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小さく薄い三角形の金属片

2024/8/1

明治43年(1910)築の立花伯爵邸では、現在では失われつつあるものが、現役のまま建物を支えています。

その最小のものが、“小さく薄い三角形の金属片”ではないでしょうか。


わたしがはじめて庶務を担当したのは、平成25年から27年(2013~15)の夏季に集中施工した、立花伯爵邸「西洋館」のメンテナンス工事でした。外壁を塗り替え、すべての窓の点検・修理をおこないました。

当時のわたしは、慌ただしい作業現場をトンチンカンな質問で騒がせ、むやみやたらに撮影する、お邪魔虫でしたが、快く撮影を許してくださった職人さんたち深く感謝しています。



とくに「上げ下げ窓」の修理作業は、何もかもが珍しく驚くことばかり。

大興奮して一連の作業を動画撮影したものの、10年間もちぐされ続け、2024年1月にやっと披露できました。

平成25年-27年(2013-15)立花伯爵邸「西洋館」保存修理工事の話



つい先日、この投稿が、立花伯爵邸と同年代の建物の保存修理に携わる方のお役に立ったとご報告いただきました。

「~森林博物館改修~木製建具改修の挑戦」
⇒「~ 明治から時を超えて、青森のシンボルを未来へ ~
株式会社 成文組( 青森県青森市 )HP >現場レポートより

「いつかどこかの困っている誰かに届けェ~」と密かに願っていたので、とても嬉しかったです。


近代の建築については、国宝や重要文化財に指定されはじめたのが近年なので、文化財指定や修理の際に作成すべき報告書があまりありません。
明治から昭和初期に建てられた木造洋館に限ると、さらに数が少なくなります。木造洋館に見られる、寺社や和風住宅とは異なる工法については、参考事例が蓄積されていないのです。

おそらく20年ほど前までは、木造洋館の現場を経験した職人さんも健在だったのでしょう。しかし、新素材や新技術の登場により、古い工法は猛スピードで忘れられていきます。

あたかも、フィルムカメラのように……



例えば、わたしたちは「上げ下げ窓」のガラスの固定に苦労しました。

現在は弾性接着剤によるコーキング(シーリング)でガラスを固定するのが主流ですが、西洋館の「上げ下げ窓」ではパテが使われています。パテは隙間を埋めて気密性や水密性を保つだけで、ガラスを固定している訳ではありません。

立花伯爵邸には他にもガラス窓はありますが、木桟で固定されています。



とりあえず、ガラス脇に小釘を打ってみましたが、ガラスが薄いので、かなりの確率でヒビが入りました。

河上先生も寺社修理の経験豊富な大工さんたちも、戸惑っています。
どうしよう?

結論から言うと、窓枠からポロポロと落ちてくる”小さく薄い三角形の金属片”が重要でした。
ここだけの話ですが、当初は金属屑(ゴミ)と見なされていました。



次は困らないよう、取り付けている様子もバッチリ撮影しています。

“小さく薄い三角形の金属片”が見えますか?



立花伯爵邸西洋館メンテナンス工事は滞りなく終了しました。

“小さく薄い三角形の金属片”を忘れる時はありませんでしたが、ほとんどの報告書は建具類について詳述していないので、名前を探せないまま時は流れていきます。



そしてブログの投稿をはじめました。

ブログ形式を選んだのは、報告書等で端的にまとめられる前の、雑多な情報を伝えたかったから。

もちろん、我らが誇る2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』においても、工事をストップして関係者一同を集めて繰り返し最善策を議論しつくした時間については言及されていません。



10年の経過はわたしに、簡単動画加工アプリと『国立国会図書館デジタルコレクション』https://dl.ndl.go.jp/の全文検索をもたらしてくれました。
アプリのおかげで、暗い画像を明るくしたり、自分の奇声を削除したりと、むやみやたらに撮影した動画をお蔵入りさせずにすんでいます。



そして、ブログで取り上げるため、『国立国会図書館デジタルコレクション』で「上げ下げ窓」を全文検索すると、

斎藤兵次郎 著『和洋建具設計実例』,信友堂,明41.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/846407 (参照 2024-08-01)



えッ “三角”釘 !?

三角釘さんかくくぎ
鱗ウロコ釘、亜鉛トタン鋲、葉鋲ハビョー、等ノ別名アリ「はびょー」ヲ見ヨ。

葉鋲 はびょー
障子ニ硝子ヲ取付ケテ動カサラシムル為メぱて下ニ打ツ三角形ノ小キ薄キ金属板(英Spring-Glaziers’ point)「三角釘」トモ称ス。又普通亜鉛板ヲ用フル故ヘ「亜鉛鋲」トモイフ。米国ニテハぶりきヲ用フル故ヘTin point トモイフ。

中村達太郎 著『日本建築辞彙』丸善株式会社 明治39年発行

硝子職
パテは舶来品と和製品あり(後略)
ガラス板を附するに当り之を留むるに鱗釘を用ゆ鱗釘とはブリキ又は亜鉛引鉄板を小さく三角形に切りたるものにてガラス板一枚に付き凡そ四個乃至六個を要す

大泉龍之輔 編纂『建築工事設計便覧』建築書院 明治30年発行



“小さく薄い三角形の金属片”の名前は、「三角釘」 または「鱗釘」または 「亜鉛鋲」 または「葉鋲」といいます。



この名前を知るのに10年。


“小さく薄い三角形の金属片” との出会いから本投稿までの間に、ソチ・リオ・平昌・東京・北京・パリと6都市のオリンピックを見届けてしまいました。


2024.8.2リンク追記

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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シン・立花伯爵邸西洋館煙突

