Twitter
Instagram
facebook
Twitter
Search:

「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂①

2024/9/30

2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji


忠茂が亡くなったのは、延宝3年9月19日。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1675年 11月6日です。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



それでは、立花忠茂[1612~75]ってどんな人?

慶長17年(1612)7月7日 
立花宗茂の弟・直次の4男として誕生。即日、宗茂の養嗣子に。
元和8年(1622)12月27日 元服寛永7年(1630)永井尚政の娘・玉樹院と祝言、同11年12月死別
寛永14年(1637)12月~翌2月末
島原の乱に参陣 ⇒註1

寛永16年(1639)4月3日
家督を相続、2代柳川藩主に。
正保元年(1644)伊達忠宗の娘・ 法雲院と祝言⇒註2
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、11月20日剃髪し「好雪」と号す。
延宝3年(1675)9月19日没 享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」



註1:忠茂が島原の乱に持参したと伝わる甲冑の話はコチラ

島原の乱は、忠茂が生涯で参陣した唯一の戦となりました。



註2:いろいろあった忠茂の結婚事情の話はコチラ



そして、忠茂と「雷切丸」の話。
実は忠茂は、義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまったのです。

とは言うものの、渡した相手は吉弘家を継ぐことになった息子の茂辰。
藩主になれない息子に、祖父・道雪ゆかりの「雷切丸」を譲った忠茂の心情は理解できます。
しかし茂辰は早世。遺品分与されそうになった「雷切丸」は、弟の茂堅が「大切の御重宝」として、自らが継いだ矢嶋家にて伝えることにしました。
そして宝暦9年(1759)、「雷切丸」は矢嶋家から7代藩主・ 鑑通へ進上され、再び柳川藩主立花家に戻ってきます。

「雷切丸」が離れていた期間は、およそ100年くらいでしょうか。
帰ってきた「雷切丸」の存在価値は、偉大なる祖父の愛刀として扱っていた忠茂の頃よりも、ずっとずっと増していました。
以来、「雷切丸」は立花家で大切に伝えられ、現在は立花家史料館が所蔵しています。



その「雷切丸」は今、雷を切った因縁の地「大分県」へ出張中。

2024年11月10日(日)から臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!~義を貫いた武将、戸次道雪・高橋紹運・立花宗茂~」展にて展示される予定です。(~12月22日)


臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!」
2024.9.29-12.22 チラシ


2代柳川藩主・忠茂のエピソードを紹介してきましたが、まだまったく語り尽くせていません。
次回こそが本題となりますので、乞うご期待!




【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

▲ページの先頭へ

〚館長が語る6終〛再封後の宗茂と晩年の活躍

2024/9/1
立花宗茂[1567~1642]

元和6年(1620)、旧領柳川に復活を遂げた宗茂は、10万9千石余の領知を与えられました。










そのため、奥州南郷での家臣に加え、これまで肥後加藤家のもとにいた旧家臣達を呼び寄せたり新規の召し抱えを加えたりし、家格に相応しい体制を整えてゆきます。柳川藩の江戸屋敷の普請や、江戸城の城郭普請への動員、将軍の共をして上洛(京都に上ること)するなど、忙しく過ごすことになります。

また、徳川秀忠、家光の御成(将軍の外出)の供も多く、江戸を離れることがなかなか出来ない状況であったようです。

宗茂自身、家臣に宛てた手紙でも、帰国の御暇を許されないことは譜代並の処遇(それだけ、側近く必要とされている)だと自慢げに記しています。




新しい体制を整えてゆく多忙な日々の中、元和8年(1622)12月27日、実弟直次の四男として生まれ、 直後に宗茂の養子となっていた嫡嗣忠茂が将軍秀忠の御前で元服をします。



寛永6年(1629)、63歳となった宗茂は下屋敷へ転居をし、内々に隠居の準備と忠茂への権限移譲を進めてゆくのですが、将軍からは正式に隠居の許しを得ることはできず、これまで以上に二代将軍秀忠、そして三代将軍家光からも重用され、側近く仕えることになります。

この頃の様子を忠茂に宛てた書状に自ら次のように語っています。

「…つねづねかように其の日ほど出頭仕り候は、国の五ヶ国三ヶ国も取り候程の様子にて候つる、おかしく候、 …(中略)…猶以て毎日罷り出、隙無く草臥候事推量有るべく候」(特別な酒宴の席に臨席できたのは、国の五ヶ国三ヶ国も取ったような栄誉を感じています…なおも毎日将軍にお供し、休む暇もなく疲れていることはご推察ください)

