院をスタート地点に設定)』も楽しめます。



しかし、明治41年(1908)築の立花伯爵邸「大広間」には、近代ならではの新しさもあります。


新しさを実感できるよう、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手に選んでみました。

岐阜県高山市「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

立花伯爵邸「大広間」修理後の写真ですが、見くらべやすいので

このように並べると、よくわかるのではないでしょうか?

立花伯爵邸「大広間」の柱の数が少ないのは、一目瞭然です。

3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』(Matterport)では測定もできます。
ためしに比べると〔 高山陣屋/立花伯爵邸 〕、 柱と柱の間は1.7m/5.88m と、立花伯爵邸「大広間」が3倍も広くなっています。ちなみに 柱の高さ2.83m/3.64m 、柱の太さ12cm/15cm でした。

2017年6月 障子の張り替え


また、障子・ガラス障子・欄間障子がはめられていて見過ごしがちですが、とにかく壁面がありません。
加えて天井も高いので、とても明るく軽やかで開放感がある室内空間となっています。






2017年7月 細い柱と長押しかありません



この開放感ある室内空間は、建築当時の新技術によって実現できました。
明治時代に日本へもたらされた技術の1つ、トラス構造で屋根を支えているのです。

立花伯爵邸「西洋館」「大広間」断面図  トラス構造「洋小屋」

従来の屋根の構造、いわゆる「和小屋」では、屋根を支える力を下へと流します。他方、三角形のトラス構造「洋小屋」は、力を外に分散させるので剛性が高くなり、各部材をより細く、柱と柱の間をより広くすることができます。

木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」
(明治36、7年頃)東京都立図書館蔵


例えば、同時代の設計例の木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」(明治36、7年頃 東京都立図書館蔵)は、斜めの筋交いはありますが、屋根の重量を1本の梁材にもたせる「和小屋」です。








東京都立図書館「木子文庫」
内裏の作事に関わる大工であった木子家に伝わる建築関係資料群。 明治期以降、帝国大学の建築学の講師や教授を勤めた木子清敬、幸三郎関係の建築図面や建築写真など約29,000点があり、明治宮殿をはじめ近代の宮殿建築の主要なものをほぼ網羅する。
*「立花伯爵邸」と同時代の建築図面や建築写真が多数公開されています*


現在も「和小屋」と「洋小屋」は使い分けられているので、新技術だからといって、日本の屋根の構造が一変した訳ではありません。

実際、立花伯爵邸「御居間」棟の屋根は「和小屋」です。必要な室内空間の広さにあわせて使い分けたのでしょう。

「大広間」の屋根を、並列する「西洋館」と同じトラス構造としたのは、近世にはなかった、明るく軽やかな広い空間が求められたからではないでしょうか。



また、立花家のお歴々は、とても「新しモノ好き」だったようです。



立花伯爵邸の新築から現在まで、およそ110年が過ぎました。
その間、めまぐるしく産業技術は更新され、最新技術がすぐに古びてしまいます。
現代において、はじめて伯爵邸がお披露目されたときの、人々の新鮮な驚きを追体験するのはとても難しい……

どうにか時代を遡って、立花伯爵邸「大広間」が誇る “明るさと軽やかさと新しさ” を実感してもらおうと、ここまで長々と書き連ねてきましたが、実はまだ終わりではありません。

この機会に声を大にして、とことんアピールしていきます。




参考文献
NHK for School国指定文化財等データベース(文化庁)吉水神社(奈良県)臨済宗相国寺派銀閣寺(京都府)元離宮二条城(京都府)西本願寺(京都府)名古屋城(愛知県)高山陣屋(岐阜県)木子文庫(東京都立図書館)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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