2024/3/24

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。(前回は先にレリーフ復原の話をしました。)





平成18年(2006)の春、立花伯爵邸の煙突は全解体され、この世界に存在しなくなりました。



西洋館1階食堂から見ると、こんな感じ。



しかし、解体された個々のレンガには番号が付され、丁寧にモルタル(セメント+砂+水) がはがされた後、また記録の通りに積み直して、「立花伯爵邸西洋館煙突」は再構築されるはずでした。

ですが、積み直すにあたっては「耐震補強」が必須であり、ただ元に戻すだけとはいかなかったのです。


「耐震補強」とは、 建造物の強度や靱性を改善して、耐震性能を向上させること。世界でも有数の地震多発地帯にある日本では、耐震・制震(制振)・免震の三対策がとられていますが、すでに建っている文化財建造物ではもっぱら「耐震補強」が選択されます。



明治43年(1910)に建築された立花伯爵邸西洋館は木造ですが、耐火でなければならない煙突部分のみレンガ造です。

木造の建築が一般的であった日本では、 洋風建築の技術とともにレンガ造がもたらされ、明治時代の耐火建築物に盛んに用いられるようになりました。しかしながら大正12年(1923)の関東大震災を境に、耐火建築物の主流は施工の簡単な鉄筋コンクリート造へと変わっていきます。



明治・大正期(1868~1926)につくられたレンガ造の建造物は、ほとんどは現在にいたるまでに淘汰され、かろうじて残ったとしても耐震性への不安から解体される例も少なくありません。

例えば、ご近所のレンガ塀、おそらく明治34年(1901)頃の柳河高等女学校の南塀は、スペースやコストの制限等により耐震補強を施す術がなく、年々崩落の危険性が高まるため、保存を諦めるしかなかったそうです。

2022年12月時点のGoogleストリートビュー

2023年10月時点のGoogleストリートビュー

ちなみに、百武 秀「福岡地方の古い赤れんがの化学成分:第2報」『福岡大学工学集報』77号 2006 福岡大学研究推進部 ) によると、柳河高等女学校南塀のレンガと、立花伯爵邸西洋館煙突・立花伯爵邸正門東塀のレンガは、寸法が同じ(230㎜×110㎜×60㎜)であり、柳川周辺で同じ粘土を使って焼かれた”同期の煉瓦”だと見られています。



レンガやコンクリートなどの工業製品を用いた近現代建造物の保存・修理には、日本で長年培われてきた木造建築の保存・修理の手法が活かせず、建造物ごとに新たな課題に直面します。

近現代建造物は,煉瓦,石,鉄,コンクリートといった材料を用い,一体的な躯体を形づくるところに特徴がある。それゆえ,木造のように部分的に解体して,傷んだ部材を補修した後,再び組み立てることは難しく,解体を伴う修理や改修は,文化財の価値を保持する上で必ずしも適当とはいえない。例えば,煉瓦造やコンクリート造の建造物を解体して,分解した材料を再利用しても,材料自体は残るが,建設当初の工法の一部は損なわれる。また,継続的に供用されている近現代建造物は,一般的には設備機器の更新が定期的に行われ,その際には機械の搬入や据付けのための改修を伴う。そうした設備の更新や,それに伴う改修を計画するに当たり,その時点での工事内容を検討するだけでなく,建設当初の記録などを基に現状と比較し,更には将来の改修の可能性も含めて,長期的かつ全体的に計画することが重要である。そのほか,建設材料には工業製品が用いられるようになっているが,その更新に同一の材料や製品を確保することが難しく,類似の新しい工業製品を使わざるを得ないといった課題も見られる。

PDF「近現代建造物の保存と活用の在り方」文化庁HP近現代建造物の保存と活用の在り方(報告)」平成30年(2018)7月より)



「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の当時、レンガ造の文化財建造物の修理事例はまだ些少で、レンガ造の煙突に耐震補強を施した前例は全くありませんでした。

暖炉の機能を残すためには、中を空洞にしなければなりません。外側から補強すれば、煙突の意匠が損なわれます。可能な限り元のレンガを用いるという条件も外せません……難易度がハードすぎるんですけど?
わたしが担当者だったら、早々に暖炉の機能を諦めたかもしれません。



修理工事の補助金を交付する 国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ね、耐震補強の工法が検討されました。「文化財建造物の内部に火は不要ではないか?」と問われたこともあったそうです。

そのなかで、設計・監理を担う河上先生は、難しい要求を淡々と受けとめ、傍からは愉快そうに見えるほど前向きに取り組まれて、下の図面に到達しました。

修理工事後

修理工事前

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花

「耐震補強」は安全のために必要不可欠でしたが、内部構造のビフォーアフターを見ると、 現在の立花伯爵邸西洋館の煙突は、明治43年(1910)当時の煙突と同一であるとは、厳密には言えないかもしれません。

いうなれば、シン・立花伯爵邸西洋館煙突でしょうか。



それはともかく、この「耐震補強」の効果は地震時にしか発揮されないので、今でも正解は分かりません。できれば正解は分かりたくありませんが、分からないが故に迷いも生じます。