忠茂に対し、どこか誇らしげな宗茂の様子に微笑ましささえ感じます。




寛永15年(1638)2月6日、宗茂は、前年より勃発した天草・島原の乱鎮圧に苦戦する幕府軍の原城総攻撃に参陣するため満を持して着陣。この時72歳でした。
往年の勇将の面目躍如だったのでしょう。「軍神再来」と囁かれたというエピソードが伝わっ ています。

この年10月20日、宗茂は正式に隠居を許され、「立斎 リッサイ 」と号します。



その翌年、年を重ねる宗茂の体調を気遣う家光から、風邪をひかぬよう、転ばぬようにと紅裏烏巾(黒頭巾)と紫竹の杖を賜りますが、これを名誉なこととその姿を肖像画にしたものが、宗茂の晩年の姿を伝える貴重な資料として伝わっています。

* 宗茂晩年の姿は、コチラで *
「琢玄宗璋賛 立花宗茂像」慶應義塾 センチュリー赤尾コレクション蔵
◎「立花宗茂肖像」 小野恭裕氏寄贈 柳川古文書館蔵
 ⇒白石直樹「寄贈された『立花宗茂肖像』と『小野鎮幸像』」 (広報やながわ2024年4月号 新市史抄片196 より)

※ちなみにコチラは、立花家に伝来して、当館が所蔵する宗茂の肖像画。

立花宗茂像 立花家史料館蔵




宗茂は多くの人々に惜しまれ、寛永19年(1642)11月25日夕方、江戸にて他界、享年76でした。

立花宗茂と誾千代の生涯について6回にわたりお話しましたが、大河招致活動を応援していただけるよう、今後も普及活動を続けてゆきたいと思います。



立花宗茂[1567~1642]ってどんな人?

立花家史料館 館長が語る”立花宗茂と誾千代” 
第1話 近世大名立花氏の誕生と戸次道雪
第2話 女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代
第3話 柳川城主となった立花宗茂
第4話 関ケ原合戦後の立花宗茂
第5話 立花宗茂、柳川藩主への復活
第6話 再封後の宗茂と晩年の活躍



文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

▲ページの先頭へ

〚館長が語る5〛立花宗茂、柳川藩主への復活

2024/8/1
立花宗茂[1567~1642]

宗茂は、関ケ原合戦で敗軍の将となり、慶長6年(1601)に浪人の身となりました。










5年の月日が流れ、慶長11年(1606)9月ようやく2代将軍秀忠に拝謁が叶いました。長年の浪牢生活を終え、奥州南郷(現在の福島県棚倉町付近)に1万石の領知を与えられ、大名という身分に復帰することができたのです※。

※ 徳川将軍の家臣のうち、知行高1万石以上からが「大 名」となり、1万石未満のものは「直参 ジキサン」と呼ばれます。


さらに慶長15年(1610)、宗茂は加増を受け、領地高は3万石となります。

2010年「宗茂」の名乗りから400年を記念して
御花史料館(現立花家史料館)で特別展を開催

実は、これまで煩雑さを避けるため、立花宗茂という名に統一して書き進めていますが、正式に「宗茂」と名乗るのは、この年からなのです。

旧家臣に送った加増を知らせる書状に「かたじけなき仕合せ、御推量あるべし」と書いているように、このめでたい加増を喜んだ宗茂は、この機に改名したことが想像されます。










「宗茂」の名乗りから400年記念特別展「立花宗茂」
[2010.11.13~2011.1.10] ポスター

これまで、波乱に満ちた人生の運気を切り開こうとするが如く、統虎 ムネトラ、宗虎 ムネトラ、正成 マサナリ、親成 チカナリ、政高 マサタカ、尚政 ナオマサ、俊正 トシマサ、と次々と名を変えてきましたが、「宗茂」となってからは生涯この名を使い続けます。


南郷に領知を得た後も、将軍の側近く仕えるため江戸を離れることがあまりなかった宗茂に代わって、家臣の由布 ユフ 惟次 コレツグ、斎藤統安 ムネヤス、十時 トトキ 惟昌 コレマサ、因幡宗糺 ソウキュウらが在地で支配に当たっていました。

