Twitter
Instagram
facebook
Twitter
Search:

立花宗茂、下り汽車で柳川へ帰る

2024/11/4

明治36年(1903)から昭和53年(1978)まで柳川で発行されていた新聞『柳河新報』

大正14年(1925)9月19日の3面にこんな記事が。

宗茂公の御遺骨帰る 
代々の藩主のも臣下のも共々菩提寺福厳寺に帰葬

山門郡柳河旧藩主立花宗茂公 二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 及家臣の遺骨二十七個 其他 各遺物数個は既報の通り 東京都下谷区広徳寺住職福富龍瑞師 及並に安東家扶の随供にて去十四日午前九時四十分の下り列車にて矢部川駅着

同駅には吉田 大村 両家扶を始め 各家従 其他 有志多数の出迎へ 各遺骨は二台の自動車に乗せ 出迎への一同は数台の自動車に分乗し 沿道は伝習館、女学校、盲学校 其他 各小学校 一般有志の参列者 柳河町より城内へ数丁に亘り 同午前十時五十分 立花家菩提所城内村福嚴寺に到着 立花寛治伯 同夫人 令嗣鑑徳氏 夫人 及御家族の出迎にて福嚴寺御堂に入り厳粛なる帰葬を執行し 龍岡同寺住職 以下各宗僧侶数十名の読経 導師の香語に次で 立花伯爵夫妻を始め一門の人々の焼香参詣し 午後一時頃終了したが 会葬式者は 城内村軍人分会員、同村青年団会、處女会員、柳河婦人会員及び一般有志 五百余名に上つた



初代柳川藩主・立花宗茂が柳川に帰ってきました!

大正14年9月14日午前9時40分矢部川駅(現 JR九州鹿児島本線瀬高駅)着の下り列車にて、初代柳川藩主・立花宗茂をはじめ広徳寺や宗雲院に埋葬されていた御遺骨が福岡県柳川へ帰ってきました。

東京からの下り列車に乗って!

宗茂にとっては、島原の乱が終結した寛永15年(1638)3月頃、江戸へ戻る前に柳川城に立ち寄って以来、およそ240年ぶりの柳川入りです。


大勢の出迎えの人々が、柳河町から城内への数丁の沿道に並んでいたようです。

おそらくはこんな感じで。

こちらは、宗茂の帰郷から10年後に撮影された動画です。
昭和10年(1935) 4月立花伯爵家の一人娘・文子が、元帥島村速雄の次男・和雄と結婚、披露宴のため柳川に帰郷しました。動画冒頭では、矢部川駅から立花邸までの道沿いに並ぶ、出迎えの人々が映されています。



午前10時50分、車は柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺(現 柳川市奥州町)に到着、子孫の立花伯爵家家族に出迎えられました。福嚴寺でも僧侶数十名により読経と500余名の焼香参詣をうけるほどの歓迎ぶりでした。

立花伯爵家の経営庶務を担当する家扶・家令が残した記録「立花家令扶日記」からは、新聞記事の内容に加えて、一般参拝者に茶菓が配られたこと、広徳寺住職は大和屋に宿泊、翌日に立花伯爵と晩餐を共にしたこと等もわかります。

「立花家令扶日記」では、大正14年12月19日に「大円院様御始メノ御遺骨福嚴寺ヘ御合葬」、12月26日に「御合葬御改葬ノ諸霊ノタメ福嚴寺ニ於テ御供養」と記されているので、東京からの改葬の一件は12月まで続いたようです。



他の一族も帰ってきました。

翌大正15年(1926)7月17日の『柳河新報』の見出しはこちら。

「祖先の御遺骨 東京谷中の寺院より福厳寺へ御改葬」

このときは「東京谷中の本誓寺及霊岸寺御墓所へ御埋葬の玉樹院様、瑞松院様、長寿院様始め十七霊の御遺骨」が「去十六日午後三時十分の矢部川駅着の列車」で帰ってきました。
ひと月のうちに各々が良清寺や瑞松院などに改葬され、供養されています。



柳川藩主立花家の遺骨が柳川の福嚴寺に集められた契機は、大正 12 年(1923)9月1日の関東大震災だと推測されます。東京市内の多くの寺院が大火災により焼失、復興にともなって境内地や墓地の区画整理がおこなわれました。

例えば広徳寺は、都市復興計画に従って郊外移転が促進され、大正14年3月下練馬村(現 東京都練馬区)に約1万坪の土地を購入、5ヶ年計画で下谷区(現 東京都台東区)から移転しています。
移転計画準備中に数度調査に出かけたという墓蹟研究家・磯ケ谷紫江は「当時の墓石は二千六十四基で、そのうち一千二百十六基が有縁であった。改葬の際には無縁の一片の骨も残らぬよう堀かへし、打ちかへして拾い出しては練馬の新墓地に埋葬したと云う。」(磯ケ谷紫江 『廣徳寺共葬墓所考』1959.11.15 紫香会)と回顧しているので、広徳寺の墓所が掘りかえされるなら、国元の柳川へ帰そうと考えられたのでしょうか。

磯ケ谷紫江 編『広徳寺共葬墓所考』,紫香会,1959.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕



しかし、関東大震災より以前に、東京から柳川へ帰ってきてる方もいます。

大正14年(1925)9月19日 『柳川新報』の記事には「立花宗茂公同二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 」とありますが、実は忠茂さんは同行していません。
東京小石川徳雲寺に葬られていた忠茂と正室・法雲院の遺骨は、大正13年秋頃にすでに移され、忠茂は福嚴寺に、法雲院は法雲寺(現 福岡県大牟田市倉永)に改葬されています。このときは何があったのでしょうか。


辿ってきた経緯はそれぞれですが、 立花宗茂や忠茂はじめ旧柳川藩主立花家一族たちの多くの方が、今は福嚴寺で眠られています。静穏な菩提寺が後世まで守られ続けることを願ってやみません。




参考文献
福富以清『廣徳寺誌』1956.12.1 廣徳会

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

立花も伊達も毛利も池田もハマった?黄檗文化インパクト!

2024/10/29

2024年10月18日、黄檗宗大本山黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の三棟(法堂・大雄宝殿・天王殿)が文化史的意義の深いものとして評価され、重要文化財から格上げされて『国宝』へ指定されました。

隠元さんが来日した中国明時代末期頃の様式で造られた、ほかの日本の寺院では見かけることのない建築に圧倒されてしまいます。

YouTubeチャンネル「黄檗宗大本山萬福寺」より



この黄檗宗大本山萬福寺公式サイト内「黄檗宗末寺一覧」には、全国およそ460寺の黄檗寺院が紹介されています。


こちらを参考にわたしが数えたところ、黄檗寺院の所在はだいたい、西日本7.5割:東日本2.5割となっているようです。

とくに多いのが、京都、滋賀、福岡、大阪で、大本山萬福寺 がある近畿地方に4割以上が集中していますが、旧柳川藩領を擁する福岡も負けていません。東海地方も少なくなく、関東以北の寺院数は全体1割程度です。承応3年(1654)の来日以降、隠元さんが長崎と京都を往復したり江戸に赴いたりした街道に沿って、その影響が広がっているように感じられます。