それでも文化財というバトンを預かり、次世代へと継承していくために、その時々の最善を探りながら、保存と活用をうまく両立していかねばなりません。

そして、この道の先にゴールは存在しないのです。

文化財は,有形・無形の多種多様な文化的所産からなり,取扱いに細心の注意が必要な文化財が存在する一方で,社会の中で適切に活用されることで継承が図られる文化財も存在する。文化財は一度壊れてしまえば永遠に失われてしまうため,それぞれの文化財の種類・性質についての正しい認識の下に,適切な取扱いがなされることが必要である。
また,保存と活用は互いに効果を及ぼし合いながら,文化財の継承につなげるべきもので,単純な二項対立ではない。保存に悪影響を及ぼすような活用があってはならない一方で,適切な活用により文化財の大切さを多くの人々にえ,理解を促進していくことが不可欠であるなど,文化財の保存と活用は共に,次世代への継承という目的を達成するために必要なものである

PDF「文化財保護法に基づく保存活用計画の策定等に関する指針(最終変更 令和5年3月)」 文化庁



文化財の保存と活用も、諦めたらそこで終了です。

諦められることなく「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)で取り戻されたシン・立花伯爵邸西洋館煙突
知る人ぞ知る劇場版的エピソードを、下記の4話をかけて、やっとお披露目できました。

■ 一気読み! 立花伯爵邸西洋館煙突修理!■
1話 劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney
2話 解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」
3話 失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》
4話 シン・立花伯爵邸西洋館煙突


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》

2024/3/3

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。






レンガの積み直しの話はちょっと先送りして、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の終了後まで跳んでみましょう!



修理工事のビフォーアフターをご覧ください。

煙突が全解体されたとは信じられないくらい、変りがありません。


……あれ気付いちゃいましたか? 煙突のレリーフに。


修理のついでに、いい感じにデコっておきました……という訳ではなく、明治43年(1910)の建築当初の姿に復原したのです。



このように、大正年間(1920年代頃)の撮影だと推測される写真では、煙突にお洒落なレリーフがあることが確かめられます。

おそらく大正年間に撮影された「立花伯爵邸西洋館」南面 

煙突がある立花伯爵邸西洋館の南側は、「大広間」との間の中庭からしか見られないので、わずかな写真しか残されていません。現時点でレリーフが確認できる写真は、この1枚だけです。



そして、いつしかレリーフは失われてしまいました。

昭和61~62年(1986~87)に西洋館の大がかりな修理をした際には、古写真や図面の詳細な調査はなされず、そのままペンキが塗り直されただけでした。

昭和62年(1987)4月

その18年後の平成17年(2005)3月20日に福岡西方沖地震が発生。

平成17年(2005)3月20日 地震直後の「立花伯爵邸西洋館」南面

地震のはるか以前からレリーフは失われていましたが、文化財建造物として健全な状態に回復させるためには、できるかぎり建築当初の姿に復原しなければなりません。

しかし、個人の勝手な判断で、いい感じにデコることも許されません。



有明工業高等専門学校建築科助教授(当時)・松岡氏と河上信行建築事務所(当時)・河上氏が中心となって、立花家に未整理のまま残っていた図面や古写真が丹念に調査されました。煙突が写っている唯一の古写真も、このとき発見されています。

この調査の結果をもとに、柳川市と福岡県と文化庁とも協議を重ねて、煙突のレリーフが復原されたのです。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花 147頁より


デザインが決定したら、あとは漆喰を用いてレリーフを仕上げます。



はい!できました!

平成19年(2007)3月

しかし、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)のビフォーアフターの違いは、 レリーフだけではありません。


その違いの話は複雑で、とても長くなるので、次にします。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」

2024/2/28

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震により、立花伯爵邸西洋館煙突は大きく破損しました。
4月13日に、鉄製の「煙抜き」を地上に降ろすという応急処置がなされ、4月27日に、構造・デザイン・機能を取り戻すため、煙突は解体修理とする方針が決まりました。




諸々の準備を重ねて7カ月後、とうとう災害復旧を目的とする国庫補助事業「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)が、 河上信行建築事務所の設計監理、株式会社 田中建設の施工ではじまりました。

工事の現場代理人は、田中さん。
この工事が終わってから現在までずっと、立花伯爵邸の建物をとても気にかけてくださっています。



西洋館煙突は、応急処置が終わった状態がそのまま維持されていました。



「解体修理」とは、建造物を解体して各部材の補修を行い、 建造物を健全な状態に回復させる修理のこと。つまり、 全ての部材を解体して組み直すのです。

「解体修理」とは、こういうことです。


このスライドショーは、平成18年(2006)1月上旬から3月下旬までの72日間の解体作業にて、煙突のレンガを上から一段ずつ解体して撮影した現場写真を、約2分間に凝縮しています。



文化財建造物の価値を損ねないために選択される「解体修理」では、できる限り元の部材を修理して再利用するので、破壊しないように、石ノミで丁寧にレンガを外していきます。


外されたレンガは、一つ一つモルタル(セメント+砂+水)を剥がして、再利用のために保管されます。「解体よりも、レンガをキレイにする作業の方が、すごく時間がかかってツラかったですもんね」というのが、田中さんの感想です。



また、元の通りに組み直すため、レンガが積まれていた状況を記録しなければなりません。一段ごとに写真やスケッチで残された情報は、このように図面としてまとめられ、国庫補助事業の義務として作成した報告書にも掲載されています。
※図面の段数は、上のスライドとは逆の、最下段からの番号です。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花