これまで黄檗宗寺院とのご縁が薄かった方もいらっしゃるでしょうが、わたし自身は学生の頃に黄檗美術を学び、これまでいくつもの黄檗寺院を拝観してきたので、黄檗文化を知ってるつもりでいました。


しかし、黄檗宗の法式による旧柳川藩主立花家のお盆をのぞき見て、衝撃をうけました。

わが家も禅宗檀家ですが、知らない形のお供えです。
よそさまの宗教的な話題にふみ込むのは躊躇しましたが、法要を終えた立花家の方々に尋ねてみました。



「あれは何ですか?」「おしゃんこんさん たい!」
「もう一度お願いします」「あれは、おしゃんこんさん たい!」
「どんな漢字?」「おしゃんこんさんは、おしゃんこんさんやろうもん!」


旧柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺さんへ伺うと、荘厳さを増した同じお供えがありました。

そっとインターネットで調べました。
⇒慧日山永明寺(滋賀県米原市) HP 「黄檗事典」http://www.biwa.ne.jp/~m-sumita/oubakujisyotop.html

むかって右から青 セイ・黄 オウ・油揚げ・赤 シャク・白 ビャク・黒 コクとならぶ六味の供物は、「上供」と書いて「シャンコン」
中国語です。昔公民館で習った現代中国語の知識が役立ちそうです。


え~

経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残していると聞いてはいましたが……
黄檗寺院の建築や美術工芸品に中国っぽさを感じてはいましたが……

え~


先に渡来した仏教宗派も、そのときどきの中国文化を運んできました。瓦屋根の寺院も、当時は異様だったはずですが、時を経るなかで日本に馴染んでしまいました。400年ほどの空白期間をおいて隠元さんが持ち込んだ、当時最新の仏教と中国文化は、忠茂さんたちに新鮮な驚きを与えたのでしょう。



福嚴寺さんがコチラで、2024年10月13日に厳修された「福嚴開山鉄文禅師の開山忌」についてご報告されています。https://readyfor.jp/projects/fukugonji/announcements/346046

どことなく異国情緒を感じる写真を拝見すると、不謹慎ですがワクワクします。
黄檗宗は経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残しているので、不心得にも法要に参列できるチャンスを虎視眈々と狙っていましたが、願ってもない機会です。


忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

この度は、旧柳川藩主立花家の法要で行われていた、古より伝わる貴重な経典 「八十八 パーシーパー 佛名経」を僧侶7~8名が読経するという特別な機会となります。黄檗宗の読経は梵唄 ボンバイといわれ、中国式の発音による独特の節のあるお経です。他宗派にはあまり見られない太鼓や引磬などの鳴り物が加わることで、音楽のように美しく調和します。深遠な響きが堂内を包み込み、歴史ある空間の中で黄檗宗独特の法要に直接ご参加いただけるまたとない機会です。

お席に余裕があるため、今も参加のお申込ができます。



黄檗宗の読経「梵唄」 は、黄檗唐音とよばれる近世中国語(明代南京官話) の発音でおこなわれています。

例えば、多くの方が一度は耳にされる普回向「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」は、「願わくは此の功徳を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と訓読されます。そのまま漢文として読むと「がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう」です。

それが黄檗宗では「えんいつこんて ぷぎじいちえ ごてんいちょんせん きゃいこんちんふたう」となります。現代中国語の標準語(普通話)「Yuàn yǐ cǐ gōngdé  pǔjí yú yīqiè wǒ děng yǔ zhòngshēng jiē gòng chéngfó dào 」の発音に近く、知ってるはずの文言が、知らない響きで聞こえてきます。

この違和感を好む人もいれば、好まない人もいるでしょう。

おそらく忠茂さんは、わたしみたいに違和感を楽しむ方だったのでしょう。
目新しさへの興味を契機に、黄檗の禅や文化に傾倒したのではないかと推測されます。


黄檗文化にハマった柳川藩11万石の2代柳川藩主・忠茂と3代藩主・鑑虎。
同じようにハマった大名たちは、ほかにもいました。

多くの僧侶を排出して「黄檗三叢林」と称されたのは、仙台藩62万石藩主・伊達家の両足山大年寺(宮城県仙台市)、 萩藩36万石藩主・毛利家の護国山東光寺(山口県萩市)、鳥取藩32万石池田家の龍峯山興禅寺(鳥取県鳥取市)です。どの寺院も当時の藩主の熱い支援を受けて建立されました。



喜多元規筆 立花忠茂像 部分
立花家史料館所蔵

また、黄檗僧の肖像画「頂相 チンソウ」にならって、自らの肖像画を描かせた大名や旗本もいます。
斜め向きに描かれる肖像画に慣れ親しんでいた日本では、正面向きで陰影をつけてリアルに描かれる「頂相」のインパクトは大きかったと想像されます。忠茂も「頂相」 にならった肖像画を描かせていますが、これはまた別のお話で。









福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。立花も伊達も毛利も池田もハマった黄檗文化インパクトを、体感してみませんか。

参考文献
服部祖承「黄檗宗独特のお経」(大法輪編集部編『禅宗で読むお経入門』1983.10.26 大法輪閣)

【ココまで知ればサラに面白い】
普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
⇒これまでの話一覧   ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂③

2024/10/26

義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまった2代柳川藩主・立花忠茂[1612~75]
実は、義祖父・道雪の法名を由来とする寺の宗派と名前も変えているのです。






天正3年(1575)立花山麓(現 福岡県新宮町)にある曹洞宗の花谷山神宮寺に、戸次道雪[1513~85]の継母・養孝院が葬られ、元中2年(1385)からの寺号が立花山養孝院と改められました。つづいて、天正13年(1585)に道雪も葬られ、法名「福厳寺殿梅岳道雪大居士」にちなんだ寺号「立花山梅岳寺」に改められます。


天正15年(1587)宗茂が柳川城主となると、梅岳寺も立花家の香華所として柳川の地へ移されますが、養孝院と道雪の墓はそのまま立花城下に残されました。

改易された宗茂が、柳川から離れていた間の梅岳寺の状況はわかっていません。


元和6年(1620)宗茂が初代柳川藩主として戻ってくると、曹洞宗梅岳寺は柳川城内の中核に復興されます。
ちなみに福嚴寺所蔵の戸次道雪肖像画の賛は梅岳寺3世・大機全雄、立花宗茂肖像画の賛は4世・賢鐵彦良によるものです。


寛文9年(1669)3代柳川藩主・鑑虎[1645~1702]により、梅岳寺は臨済宗黄檗派に転ぜられ、寺号が「梅岳山福厳寺」と改められます。
臨済宗黄檗派は、中国の僧・隠元隆琦[1592~1673]が開いた黄檗山萬福寺(現 京都府宇治市)を本山とします。明治9年(1876)に臨済宗から独立して黄檗宗となりました。
日本でいう「禅宗」は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗ですが、黄檗宗は、経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している点で、他の二宗と大きく異なります。


え!3代柳川藩主・鑑虎? 忠茂の話ではなかったの?


安心してください!

臨済宗黄檗派の梅岳山福厳寺が開かれたのは、2代柳川藩主・忠茂の意向でした。


承応3年(1654)中国・明の高僧である隠元が、招請により弟子たちと来日【忠茂43歳】
寛文元年(1661)徳川幕府のすすめを受け、隠元が中国の自坊と同じ名の「黄檗山萬福寺」を開く【忠茂50歳】
京都の萬福寺には、戒律を重んじる正統な中国臨済宗と厳格な仏教儀礼がそのまま移され、最新の中国生活文化が持ちこまれました。鎖国体制にあった当時、明僧と黄檗寺院は、日本人が接触できる数少ない異文化への窓口となったのです。


寛文5年(1665)前年隠居した忠茂【54歳】は、隠元の高弟・木庵性瑫[1611~84]と、江戸ではじめて面会します。隠元を追って来日した木庵は、この前年に法席を継ぎ、萬福寺2世住持となっていました。面会を機に忠茂は木庵と禅要の問答をくりかえし、延宝3年(1675)には木庵から嗣法するまでに至っています。同年、忠茂は自らの菩提のため、萬福寺に塔頭別峰院(開山は鉄文)を建立しました。

寛文9年(1669)3月 忠茂【58歳】と3代藩主・鑑虎【25歳】は、木庵と木庵の法弟・鉄文道智[1634~88]を江戸屋敷に招き、立花家の菩提寺である曹洞宗梅岳寺を黄檗派に転じて梅岳山福厳寺という新寺を開きたいこと、柳川藩出身の鉄文を開山に迎えたいことを願います。
当時、キリスト教禁制を目的に幕府が寺檀制度を確立させ、新寺の建立を禁止していたので、黄檗寺院の新設には転派や再興という名目が必要でした。

寛文9年(1669)8月求めに応じた鉄文は柳川に入り、福厳寺を開きました。

延宝2年(1674)10月1日 鑑虎による伽藍整備が進み、大雄宝殿、選仏場(禅堂)、禅悦堂(食堂)、方丈などの諸堂と釈迦三尊像、四天王像などの諸仏が開堂開光されました。
鉄文は藩内に次々と黄檗寺院を創建し、後継者たちも福厳寺の末寺を増やしていきます。黄檗寺院創建の波は柳川藩に限らず、日本全国に拡がっていました。



隠元の来日直後から、渡来中国僧との交流を求める大名や上流武士たちが少なくなく、彼らの援助により、およそ90年間で千寺以上の黄檗寺院が建立される勢いがありました。
しかし、後進のため檀家を得ることが難しく、中国僧の来日が途絶えた江戸時代中期には、無住に戻った寺もありました。さらに明治維新や廃仏毀釈により黄檗寺院は半減しますが、柳川藩領の黄檗寺院は明治5年(1872)時でも40ヶ寺を数え、他藩よりも格段に黄檗文化が根付いていたことがうかがえます。



黄檗文化!?

隠元さんが隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚、明朝体、原稿用紙などを持ち込み、日本の文化全般に影響を及ぼしたことは、歴史の教科書で読みました。
実際に、萬福寺や長崎興福寺などを拝観して、中国明朝様式の建造物に圧倒された思い出もあります。
ですが、長い歴史を誇るほかの禅宗をこえて当時の人々を魅了する力が、黄檗文化にあったのでしょうか?



幸いなことに、忠茂、鑑虎、木庵、鉄文がかかわって開かれた梅岳山福厳寺は、現在も立花家の菩提寺として、黄檗宗の法式による供養を続けられています。

江戸時代の大名280家余のうち、藩主が黄檗寺院に埋葬された家は20家ほどですが、一代限りの例がほとんどで、黄檗寺院を歴代の菩提寺とした家は多くありません。なかには明治時代に宗旨を神道に替えた家もあるので、菩提寺として旧大名家とのつながりを保ち続けている黄檗寺院は珍しいのです。
したがって、旧大名家の菩提寺で黄檗宗の法式による供養に参列する機会は、ものすごく希少だと言えます。

たまたま立花家の法要を覗き見する用件がなければ、わたしは今も「経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している」実態を知らないままでした。
この時はじめて、黄檗文化に傾倒した忠茂さんたちの気持ちを理解できました。






未知の文化に出逢った衝撃! このトキメキは見らんとわからん!

忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



戦国の世が過ぎ、体制が安定する手前の、落ち着かない時代を生きた忠茂さん。
宗茂の祖業を懸命に継ぎながら、時に福嚴寺を開いたり雷切丸を譲ったりと大胆さをみせるギャップが、大変興味深いです。



参考文献
錦織亮介「第4項 黄檗文化への傾倒」86-98頁(柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』2007.3.22 柳川市)、穴井綾香「黄檗禅への帰依」44-45頁(  柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市)

柳川市史関連図書はコチラで購入できます





【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂②

2024/10/23

来月11月6日に350回忌をむかえる前に、前回の “立花忠茂[1612~75]ってどんな人?” をもっとフカボリしてみます。






あらためて、「第1章 宗茂と忠茂」(『図説柳川家記』34-57頁)や「藩主忠茂の時代」(『柳川の歴史4 近世大名立花家』314-343頁)を参考に、忠茂の人生をライフステージごとに見ていきましょう。

柳川市史関連図書はコチラで購入できます






慶長17年(1612)7月7日 立花宗茂の5歳下の弟・高橋直次〔1572~1617〕の4男として誕生。即日宗茂〔46歳〕 の養嗣子「千熊丸」に【忠茂1歳】
慶長19年(1614)忠茂実父・直次 〔43歳〕常陸国柿岡(現 茨木県石岡市)5千石の旗本となり「立花」と改名、宗茂〔48歳〕と大坂冬の陣、翌年夏の陣に徳川方で出陣 【3歳】
元和6年(1620)11月27日 義父・宗茂〔54歳〕が筑後国柳川11万石に再封決定【9歳】
元和8年(1622)12月27日元服 「左近将監」に。実名は2代将軍・秀忠の偏諱をうけ「忠之」に。後に「忠茂」「忠貞」と改名、ふたたび「忠茂」を名乗る【11歳】


忠茂は、当時では祖父と孫ほどの年齢差にあたる46歳の立花宗茂の養嗣子となります。
ちなみに宗茂と義父・道雪とは54歳差、実父・紹運とは18歳差でした。

忠茂の誕生時には、すでに戸次道雪[1513~85]が雷を切ってから65年、高橋紹運〔1549~86〕が岩屋城で討死してから26年、誾千代〔1569~1602〕が腹赤村で没してから10年、宗茂[1567~1642] が柳川城(現 福岡県柳川市)を離れてから12年、奥州南郷(現 福島県棚倉町)に領地を与えられてから6年が過ぎていました。

おそらく江戸生まれの忠茂は、立花家の江戸屋敷で宗茂の継室・瑞松院〔1568~1624〕に大切に育てられたようです。忠茂が物心つく頃に戦乱は終結、そのまま東北の3万石を継ぐはずでしたが、9歳で九州の11万石大名の世継ぎとなります。江戸からの距離は、筑後柳川が奥州南郷の6倍余も遠いため、忠茂本人には戸惑いがあったかもしれません。