そして、この図面の作成は、地震による破損状況も詳らかにしてくれました。

 煙突の破損がもっとも大きいのは軒蛇腹位置(桁位置)であった。一般に煙突など屋根から突出したものが震動を受けた場合、ホイッピング現象(むちうち現象)とよばれる現象が生じ、建物本体より大きく揺れる。当西洋館の場合、頂部が重く(3.6t)、煉瓦積みの煙突が建物の端にあって偏心しているため、接合部に応力集中が生じ、軒蛇腹付近が破断したと考える。また煙突が建物本体に挿入しているために、この部分の建物軸部は、壁や胴差しがなく、土台と桁だけでもっており、建物本体の中でも応力集中が生じ、大きく変形した可能性がある。そのような状況の中、2階床梁、1階大曳からの水平力も煙突に影響し、1、2階の床付近にクラックが生じたと推測する。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花  47頁



わたしは報告書を読んで後日談として知っただけですが、当時の担当者たちの苦労を想像してふるえてしまいました。

無尽蔵ではない予算の範囲で “暖炉に火が入っている光景”を何とか残せないかと、補助金を交付する国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ねた末に「解体修理」が実現できた過程を、ただ中にいた当館館長から聞いた後に見ると、この写真の得難さが身に沁みます。

立花伯爵邸2階 暖炉



解体が完了し、あとは外したレンガを積み直すだけ……とはいきませんでした。
「劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney」は、まだまだ終われないのです。





【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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河上信行氏と国指定名勝「立花氏庭園」

2024/1/11

わたしのブログ初投稿から、ちょうど1年が経過しました。


当初は、美術工芸品を専門とする学芸員として、当館所蔵品を次々と紹介しようと考えていましたが、ふりかえると、自分勝手に【立花伯爵邸たてもの内緒話】と銘打った、 国指定名勝「立花氏庭園」内の建物の話がメインとなってしまっています。

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。



専門外のわたしが、なんとか建物を解説できているのは、修復工事などの庶務を担当するなかで、河上先生から薫陶を賜ってきたからです。



河上信行氏[株式会社河上建築事務所 所長] は、平成17年(2005)3月に発生した福岡県西方沖地震による災害復旧工事の設計監理を皮切りに、国指定名勝「立花氏庭園」内の文化財建造物と真摯に向きあい続けてくださいました。
本当に、令和3年(2021)1月11日に他界されるまで、ずっと。


河上先生による徹底的な調査と、それを基とした設計図面の作成をもって、平成28年度(2016)に「名勝立花氏庭園大広間・家政局修理工事」がはじまります。

しかし、その着工直前の平成28年(2016) 4月に熊本地震が発生。

予定を変更することなく修理工事を進める一方で、熊本地震で受けた被害状況の調査から修理まで請け負ってくださいました。本当に心強かったです。



床下から天井裏まで、「立花氏庭園」の文化財建造物のなかで、河上先生が知らない柱は1本もないといっても過言ではありません。


庶務をつとめはじめた頃のわたしは、「縦の棒が柱で、横の棒が梁」レベルの知識しかなく、専門用語の多い早口な河上先生のお話を、2割くらいしか理解できない不甲斐なさでした。

そのわたしが今、多少なりとも建築について書けているのは、未熟者を見捨てず、慌ただしい現場でトンチンカンな質問してもご教示くださった河上先生のオカゲであり、先生が残してくださった2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』 のオカゲです。



令和2年(2020)3月に、河上建築事務所 編集『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』が無事に発行された後、河上先生は、お手元に蓄積されていた「立花氏庭園」関連のすべての膨大なデータ、 調査で撮影した写真や自身が作成した図面、工事関連の事務書類などを、丁寧に整理してまとめた上で、譲り渡してくださいました。

「自由に使ってください」
「え~いいんですか?大変大変ありがたいです。有難うございます。じゃあ、必ず先生の名前を出しますね」
「いりません、名前なんか出さなくて結構です」

というやりとりの末、とても心苦しいのですが、河上先生のこだわりの美意識を尊重しています。
逐一明記はしてきませんでしたが、図面はもちろん、写真についても河上先生の助けを大いにお借りすることで、 【立花伯爵邸たてもの内緒話】 は成立できているのです。



河上先生に頼りきりながら 【立花伯爵邸たてもの内緒話】を書き続けている根源には、河上先生の言葉があります。

「立花家が苦労して維持してきた御花は、柳川の個性であり、歴史です。ここまで残されてきたのは、立花家のみならず柳川の人々が愛情を持っていたからだといえます。心の拠り所にしてきたからこそ、子孫のために残したいと思う。文化財はその地域の人々に愛されてこそ守られていくのです」

建築への興味が薄かったわたしが、建築の知識や修復工事の苦労話など、知れば知るほど立花伯爵邸への愛情を増やしてきたように、ブログを読んだ方が「立花氏庭園」に関心を抱き、もっと知りたい、実際に行ってみたいと思ってもらえれば、とても嬉しいです。



『OHANA Story』2006年夏号 (株)御花作成 より

「歴史の蓄積を感じさせる、品格のある建物」

・江戸時代からの流れを継ぐ大名屋敷でありながら、内部には明治期以降の近代和風建築技術が随所に見られ、そのバランスこそが正統な品格を醸し出している。

・文化財的価値として特筆すべきは、接客空間である西洋館と大広間だけでなく、立花家家族たちの寝室であった小部屋棟、事務方が使っていた御役間という内向きの建物が残っていること。明治期の大名屋敷が、機能別に残っているのは稀。

河上先生による立花伯爵邸の評価



河上先生の理念は、常に一貫していました。

「文化財の宿命的な課題が、保存と活用です。こと、建物に限っていうと、活用されてこそ後世に受け継がれていくのではないでしょうか。」



河上先生から託されたバトンを、次へと渡していけるよう精一杯がんばります。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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上げ下げ窓を上げ下げする機構

2024/1/8

前回にて繰り返しご覧いただいたように、明治43年(1910)築の立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、とても軽やかに上げ下げできます。




立花伯爵邸西洋館の窓はどれも大きいのですが、その大きさに見合った重さを予想しながら窓を開けると、肩透かしを食らいます。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』より



どうしてこんなに軽いのでしょうか? タネやシカケはどこに?