11歳の忠茂は、2代将軍・徳川秀忠の前で元服しました。通常、将軍の偏諱は、国持大名や「松平」名字を与えられた家にしか与えられないので、忠茂が「忠」の字を拝領したのは異例だといえます。宗茂が秀忠に近侍していたからでしょうか。


寛永6年(1629) 義父・宗茂[63歳]が「内儀」の隠居【18歳】
寛永7年(1630)12月頃 2代将軍・秀忠の意向のもと永井尚政の娘・玉樹院と祝言、4年後の寛永11年12月死別 、二人の子も早世【19歳】
寛永13年(1636)5月立花家什書を譲られる【25歳】
寛永14年(1637)12月~翌2月末島原の乱に参陣【26歳】追って宗茂[72歳]も出陣
寛永16年(1639)4月3日家督を相続、2代柳川藩主に【28歳】
寛永19年(1642)11月25日 宗茂[76歳]が 江戸にて没、広徳寺に葬られる【31歳】
正保元年(1644)4月頃 3代将軍・家光の意向のもと伊達忠宗の娘・法雲院と祝言【33歳】


60歳をこえた宗茂が「内儀」の隠居をすると、代わりに忠茂が江戸と国元・柳川を行き来し、家臣との主従関係を深めていきます。忠茂が経験した唯一の戦「島原の乱」では、72歳の宗茂も出向き、父子で戦いました。宗茂の老後は長かったので、忠茂を自分の後継とするべく、丁寧に育成したようにみえます。
江戸に住む宗茂の指示を仰ぎつつ、領国支配を進めていた忠茂は、宗茂の危篤を受け柳川を出立しますが、臨終に間に合えず大坂で引き返しました。

宗茂が没した翌年、忠茂は3代将軍・家光から法雲院〔1623~80 〕との縁談を命じられます。この縁組もいろいろと異例でしたが 、二人の間には、後の3代柳川藩主・鑑虎忠茂から「雷切丸」をもらった茂辰、早世した兄から「雷切丸」を引き継いだ茂堅 、ほか5男2女(一説には6男2女)が生まれました。


万治2年(1659)「左近将監」から「飛騨守」に。【48歳】
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、同11月20日剃髪し「好雪」と号す。あわせて「忠茂 チュウモ」と名乗る。晩年は「忠巌」に。【53歳】
延宝3年(1675)9月19日江戸にて没、小石川徳雲寺(現 東京都文京区)に葬られる。享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」
延宝8年(1680)2月2日忠茂継室が江戸にて没、小石川徳雲寺に葬られる。享年58、法名「法雲院殿龍珠貞照大夫人 」

「飛騨守」に任ぜられた頃から身体に不調をきたしていた忠茂は、隠居後も病に悩まされましたが、和歌や茶などの趣味に傾倒したようです。




以上をふまえて、 “立花忠茂[1612~75]ってどんな人?” に私見でこたえると、

幸運の星の下に生まれ【実父が無役の時に大名家養嗣子に/義父・宗茂が柳川に復帰/伊達政宗の孫娘と再婚】、宗茂の七光りに照らされ【徳川将軍2代・秀忠と3代・家光による厚遇】、子宝に恵まれた【徳川家康の玄孫を後継とする】、柳川藩11万石の2代目藩主




となるのですが、なぜか素直に忠茂さんを羨めません。
幸運と七光りの裏に、絶妙な苦労が見え隠れしているからでしょうか?

忠茂さんの苦労話は参考図書で読めます






そんな忠茂さんですが、わたしが非常に共感を覚えるポイントがあります。
350回忌を機に、この共感を皆さまとも分かち合いたいと思います。







2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji



参考文献
柳川市史編集委員会 編 『図説柳川家記』2010.3.31 柳川市、 中野等・穴井綾香 『柳川の歴史4 近世大名立花家』2012.3.31 柳川市

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂①

2024/9/30

2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji


忠茂が亡くなったのは、延宝3年9月19日。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1675年 11月6日です。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



それでは、立花忠茂[1612~75]ってどんな人?

慶長17年(1612)7月7日 
立花宗茂の弟・直次の4男として誕生。即日、宗茂の養嗣子に。
元和8年(1622)12月27日 元服寛永7年(1630)永井尚政の娘・玉樹院と祝言、同11年12月死別
寛永14年(1637)12月~翌2月末
島原の乱に参陣 ⇒註1

寛永16年(1639)4月3日
家督を相続、2代柳川藩主に。
正保元年(1644)伊達忠宗の娘・ 法雲院と祝言⇒註2
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、11月20日剃髪し「好雪」と号す。
延宝3年(1675)9月19日没 享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」



註1:忠茂が島原の乱に持参したと伝わる甲冑の話はコチラ

島原の乱は、忠茂が生涯で参陣した唯一の戦となりました。



註2:いろいろあった忠茂の結婚事情の話はコチラ



そして、忠茂と「雷切丸」の話。
実は忠茂は、義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまったのです。

とは言うものの、渡した相手は吉弘家を継ぐことになった息子の茂辰。
藩主になれない息子に、祖父・道雪ゆかりの「雷切丸」を譲った忠茂の心情は理解できます。
しかし茂辰は早世。遺品分与されそうになった「雷切丸」は、弟の茂堅が「大切の御重宝」として、自らが継いだ矢嶋家にて伝えることにしました。
そして宝暦9年(1759)、「雷切丸」は矢嶋家から7代藩主・ 鑑通へ進上され、再び柳川藩主立花家に戻ってきます。

「雷切丸」が離れていた期間は、およそ100年くらいでしょうか。
帰ってきた「雷切丸」の存在価値は、偉大なる祖父の愛刀として扱っていた忠茂の頃よりも、ずっとずっと増していました。
以来、「雷切丸」は立花家で大切に伝えられ、現在は立花家史料館が所蔵しています。



その「雷切丸」は今、雷を切った因縁の地「大分県」へ出張中。

2024年11月10日(日)から臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!~義を貫いた武将、戸次道雪・高橋紹運・立花宗茂~」展にて展示される予定です。(~12月22日)


臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!」
2024.9.29-12.22 チラシ


2代柳川藩主・忠茂のエピソードを紹介してきましたが、まだまったく語り尽くせていません。
次回こそが本題となりますので、乞うご期待!




【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

能へのラブは横綱級?最後の柳川藩主・鑑寛の趣味

2024/8/14

「写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式」から来た方は Skip


立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……




わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。



明治7年(1874)12月29日に17歳の息子に家督を譲った鑑寛は、同11年(1878)7月に東京を離れて帰郷します。5代藩主 貞俶が御花畠屋敷を造営して以来、柳川藩主のくつろぎの場所であった、現在の国指定名勝「立花氏庭園」の地に戻ってきたのです。

9月25日には、3月から普請が進められていた「御隠亭」に移りました。

茅葺の「御隠亭」の東には「能舞台」が、南には庭園「松濤園」がありました。鑑寛は、能舞台で能を演じたり、庭園に亭を設けて和歌を詠んだりと、49歳からの隠居生活を楽しんでいたようです。



ただし、彼の趣味にささげる情熱は、われらの想像を超えていきます。

柳川に戻った翌年の明治12年(1879)から亡くなる前年の41年(1908)までの29年間、鑑寛が謡、囃子、仕舞、能の演能にかなりの時間を割いていたことが、記録から読み取れます。
とくに明治18年~31年の期間は、さかんに能を主催していました。

演者は、息子や娘たちに、旧柳川藩士および立花伯爵家職員たち、そして旧柳川藩お抱えの能役者たち。もちろん、自らも演じました。



こちらは、相撲番付になぞらえたランキング「春秋御能相撲」 です。

明治17年~27年の10年間に御花畑(=御隠亭) 能舞台で上演した能番組をもとに、シテ(=主役の演者)の名前と『安宅』『海人』『當麻』『湯谷』『弦上』『小原御幸』などの演目を、順位付けしたものです。 演目の表記から、シテ方の流派は喜多流だとわかります。

ちなみに当時の相撲番付の最高位は、「横綱」ではなく「大関」でした。

能番付「春秋御能相撲」

東西の大関、関脇、小結というトップ3を独占する勢いなのが「大殿様」、すなわち鑑寛です。

ほかの名前はそれぞれ、鑑寛の三男・寛正と四男・寛篤、親族で鑑寛の養子となった十時、旧柳川藩士の野波八蔵 、宮川、問註所康光、立花伯爵家職員の与田庄三郎、佐伯 、岡田修理 、旧柳川藩お抱えの御役者であった喜多流シテ方・勝浦吉十郎と能役者・与田喜三太、名前しかわからない松尾球吉
あわせて12名です。

つまり、鑑寛と身近な同好者たち13名は、10年間でかわるがわるシテをつとめ、160曲を超える演目を御隠亭能舞台で上演しているのです。
彼らは、まったくのプライベートで、ご趣味でやってらっしゃいます……



能の上演のためには稽古しなければなりません。

例えば、明治19年(1886)4月7日の「御能」にむけて、1月20日 御謡合、2月8日 鳴物稽古、2月20日 御謡合、2月25日 鳴物稽古、3月1日 御謡合、3月5日 鳴物御稽古、3月14日 御謡合、3月20日 鳴物稽古、3月25日 鳴物稽古、4月1日 御能前御謡合、4月4日 御能大御習試と入念な稽古をかさねています。
そして本番当日は1日がかりで、7~8演目を上演するのです。


稽古して上演を繰り返すうちに早10年。
経緯は全くわかりませんが、 ” あの時の鑑寛様のステージが最高だったな?” “いや、あの演目も捨てがたい” という風な感じで、10年間の記憶を掘り起こしながらランキングを作成し、わざわざ印刷までしてしまいました。
印刷にかかる時間と労力と費用が、今よりもずっと大きかった時代にです。

しかし、彼らの能はここで終わりません。
この後も15年ちかくも続けられていきます。



現在のわたしたちには、鑑寛さんの能の巧拙を知る術はありません。
しかし、鑑寛さんの能への愛は、残された記録と能番付「春秋御能相撲」 から十二分に伝わってきて、その大きさに慄かされます。

鑑寛さんの趣味にかける勤勉さと、記録を残そうとする執念。
ここ、オンラインツアーでも出ます。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式

2024/8/2

立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……【終了しました】



わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。

明治7年(1874)12月29日、鑑寛は当時17歳の息子に家督を譲ります。さらに明治11年(1878)には東京を離れ、柳川に戻ってきました。
現在の国指定名勝「立花氏庭園」内に建てた屋敷にて、和歌や能などの趣味に邁進していたようです。


亡くなったのは明治42年(1909)2月24日、享年80でした。

葬儀は3月3日、立花家の菩提寺である福厳寺(福岡県柳川市)で厳かにとりおこなわれました。
残っている記録をみると、式場用の椅子机を借り入れたり、大導師以下各参列寺院の席次や受付などの役割を決めたりと、大がかりだったことが分かります。


115年前に撮影された、最後の柳川藩主のお葬式。

まず気になるのは、仮設の屋根。
今でも野外の行事に欠かせない仮設テントが、当たり前ですが藁葺きです。
祭壇は本堂を背にする位置に、南側の天王殿に相対して設えられています。
何よりも、すべて屋外でおこなわれるようです。



鑑寛の長男・寛治とその妻・鍈子が、それぞれ焼香をすませました。

寛治さんは洋装の礼服を着ているように見えます。
鍈子さんは和装の喪服でしょうか?白い喪服‼

「同令夫人御焼香済御復席」 拡大 白い喪服姿の令夫人

中央に鎮座する屋根付の六角柱は、鑑寛さんの棺でしょうか?



12代藩主 鑑寛については、この葬儀以外の写真は確認されていません。
肖像画も伝来していないので、オンラインツアーでじっくりとご覧いただく「徳川将軍参内式列画巻」の中に描かれている姿が、おそらく唯一の鑑寛像です。

実は、この絵巻を開いて見たことがある人は、ほんの少数。

立花家史料館蔵「徳川将軍参内式列画巻」

わたしも未見ですので、ワクワクしながらオンラインツアーを待っています。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。


【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

立花家のヨメが、徳川家康のヒマゴで、伊達政宗のマゴ!?

2024/4/28

柳川藩主立花家にお嫁入りした女性のなかに、今でも「仙台奥様」や「仙台奥さん」と、なぜか親しげに呼ばれる方がいます。



その方は、2代柳川藩主・立花忠茂(1612~75)の継室となった、鍋子(1623~80)さん。

正保元年(1644)の祝言までの経緯を、柳川古文書館学芸員の白石氏がわかりやすく解説されています。

白石さんによる詳しい経緯の解説はコチラ






忠茂 33歳と鍋姫 22歳の縁組は、いろいろと異例でした。


忠茂の先妻・長子〔玉樹院〕の場合、大御所秀忠に仕える西丸老中の父・永井尚政は、最終的には淀藩(京都府)10万石の藩主となりますが、結婚当時は古河藩(茨木県)8.9万石の藩主でした。
柳川藩(福岡県)11万石と、ほどよく釣り合った縁組だといえます。


しかし、鍋子さんは仙台藩(宮城県)62万石の2代藩主・伊達忠宗の一人娘。

しかも母親は、 姫路藩(兵庫県)52万石の初代藩主・池田輝政の娘、かつ初代将軍・徳川家康の孫であり、2代将軍・秀忠の養女となって嫁いだ正室・振姫です。


ちなみに、振姫の母親は、2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』で印象深い役柄だった「お葉」〔西郡局〕であり、北条氏直との離縁後、再婚した池田輝政との間に振姫をもうけました。
「お葉」さんの娘!俄然親しみがわいてきます。
また、父・忠宗の両親、伊達政宗と正室・愛姫についても、1987年NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』のおかげで、よく知っている気がします。

わたしは日頃、血統ではなく「家」という枠で系図を見ていますが、今回はフカボリするほどに意外な血縁が判明して、ワクワクしました。


あいにく振姫の実子3人のうち男子2人は早世したため、側室から生まれた綱宗が3代仙台藩主となります。
つまり鍋ちゃんは、徳川家康と伊達政宗との血を受け継ぐ、一粒種となってしまったのです。