わたしには何の変哲もない木造の窓枠しか見えません。



株式会社 御花は、平成25年から27年(2013~15)の3ヵ年にわたり、外壁のペンキの塗り替えを主とする、西洋館のメンテナンス工事を実施しました。災害復旧にくらべると急を要しないため、閑散期である夏季に集中して施工されました。



外壁だけでなく、窓の状態もかなり悪化していたので、西洋館のすべての窓を取り外して、点検・修理をしていきます。

メンテナンス工事前 左下隅のガラスが抜けています

窓を取り外している現場では、予期せぬ”力技”に驚きました。

※5倍速



作業のお邪魔にならないよう注意して、もう少し近寄ってみます。
(手ブレがひどく、ピントがズレている点はご容赦ください)

※音声注意

あらこんなところに、紐と錘と……滑車?



タネとシカケがここに‼



立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、「分銅式」の錘 オモリ を用いた機構により、上下の窓がどちらも自在に動かせる「両上げ下げ窓」です。
窓と同じ重さの分銅がバランスをとることで、小さな力での開閉や、開閉状態の固定が可能になっています。窓枠に仕組まれた分銅は、窓枠上部に取り付けられた滑車を介して、窓の両側とロープで繋がり、窓が分銅で吊るされたような形になっているのです。エレベーターと同様の仕組でもあります。

実際、メンテナンス工事の際に錘を量ると、およそ4.5kgほどでした。つまり、窓1枚の重さは4.5×2=9kgとなります。

ちなみに「上げ下げ窓」は、「引き窓」と比べると、戸車がないため気密性が高まる一方、上下に開口部をつくれるため換気効率も上がります。構造上外から開けにくいため、防犯面も安心です。



立花伯爵邸西洋館の各窓枠には、上下2枚の窓と、ロープでつながる4つの分銅が収まっていますが、100年が経過するなかで、木製建具がゆがんだり、ロープが切れたり、滑車が回らなくなったり、分銅が腐食したりと、様々な不具合が生じていました。

メンテナンス工事では明らかな不具合は修理しましたが、建築当初の素材や機構をできる限り後世に伝えたいと、切れずに残っていたロープや分銅など、経年劣化が明らかな部品でも、なるべく現役で頑張ってもらっています。

ですので、

100歳を超えた木造建築に斟酌していただき、通常のご見学時には、窓の開閉はご遠慮ください。



その代わり、いつでもこちらで、宗茂さんと誾千代さんが上げ下げ窓を上げ下げしている様子を御覧いただけます。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney

2023/12/31

立花伯爵邸の煙突から、サンタさんはやって来ませんでした。
前回、ムリだろうなと予想しながらも誘ってしまい、サンタさんへの配慮に欠けていたと深く反省しています。




やはりこの穴のサイズでは、煙は通っても……

立花伯爵邸 西洋館の煙突の穴 2005年4月13日撮影 

この写真は、実際に立花伯爵邸 西洋館の煙突の穴を撮影したものです。



話は平成17年(2005)3月20日 日曜日にさかのぼります。

10:53 福岡西方沖地震が発生。
柳川市では震度5弱を観測しましたが 、幸いにも人的被害はありませんでした。

国指定名勝「松濤園」(当時の名称)の被害はどうでしょうか。

え?

え~⁇

西洋館の煙突って、レンガ造りだったの⁈



ここからは、当時現場にいた当館館長に取材し、臨場感を添えてお届けします。



日曜の自宅にて、地震に驚愕しながらも無事にやり過ごした午後、やっと電話も通じるようになったと思っていた矢先に、

「もう、大変なの~、大変なことになってるのよ!」 

という職場からの電話。
慌てて地震の混乱が冷めやらぬ通勤路を乗り越え、西洋館南側に到着。
柳川市の文化財保護担当者と、被害状況を確認しました。



柳川市作成の備忘録には、このように記されています。

14:00 名勝「松濤園」所有者の立花氏から西洋館損壊の連絡。
15:30 松濤園被害状況確認。西洋館マントルピースの上部損壊(崩落の危険性あり)。庭園内の灯籠2基が倒壊。対月館南側の水路際の塀が倒壊。西洋館周辺についてはコーンにより立入禁止区域を設定。

崩落の危険性!!!
頂上部分が落下し、対面の立花伯爵邸「大広間」を破壊するという、二次被害も想定されます。

どうする?

翌21日は振替休日でしたが、まずは福岡県文化財保護課へ被害状況を報告。
崩落防止のためにマントルピース周囲に足場を組み、建物からワイヤーなどで引っ張る措置を指導され、22日に応急措置を実施しました。

3月23日
柳川市史 歴史建造物専門研究員でもある、有明工業高等専門学校建築科助教授(当時)・松岡氏と、過去に西洋館を修理した実績がある株式会社 大林組により立入調査がなされ、構造的には問題はないが、マントルピース及び内装の修理が必要と診断されました。

しかし、崩落までのタイムリミットは変わりません。

なるべく早く、煙突頂上部分を取り外したいところですが、国指定名勝の一部なので、所有者の一存だけでは何も出来ません。

柳川市と福岡県と文化庁と、密に連絡をとり、協議を重ねます。
災害復旧のため、現状変更したり補助金を申請したりするにも書類の提出が必要となり、根拠を示す資料も作成しなければなりません。
他にも地震の被害が判明し、予期せぬ出費が次々と生じてきます。



平成17年(2005)4月13日 水曜日 
9:00 西洋館煙突の先行解体工事がはじまりました。

ハラハラ

※BGM注意、3倍速



ドキドキ

2本並んだ煙抜きは鉄製で、かなりの重さだと推測されていました。
ブロック状にしてクレーンで吊り降ろす間に、崩れる可能性もあります。
頂上部分を動かすことで、不安定になっているレンガにどんな影響があるのか分かりません。

※BGM注意



ホッ

※BGM注意、3倍速

無事に中庭へと降ろすことができました。
なんと重さは3.6トン!