忠茂が 「つりあわぬ身躰」 と感じたのも、無理はありません。

まさに格差婚。
しかも老中が祝言を急かすので、予期せぬ大きな出費が嵩んでムリっぽい。

そこで老中は、本来ならば江戸上屋敷ですべき祝言を、下屋敷で行うよう助言してきました。柳川藩の苦しい財政事情を鑑みた、立花家の負担を減じる指示でしたが、鍋姫や伊達家にとっては不本意だったかもしれません。

いろいろと異例な縁組と祝言には、3代将軍・家光の意向「上意」が働いていたようですが、家光の目的は何だったのでしょうか。


大きな格差はありましたが、忠茂と鍋姫はいい夫婦となれたようです。

二人の間には、夭折した千熊丸、後の3代柳川藩主・鑑虎、先の永井家に嫁いだ、忠茂から「雷切丸」をもらった茂辰、早世した兄から「雷切丸」を引き継いだ茂堅、縁起を担いで養子に出された、旗本として分家を立てた貞晟、福岡藩主黒田家に嫁いだ呂久と、5男2女〔一説には6男2女〕が生まれました。

脇指「雷切丸」の話はコチラ



江戸時代、大名の正室には跡継ぎの確保が期待されました。

幸運にも鍋姫は、実子の鑑虎(1645-1702)が無事に成人して3代柳川藩主となりましたが、その鑑虎が、両親の供養のためにつくらせた位牌もまた異例でした。

忠茂と鍋姫それぞれの位牌が、一つの厨子の中におさめられています。
厨子には、立花家の家紋「祇園守紋」と、伊達家の家紋と思しき「竹に雀紋」があしらわれているのが、かろうじて見て取れます。
夫婦の位牌をまとめて厨子におさめた例は、意外にも少ないのです。


同じ永禄10年(1567)に生まれた立花宗茂と伊達政宗。
勇将として名高い二人の没後に奇しくも結ばれた、養嗣子と孫の縁組。
徳川家康・高橋紹運・池田輝政・伊達政宗の血を継ぐサラブレッド鑑虎の誕生。
今にいたるまで立花家の仏間で祀られてきた、両家の家紋があしらわれた厨子。

なんか、すごくエモくない?

現代から立花家の歴史をふりかえると、2代藩主・忠茂の最大の功績は鍋姫との逆玉婚と言いたくなります。

実際、鍋姫は自らの血縁を活かして、立花家と伊達家との仲介をつとめたり、江戸城大奥を通じた「奥向」の交渉ルートをつかったりと、誰にもできない役割を果たしました。
そして、その威光は実子たちにも及び、彼女の没後も輝き続けるのです。

近世大名家の女性達の名と活躍は、歴史の表舞台に出ることはあまりありませんでしたが、立花家の婚姻を紐解き、彼女たちの生涯を追ってゆくと、歴史の節目にいかに大きな役割を果たしたのかが見えてきます。




6月4日(火)開催のオンラインLIVEツアーでは、 江戸時代の大名家間で行われた婚姻について、遺された豊富な婚礼調度や文書資料を使って実像に迫ります。
立花家から黒田家・毛利家・蜂須賀家へ嫁いだ姫たちもまた、鍋姫にまさるとも劣らぬ物語を紡いでいるので、是非ご参加ください。【終了しました】

オンラインLIVEツアー「華麗なる縁-柳川藩主立花家の婚礼」 (2024.6.4 19時~開催) 立花家の婚姻物語や大名家の婚姻の儀式を紹介、生配信カメラで伝来の婚礼調度に肉迫して解説します。 ◆解説ブックレットA5版カラー・オリジナル紅茶と焼き菓子のセット 付



立花家の歴史に多大な影響を与えた鍋姫の法名は、「法雲院殿龍珠貞照大夫人」。
本来ならば「法雲院さま」と敬称すべきで、「仙台奥様」「仙台奥さん」と気安く呼ぶような感じではないのですが……






参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、作並清亮『伊達略系』(仙台文庫叢書第1集)1905、柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市 【正室鍋姫 50~53頁】、中野等・穴井綾香『柳川の歴史4近世大名立花家』2012.3.31 柳川市 【伊達家との婚姻 330~332頁】、柳川市史編集委員会 編 『柳川文化資料集成第3集-3 柳川の美術Ⅲ』2013.5.24 柳川市 【立花家仏間の位牌 218~233頁】、角田市文化財調査報告書第55集『牟宇姫への手紙3 後水尾天皇女房帥局ほか女性編』2022.3.28 角田市郷土資料館

【ココまで知ればサラに面白い】
普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
⇒これまでの話一覧   ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

6代藩主 立花貞則、豊前大里浜で暴死す

2023/5/3

前回は、6代藩主貞則の生涯を、丁寧に江戸時代の史料をひもときながら見てきました。前回で完結する話を今回までひっぱったのには理由があります。





前回で紹介した江戸時代の史料と、現代の柳川市史編さん事業の刊行物。
その間に挟まれた近代の史料に、ある懸念があるのです。

7代 貞則公〔引用者註:貞則は6代柳川藩主かつ立花家7代当主]

(中略)

延享3年 〔1746〕 6月20日江戸を発し、入部の途に就く

7月17日豊前大里浜に於いて暴死す。

同21日遺骸生存の如くして柳城に入る。同27日喪を発す。8月5日福厳寺に葬る。享年21。法号等覚院殿廊融性営大居士と云ふ 。

公 子なし。弟を以て嗣とす。

渡辺村男 『旧柳川藩志』上巻 60頁(53コマ目)



この『旧柳川藩志』を著したのは、立花家伝来の史料を調査研究の対象とする、我らの大先輩、渡辺村男さん。

柳川市史の編纂事業が開始する80年前、大正3年(1914)に、立花家が主体となり、藩史編纂の事業がはじめられました。その編纂に携わった中学伝習館教諭の岡茂政や、岡とともに明治44年(1911)に柳川史談会を創立した渡辺村男は、どちらも長年の調査の集大成をまとめた、柳川の歴史についての大著を残しています。
この二人の著作は、柳川市史の刊行がはじまるまで、柳川の歴史を知るための必携の書であり、他に代わる書籍はありませんでした。


わたしも、当館展示室の年表パネルを作成するために、当時未刊だった『柳川の歴史』シリーズの出版を切望しながら、ほかに頼るあてもないので、渡辺村男『旧柳川藩志』岡茂政『柳川史話』 を熟読したものです。



今なら、絶対に柳川市史の刊行物を頼ります。
だって、読みやすいし、わかりやすいし、何よりもまず信頼がおけます。





村男さんも岡さんも、尊敬できる大先輩ですが、戦前と現在とでは情報量に圧倒的な差があり、今の基準でみると、二人の史料の精査は全く足りていません。当時の印刷技術の事情もあるでしょうが、年号のズレや漢字の誤記も少なくないので、その都度、江戸時代の史料とのつき合わせが必要となります。それでも、活字は流し読みができるので、崩し字解読が苦手な身には助かりました。


あらためて引用部分にもどります。

注目すべきは「豊前大里浜に於いて暴死す」。


え!