さらに手作業の範囲で、上部から順にレンガを降ろしました。
ただ、これはあくまで応急処置でしかなく、修理工事は始まってもいません。



4月15日には福岡県から、4月22日には文化庁から、被害状況の現地視察に来られ、これから進めていく修理工事の方針が検討されました。

修理工事の監修は、ひきつづき松岡先生に依頼することになりましたが、設計してくれる方を早急に探さねばなりません。
そこで推薦されたのが、福岡県文化財保護課からの信頼も厚い、河上信行建築事務所(当時の名称)でした。



松岡先生と河上先生、ここに御二人が揃ったときから、現在の国指定名勝「立花氏庭園」の文化財としての整備が、大きく動き出すのです。



そして4月27日、福岡県西方沖地震被害にともなう松濤園修理事業実施のための具体的な協議のため、関係者が一堂に会しました。

株式会社 御花を事業主体者として、現状復旧を目的とした修理工事を進めるにあたり、 梅雨や台風による影響を考慮した修理箇所の優先順位、修理工事の期間、その間の営業導線の確保などが決定されていきます。



ただ、西洋館の煙突の修理方針については、議論が紛糾しました。

危険箇所のみを取り外して旧材を積み直す工法なら、暖炉は使用はできなくなるが、煙突を解体する範囲が狭まるかもしれないという意見も出ましたが、最後には、構造・デザイン・機能を取り戻したいという所有者の希望が尊重されました。

現時点で振り返ると、暖炉が現役のまま残されたことで、文化財としての活用の幅が広がって良かったと、しみじみ思います。


この協議を契機に、名勝「松濤園」の保存・活用を進めるための委員会が設置されたこと、伯爵邸の各部屋の名称が整理されたこと、営業及び来館者、宿泊客の導線の整理されたことで、後のわたしたちも大いに助けられました。



「一民間企業体としては、長期間の営業縮小というダメージは大きく、短い時間の中で重大な決断を次々と下して文化財修理と向き合わなければなりませんでした。」と館長が語る、当時の御苦労は重々承知してはいるものの、後日談として話を聞く身にとっては、まさに劇場版とも言えるスリルと疾走感で、ワクワクしました。



しかし、これから煙突が修復されるまで、まだまだ数多の困難が待ち構えていて、汗と涙があふれる日々が続くのです。



参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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サンタさん、立花伯爵邸の煙突、今も現役ですよ!

2023/12/23

明治43年(1910)に建てられた、立花伯爵邸西洋館の暖炉は、今でも薪を燃やして暖をとることができます。
もちろん、実際に火を点す機会はごくごく稀です。

立花伯爵邸 西洋館2階 暖炉

2019年2月の柳川藩主立花邸御花のイベント「Classic CAFE&BAR OHANA 」では、こんな感じ。
※4枚目と5枚目の写真をご覧ください

Classic CAFE&BAR OHANA 「夜の御花をゆっくりとくつろいでいただきたい」という思いからいまれたCAFE&BAR OHANA。 サックスやピアノ演奏もあり、西洋館が見事オシャレなバーに変わりました。 暖炉に火が灯り、どこか異空間にタイムスリップした気分です。 ちなみにバーテンダーは、前職でバーテンダーだったフロントスタッフのN氏。 さすが、カクテルを作る姿もさまになっております。 心地よい演奏を聴きながら、皆さん美味しいお酒に旅行の疲れを癒しておりました。 ( 2019年2月12日投稿 柳川藩主立花邸御花Instagram より)



つまり、立花伯爵邸西洋館の煙突は現時点でも外と通じていて、空気を取り込んでいるのです。


え、それって煙突からサンタさんがやって来られるってコト!?


実は、明治・大正期に日本で建てられた洋館の暖炉のなかで、立花伯爵邸西洋館のように薪を燃やすことができるものは、あまり残っていません。


薪を燃やすだけの暖房は、他の暖房器具と比べて暖房効率がとても低いので、多くの洋館では、暖房器具を暖炉から変更しています。
そして、昭和初期になって建てられた洋館では、ほとんどの暖炉は当初から装飾でしかなく、煙突は不要となってしまいました。


例えば、明治42年(1909)10月17日に開業した奈良ホテル(奈良県奈良市)の場合、大正3年(1914)に約1年をかけて全館セントラルヒーティング化(スチーム暖房化)したようです。(奈良ホテルHP「奈良ホテルヒストリー」
「マントルピースの煙突が、いつの頃からか屋根から消えていますが、この時の工事の際に取り払ったのかも知れません。奈良ホテルのマントルピースは、この工事を境に実用の物ではなく装飾品となりました。」(『奈良ホテル物語』)

煙突がある頃の奈良ホテル
奈良ホテル』(たましん地域文化財団 所蔵) 「ADEAC:デジタルアーカイブシステム 収録」 (https://cultural.jp/item/adeac-R100000094_I000102187_00)
Cultural Japan