おだやかでない響きですが、どういうこと?
江戸時代の系譜や、その他の文書類を確認しても、よくわかりません。


安心してください。ちゃんと辞書にありました。

【暴死】  ぼう‐し
にわかに死ぬこと。急に死ぬこと。頓死。

広辞苑・大辞泉・ 日本国語大辞典 の記述を集約  


な~んだ、あっさり解決です。

貞則の「急死」を村男さんが劇的にあらわしただけでした。当時の貞則の近臣たちの気持ちを慮ると、「暴死」という表現を使いたくもなります。


結局のところ、前回で周知の事案「死体の偽装」「公文書偽造」、これ以外のことはどこにも書かれていません。

懸念もなにもなかったのです。

ちなみに、貞則の事案の約90年後には、より大きな事案「藩主すり替え」がなされるのですが、それはまた別のおはなし。






実はいま、「立花貞則 大里」とWeb検索すると、貞則が暴漢におそわれて亡くなった風に説くサイトが上位にあがってきます。遺憾ながら、数も多いです。

※できましたら検索結果をご覧になるだけで、各サイトを訪れるのはご遠慮ください。



前回と今回とで皆さまと共に見てきたように、これはまったくの空言です。
ただ「暴死」にひっかかった身として、状況証拠から推理をしてみましょう。

長年、柳川の歴史を記述する図書や雑誌には、だいたい渡辺村男の著作が引用されてきました。「立花貞則が豊前大里浜で暴死」は、そのまま孫引き、ひ孫引きされていきます。その間に、どこかのだれかに魔が差した疑いが濃厚です。

「大広間」の瓦の疑惑と同じく、ここでも誰かが、貞則の死の隠蔽の理由について自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、勝手な幻想を作ってしまったのでしょうか。

浜 ・ 暴 ・ 死

この文字列が、センセーショナルなイメージを掻き立てるような、しないような。



インターネットに漂う仇花、その発生の経緯は大変興味深いのですが、誰にとっても迷惑でしかありません。存在しないものを無いという証明は難しく、流れてくる全てを摘み取るのはとても面倒……

願わくば、世の人々が「立花貞則」をWeb検索したときに、このブログのタイトルが上位あがってきますように。


参考文献
渡辺村男著 柳川山門三池教育会編 『旧柳川藩志』1957 福岡県柳川・山門・三池教育会 、【渡辺村男と柳河史談会123-6頁 】【対山館文庫 138- 9頁 】【立花家の歴史編さん143 – 4頁 】柳川市史編集委員会 編 『新柳川名勝図絵 』2002.9.30 柳川市

渡辺村男 著 ほか『旧柳川藩志』上巻,福岡県柳川・山門・三池教育会,1957.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕
岡茂政 著 ほか『柳川史話』,青潮社,1984.9.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:遠隔複写サービスを利用〕

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

6代藩主 立花貞則、生者のまねして柳川城に入る

2023/5/3

立花家史料館の学芸員として思うところがありましたので、あらためて柳川藩6代藩主・立花貞則の生涯を、皆さまと共に史料でたどってみます。



まずは、江戸幕府が編纂して文化9年(1812)にまとめた、大名旗本諸家の家譜集成 『寛政重修諸家譜』 から。柳川藩主立花家の項目は、8代鑑寿(~1820)の長女誕生までが記されています。

貞則 〔引用者註:父は柳川藩5代藩主 貞俶〕

虎吉 虎之進 丹後守 伯耆守 飛騨守 従五位下 従四位下

母は上〔柴田氏〕 におなじ。嫡母のやしなひとなる。

享保十年〔1725〕柳河に生る。

元文四年〔1739〕八月十五日 はじめて有徳院(吉宗)に拝謁す。時に十五歳 五年〔1740〕十二月二十一日 従五位下丹後守に叙任し、寛保二年〔1742〕六月五日 伯耆守にあらため、延享元年〔1744〕七月十三日 遺領を継、十九日 飛騨守にあらたむ。二年〔1745〕閏十二月十六日 従四位下に叙す。

三年〔1746〕四月十八日 はじめて城地にゆくのいとまをたまふ。七月二十七日 柳川にをいて卒す。年二十二。 廓融性瑩等覚院と号す。彼地の福厳寺に葬る。


『寛政重修諸家譜』 第1輯 巻百十二 立花 686頁(下記の書誌 354コマ目)

『寛政重脩諸家譜』第1輯,榮進舍出版部,1917.
国立国会図書館デジタルコレクション〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります



貞則さんの20年ほどの経歴の、オフィシャルな記録です。
太字は今回の注目ポイントとなります。



オフィシャルがあればプライベートな記録もあります。

立花家に伝来したいくつかの系譜から、立花家の祖となる大友能直から11代藩主鑑備までを書きあげた系譜「御内實御系譜下調」の、貞則の項をみてみます。この系譜は天保年間(1830~44)以降の記述がないので、その頃に成立したのでしょうか。

貞則  *全文はコチラ

享保十二年〔1727〕丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家〔柳川〕 ニ生ル 

(中略)

同年〔1746〕六月二十日 東都〔江戸〕ヲ発シテ封〔柳川〕ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜 ニ卒ス 行年二十一歳

嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月二十一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城 〔柳川城〕 ニ入ル 同二十三日 急ニ四箇所藤左衛門〔通久〕ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎ム 同二十六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香〔7代藩主 鑑通〕ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 二十七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日

同月二十九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名 等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク


「御内實御系譜下調」 当館蔵 柳川古文書館寄託  ※ここでは廿を二十と変換



あれれ~おかしいぞ~

1727→1725と、オフィシャルな記録の生年が2年早くなっています。

実は、武家当主の年齢詐称の事例は少なくありません。
江戸時代、大名や旗本の死は、お家の安泰を左右する大問題でした。トップが次代へ相続できなければ、家臣たちは職を失います。

幕府に届け出た実子や養子がないまま当主が亡くなると、家は断絶という武家相続の法がありました。1651年には、死の寸前(末期)でも、存命中に養子を願い出ればよしとする「急養子」(末期養子)が認められますが、当主が17歳以上50歳未満に限るという条件が付けられます。

当主が17歳になるまで、常にお家存続の危機にさらされ続けますが、回避するには年齢を詐称するしかないのです。貞則も4歳の時の届出で、2年多めに盛られました。


1744年に6代柳川藩主となった貞則は、年中行事ごとに江戸城へ登城する公務をこなしていましたが、1746年に藩主として初めて国元の柳川へ入るため(「初入部」)旅路につきます。

再び、オフィシャルな記録とプライベートな記録を見くらべてみましょう。



あれれ~おかしいぞ~

貞則が亡くなった場所と日にちが違います。
プライベートな記録の、詳細で複雑な描写を追ってみます。


6月20日 江戸を出発 発病 →だんだん病状が悪化
7月17日 豊前国大里の浜〔現在の福岡県北九州市門司区〕 にて亡くなる→養子がいないので隠蔽

7月21日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル
つまり、貞則の遺体を生きているように見せて柳川城に到着しました。

7月26日 弟・鑑通を養子とする届出をもった使者が柳川出発
7月27日 この日に貞則が亡くなったとして、死を公表



貞則の急死による無嗣断絶から逃れるために、死を隠蔽し、「遺骸を生者として入城」 させ、亡くなった日を10日遅らせて公表したのです。

後世からみると、「早めに養子の届出をしてれば」とか、「ここまでして10日だけ?もっと余裕もったら?」とか言いたいところですが、結果として無事に弟の鑑通への相続が認められ、柳川藩主立花家は存続できました。



貞則の例は、船上での死なので煽情的な経緯となりましたが、「末期養子」の都合上、届出は当主の存命中に限られるため、当主の死の隠蔽は珍しくはなかったようです。無嗣断絶の混乱を避けたいと、幕府も黙認していたように見受けられます。
したがって、立花家に限らず、どこの家でも、建前をオフィシャルに記録し、実情はプライベートな記録として手元に残していたのでしょう。


オフィシャルな記録に簡単にアクセスできても、プライベートな記録が秘されているなら、“歴史の真実”は隠蔽されつづけるのではないか?と思われた方、


安心してください。柳川古文書館があります。




柳川藩主立花家から立花家史料館へと伝来した、重要文化財「大友家文書」「立花家文書」をふくむ3万点以上もの貴重な古文書・古記録類は、柳川古文書館に寄託され、その管理のもとで調査研究が進められています。

そして今、この全史料をネット上で公開する計画が進行中!
近い将来、よりスムーズに柳川藩主立花家のプライベートな記録へアクセスできるようになります。

このときから16カ月後、一部は実現しました‼



しかし、ネット上の公開を待たずとも、すでに刊行された書籍があります。

わたしの専門は美術工芸品なので、文字史料の扱いは得意ではありません。
今回は本題のため自力で苦心していますが、柳川市の市史編さん事業で刊行された書籍には、貞則のことも、もっと詳しく、わかりやすく書かれています。

系譜1点をそのまま紹介するのが精一杯のわたしとは違い、柳川古文書館の学芸員さんをはじめ、文字史料の専門家たちは、考えうるかぎり史料を集め、その真偽を丁寧に検討した上で、調査・研究を進められています。 市史編さんの刊行物 では、その成果が平易な文章で解説されているのです。





とくに、柳川藩主立花家に関連する刊行物は、ここからもご購入いただけます。





貞則のことは、「貞則の急逝」(柳川の歴史5『柳河藩の政治と社会』143-145頁)、「貞則と鑑通」(柳川市史別編『図説立花家記』72・73頁)を中心に読むだけで、長年の緻密な調査・研究の集大成をお手軽に享受できるのです。
ブログ執筆中に抱いた私の疑問の回答も、すでに書いてありました。さすがエキスパート!



そして、ここまでが前段階……やっと本題にたどりつきました。

それでは次回、「6代藩主・立花貞則、豊前大里浜で暴死す」‼






「御内實御系譜下調」の貞則の項の全文はコチラ

※ 下記史料の内容に関しては誤りのないよう心がけましたが、入力に際して適切にWeb上で再現できない、あるいは原文の表記と異なる場合がありますのでご留意ください。
※割註〈 〉、引用者註[ ]

貞則
従四位下  丹後守 伯耆守 飛騨守 幼名 虎吉 虎之進
 母ハ立花弾正源貞晟ノ女。〈名於千〉
 実母ハ諒體院。〈柴田氏 名ハ於由井〉
享保十二年丁未五月十二日 於由布三五兵衛之家ニ生ル 六月十六日 山王社ニ詣テ直チニ内城ノ二ノ丸ノ館ニ入ル
同十九年甲寅三月廿六日 立テ嫡子ト為ル〈九歳〉
同二十年乙卯正月元旦 広間ニ於テ諸士之礼ヲ受ク
元文三年戌午五月十七日 花畠之亭ニ移ル
同四年巳未三月三日 世子ト称ス 同月五日 柳河ヲ発シ四月四日 東都ニ至ル 吉弘五左衛門統倪傅ト為ル
同年八月十五日 始テ吉宗公ニ拝謁ス〈太刀馬代金縮緬ヲ献ス〉
殿中ニ於テ座席未ダ定ラナク時ニ朝老松平左近将監〔乗邑〕告テ曰 立花者世々良家也大廊下杉戸ノ内ニ座スベシト也〈時ニ年十三〉
同年九月九日 節句始テ登営ス
同年十一月十五日 始テ月次ノ御礼トシテ登営ス
同年十二月 朔日疱瘡ス
同五年庚申嘉定玄猪共ニ営ニ登ル
同年十二月廿一日 従四位下ニ叙シ丹後守ト改ム 同廿八日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金ヲ献ス〉
寛保元年辛酉六月廿六日 額ヲ隅シ袂ヲ短ス
同二年壬戌二月廿二日 加冠ス〈年十六〉
延享元年甲子五月廿五日 貞俶卒 同七月十三日 朝命ヲ受テ立ツ〈朝老 松平左近将監〔乗邑〕 邸ニ召シテ台命ヲ伝フ〉
是日飛騨守ト改ム〈時ニ年十八〉 同日廿八日 家督之御礼ト為シテ登営ス 〈太刀馬代金三枚綿三十把之献ス 蓋シ諸家家督之御礼ニ黄金三十枚綿三百把ヲ献ス 特例也頃者命ヲ下シテ之ヲ減ス以テ十分一ト為ス〉 是日国老二人御目見〈矢島采女 小野織部 各ゝ馬代銀一枚ヲ献ス〉 貞俶之遺物ヲ献セズ〈是ヨリ先命ヲ下シテ諸家遺什ヲ献ル者ヲ禁ゼラル故也〉
同二年乙丑閏十二月十六日 従四位下ニ叙ス〈年二十〉
同三年丙寅正月七日 叙爵ノ御礼トシテ登営ス〈太刀馬代金之献ス〉 同月十二日 問注所三右衛門康端ヲ京都ニ使シテ口宣及ヒ位記ヲ拝受ス

同年六月廿日 東都ヲ発シテ封ニ帰ル 途ニ就テ病ス 上ルニ船ニ及テ漸ゝ重ク薬汁験無 遂ニ七月十七日ヲ以テ於豊前ノ国大里ノ浜ニ卒ス 行年二十一歳 嗣子無故ニ逝ト雖トモ未タ喪ヲ発セズ 同月廿一日 遺骸猶ヲ存スル者ノマネシテ柳城ニ入ル 同廿三日 急ニ四箇所藤左衛門ヲ於東都ニ使シテ医師ヲ迎シム 同廿六日 国老十時摂津東都ニ之キテ朝ニ貞則ノ弟俶香ヲ立テ嗣子トセンコトヲ請フ 廿七日 群臣ヲ於城殿ニ召シ而シテ国老由布壱岐喪ヲ発シテ曰ク是ノ日也
同月廿九日 水原八郎右衛門ヲ於東都ニ使イシテ貞則之卒ヲ于朝ニ曰サシム 八月五日 福厳寺ニ葬リ塔ヲ築キ法名等覚院廓融性瑩 東都広徳寺ニ神位ヲ設ク

「御内實御系譜下調」 (柳立85) 当館蔵 柳川古文書館寄託  

参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、 大森映子「大名相続における年齢制限をめぐって」(『湘南国際女子短期大学紀要』8号 2001.2月 湘南国際女子短期大学、柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市、白石直樹『柳川の歴史5 柳河藩の政治と社会』2021.3.31 柳川市

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