また、明治29年(1896)に建てられた「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)の洋館の場合、最低限の煙突で各部屋に暖炉が備えられるよう工夫された配置や、 屋根にある煙突の痕跡から、建築当初は暖炉を使っていたようですが、「本邸は都市ガスを熱源にしたボイラーが設置され、スチーム暖房が全館に配備されていました。」(『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』)と記述されるので、早い時期に変更されたのでしょう。



しかし、立花伯爵邸は暖炉から新しい暖房器具へと変更しませんでした。
立花伯爵邸の西洋館は、伯爵家族が日常的に生活する場ではなかったので、暖炉のままでも困らなかったのかもしれません。



現存する明治・大正期に建てられた洋館のほとんどは、戦後になって公共施設として利用されていたものです。そのため、不便な暖炉は廃止され、邪魔な煙突は撤去されてしまいました。
立花伯爵邸のように、住宅のまま使われ続けた数少ない洋館の場合、なおさら快適さが優先され、やはり暖炉と煙突は失われてしまいます。


その後、これらの洋館が文化財として見直されると、暖炉と煙突が外見的に復元されるのですが、暖房器具の機能まで復活させた例を聞いたことはありません。

サンタより、火気厳禁の原則やメンテナンスの都合が重視された結果でしょう。



ゆえに、立花伯爵邸西洋館は、サンタさんをお迎えできる設備が現役のまま使われている、とても希少な明治期の洋館だといえるのです。



サンタさんへ
このような貴重な煙突、実際に通ってみたくないですか?
暖炉からのご訪問、お待ちいたしております。

現在の立花伯爵邸 西洋館1階 暖炉前



参考文献
営業企画課「奈良ホテル物語」編集室『奈良ホテル物語』2016年7月(株)奈良ホテル 、『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園 (都立9庭園ガイドブック)』2011年6月 公益財団法人 東京都公園協会、

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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総工費およそ40億円!?延床600坪余の豪邸ルームツアーをオススメする3つの理由

2023/11/26

現在、オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪」 (2023.11.28開催) の二次募集中です。本日23:59締切!
【終了しました】

せっかくの機会に、できるだけ多くの方々にご参加いただきたいと心より願い、今回のオンラインツアーを徹底的にプロモーションします。



1つめの理由

今回のオンラインツアーは、いま流行りのルームツアーです。
しかも、総工費およそ40億円、延床600坪あまりの超豪邸のルームツアーなのです。

是非、下世話な好奇心でご参加ください。

総工費は当時の金額で20万円を超えていました。
当時の1円が現在の2万円くらいの重みがあったという説に基づいて計算すると、およそ40億円となります。
※参考サイト「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?」(金融・経済を楽しく学ぶサイトman@bow
*ちなみに、明治42年(1909)10月に開業した奈良ホテルの建築費は、およそ35万円だったようです。 (『奈良ホテル物語』2016年7月(株)奈良ホテル )



2つめの理由

しかも、ただの豪邸ではありません。
ご案内するのは「立花伯爵邸」”伯爵邸”です。

明治2年(1869)から昭和22年(1947)に廃止されるまで78年間存続した華族制度。明治17年(1884)に華族令が制定され、公・侯・伯・子・男の五爵位により序列化されました。

「立花伯爵邸」は明治43年(1910)に、伯爵立花寛治の住居として建てられました。つまり、今はもう日本に存在しない、伯爵という地位に相応しい品格を備えた豪邸なのです。

そのシンボルともいえる「立花伯爵邸」の「西洋館」は、建築当初からの姿を変えずに残されています。

明治43年(1910)建築当初の「立花伯爵邸」 「正門」から見た「西洋館」

現在の姿を、是非オンラインツアーでご確認ください。



3つめの理由

さらに立花家は、江戸時代を通じて、柳川藩11万石の藩主であった大名家です。「立花伯爵邸」が建てられた場所は、江戸時代には殿さまのお屋敷「御花畠屋敷」がありました。近代に伯爵となった立花家が、藩主として治めていた領地「国元」に建てた、歴史の積み重ねのある豪邸なのです。

「立花伯爵邸」の「大広間」では、大名家の格式に圧倒されます。

現在の「立花伯爵邸」 「大広間」の背後に「西洋館」が見えます



ちなみに、近代に建てられた旧大名家の住居として6件が重要文化財に指定されていますが、明治・大正期に建てられたなかで、「立花伯爵邸」のように、和館と洋館を併置している邸宅が現存している例はありません。

  • 明治17年(1884)旧徳川家松戸戸定邸【千葉県松戸市】和館
  • 明治23年(1890)旧堀田家住宅【千葉県佐倉市】和館
  • 大正5年(1916)旧毛利家本邸【山口県防府市】和館
  • 大正6年(1917) 旧島津家本邸【東京都品川区】洋館
  • 大正11年(1922)萬翠荘(旧久松家別邸)【愛媛県松山市】洋館
  • 昭和4年(1929)旧前田家本邸【東京都目黒区】 洋・和館



伯爵家が名に恥じぬように費用を投じて建設した、
旧大名家の重厚さと、近代の華族の綺羅びやかさとを併せもつ、
延床600坪余の豪邸のルームツアー。

と聞くと、参加したくなって来ませんか?



これまで、実際に福岡県柳川市まで訪問してくださった方々も、安心してください。
通常は未公開のヒミツをお見せしますので、現地をご存知だからこそ、より楽しんでいただけます。



そして、こちらの解説冊子もお手元にお送りいたします。

立花伯爵邸を建築作品として鑑賞するために必要な、あらゆる情報を詰め込もうと、松岡高弘氏、河上信行氏らの調査成果をまとめた『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』に頼りながら、わかりやすさを追求したつもりです。

A5判32頁と当初の想定よりボリュームは増えましたが、いま解説冊子を読み直していると、お伝えできていない点ばかりが浮かんできます。
取りこぼした話は、こちらのブログでちょこちょこと書いていきますが、まずはオンラインツアーにて、館長直々の案内の補足資料としてご活用ください。



「おはなのうむすび」・解説冊子の発送が、オンラインツアー開催日以降とはなりますが、ツアー参加の申し込みは、まだまだ受け付けていますので、是非!!
※アーカイブ配信もいたしますので、解説冊子は復習にご活用いただけますと幸いです。



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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西原吉治郎設計「西尾市岩瀬文庫書庫」

2023/10/19

まずは、前回の「Googleマップツアー《建築家・西原吉次郎の足跡をたどる》 」から、ご覧ください。





今回の捜索で出会えた、西原吉治郎の最大の足跡が「西尾市岩瀬文庫書庫」・「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」です。

ありがたいことに愛知県西尾市【公式】 が、吉治郎さんが設計した建物の解説動画を YouTube上で公開されているので、恩恵に預からせていただきます。




明治41年(1908)に、私立図書館「岩瀬文庫」を開設した豪商の岩崎彌助は、大正年間(1912‐26)に文庫の拡張を計画し、吉治郎が名古屋で開いていた西原建築工務店に依頼しました。

岩崎彌助については、この動画でわかりやすく解説されています。

西尾偉人図鑑
西尾市制70周年記念式典で放映された映像です。
※「岩崎彌助」の解説のはじまりを開始位置に設定



吉治郎が設計し、大正8年(1919)頃に完成した「西尾市岩瀬文庫書庫」は、レンガ造の地下1階地上3階建。小屋組はトラス構造です。

西尾市岩瀬文庫 旧書庫の案内
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫旧書庫の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



また、吉治郎は児童館も設計しました。
大正14年(1925)頃に完成した「西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)」は、小規模な木造の洋風建築 です。

⻄尾市岩瀬⽂庫 おもちゃ館(児童館)内の案内

普段は⼊ることのできない岩瀬⽂庫おもちゃ館(児童館)の内部を、にしお観光ボランティアガイドの案内でのぞくことができます。



岩瀬文庫には他にも建物がありましたが、上記2棟のみが戦災や三河地震(1945)をくぐりぬけ、国の登録有形文化財となりました。

そして、令和4年(2022)3月に策定された保存活用計画にむけて、耐震補強工事等の調査が実施されていたようです。

* 詳細は、西尾市教育員会文化財課「西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB) 」2022.3



おかげで、普段見ることのできない内部構造の解説動画も公開されています。
建築家の専門家による丁寧な説明が、とても分かりやすく、楽しいです。



「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)
※建物の解説のはじまりを開始位置に設定

現在調査中の西尾市岩瀬文庫旧書庫の内部構造についてお話を伺います。普段見ることのできない旧書庫の秘密が明らかに!




お分かりいただけましたでしょうか?

丸繁建築事務所の内田麻紀子氏が、「教科書どおり」と2回繰り返されました。

「岩瀬文庫旧書庫の内部構造を見てみよう!」
( にしお本まつり【公式】)

※30秒ほどの間で「教科書どおり」と2回繰り返していらっしゃいます



実は、修復工事で設計監理をつとめ、報告書を作成された河上先生が、立花伯爵邸を評するときに頻繁に使われた言葉も「教科書どおり」でした。



もういちど、 建築家・西原吉治郎(1868~1935)の簡単3行経歴を思い出してください。

日本の工業化に必要な高等技術者の養成をめざす私立工手学校で、夜間のみ15ヶ月間の速習で実践的な建築を学び、明治30年から福岡県、明治40年から愛知県で地方官僚建築家として活躍、49歳で退職後、名古屋初の建築事務所を開設した



「教科書どおり」という言葉の背景に、吉治郎さんの経歴を重ねると、すんなりと納得できる気がします。勤勉で真面目に建築業に取り組み、妥協を許さず、施主の要求に誠実に応える吉治郎さんの姿が浮かんできませんか。



「岩瀬文庫書庫・児童館」は、西原吉治郎が愛知県の職を辞した後に設計した建物です。
そして、吉治郎が福岡県時代に設計を引き受け、愛知県へ移動後は手紙などで工事を指示した「立花伯爵邸」も、吉治郎が個人的に請け負った仕事になります。

木造建築の公共施設は、利便性が優先されるため、時代に合わせて改築され、門も残さずに失われてしまう例がほとんどです。
いろいろな事情が重なった末に、福岡県と愛知県にそれぞれ残された西原吉治郎の建築が、立花伯爵と豪商・岩崎彌助という特徴的な個人を施主とするのは、とても興味深い巡り合わせではないでしょうか。



オンラインツアーでは、西原吉治郎が設計した「立花伯爵邸西洋館」を、当館館長が解説します。
福岡県に残る「教科書通り」の建築が気になる方は、 是非オンラインツアーへ!



オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付

参考文献
YouTube「愛知県西尾市」【公式】文化遺産オンライン(文化庁)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館」文化財ナビ愛知) 西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 本文編 (PDF 4.0MB)西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画 資料編 (PDF 9.3MB)愛知県西尾市HP西尾市岩瀬文庫書庫・西尾市立図書館おもちゃ館(旧岩瀬文庫児童館)保存活用計画」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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