この頃の宗茂は、秀忠の警護や江戸城の守衛としての役にあったようです。

慶長19年(1614)の大坂の陣では将軍の軍事的相談役を務めたと言われるように、武人として高い信頼を得ていたことが想像されます。


関ケ原合戦ののち、筑後国は田中吉政の領地となりましたが、2代忠政は跡継ぎがないまま没してしまったため田中家は改易されることになり、宗茂は欠国となった筑後の柳川へ再封の決定が下されることになったのです。

この再封がなぜ実現したのか、ひと言では説明できませんが、宗茂のそれまでの実直な生き方と彼を支えた人々との絆がこの奇跡の復活に導いてくれたものと思います。

慶長5年(1600)の柳川城開城からちょうど20年後、再び大名として 柳川城へ入城したのです。

柳川再封400年記念特別展「復活の大名 立花宗茂」
[2020 .12.4~2021.2.7] フライヤー



宗茂54歳の早春、激動の時代をくぐり抜け、静かに力強く柳川藩10万9千石の大名家当主として新しい時代が始まったと言えるでしょう。




これまでに開催された立花宗茂をメインテーマにすえた特別展は3回。
上記節目のほか、宗茂生誕450年を記念した「立花宗茂と柳川の武士たち」[ 2017.12.9~2018.2.4]が、柳川古文書館と立花家史料館とで共催されました。
このとき当館が作成したDVD版電子図録が、現在入手可能な唯一の展覧会図録となります。本図録では、両館の学芸員による詳しい解説とともに、宗茂と立花家家臣団の足跡をたどる文書資料と武具甲冑などの美術工芸品とを、デジタルならではの高精細画像で楽しめます。

特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』DVD電子図録を販売中






文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

▲ページの先頭へ

〚館長が語る4〛関ケ原合戦後の立花宗茂

2024/7/1
立花宗茂[1567~1642]

無念の思いを抱えたまま柳川に戻ることになった宗茂ですが、九州上陸の前、同じく九州に向かう島津義弘と日向灘沖で遭遇します。









島津義弘[1535~1619]

島津義弘は関ケ原で敵中を突破して決死の帰国の途上にありました。










宗茂の実父、高橋紹運 ジョウウンは、かつて島津軍に討たれた過去がありますので、宗茂にとって仇とも言える武将ですが、宗茂は過去の遺恨にとらわれることなく、共に助け合うことを約束して帰国を果たしたと伝えられています。







柳川城は東軍についた諸侯に包囲され、鍋島直茂の軍と江上(現在の福岡県久留米市城島町付近)・八院(現在の福岡県三瀦郡大木町・大川市付近)で激しい戦いとなり、立花軍は多くの戦死者をだしました。

しかしながら、徳川家康からの「身上安堵の御朱印状」※1を携えた家臣・丹親次が帰還したことから和睦交渉が進みます。宗茂とは信頼関係のあった加藤清正からの開城要請を受けて柳川城を開城し、領地安堵への期待を残しつつ上洛をするのですが、結果的に改易※2され、筑後一国は、三河岡崎の領主であった田中吉政の治めるところとなったのです。

※1 宗茂が西軍に加わった罪を許すという内容であったと推測されています。
※2 大名としての身分と所領を没収され、浪人となること



加藤清正[1562~1611]

宗茂とその家臣たちは、肥後の加藤清正の客分として高瀬(現在の熊本県玉名市)に仮寓することになり、誾千代は、腹赤ハラカ(現在の熊本県玉名郡長洲町)の屋敷に移りました。









誾千代[1569~1602]

夫・宗茂の大名復帰を強く望んでいたであろう誾千代は、関ケ原合戦からわずか2年後の慶長7年(1602)、熱病のため腹赤の屋敷で死去します。法名は「光照院殿 コウショウインデン 泉誉良清セイヨリョウセイ 大禅定尼 ダイゼンジョウニ」享年35と伝えられます。







誾千代が亡くなった腹赤には墓石があり、その特徴的な形から「ぼたもちさん」と呼ばれています。

熊本県玉名郡長洲町にある誾千代の墓碑
「ぼたもちさん」【長洲町指定文化財】

長洲町の文化財に指定され、周辺の駐車場整備も進んでおりますので、柳川へお越しの折は、少し足を延ばしてお訪ねいただければと思います。


2011.10.19付ブログでは「ぼたもちさん」について 詳しく紹介しています


宗茂自身は少数の家臣とともに再び上洛、徳川家康の許しを待ち続ける苦渋の浪牢生活を送りますが、領国を失った宗茂の大名復帰への望みを託して付き従い続けた家臣達がいたのは驚くべきことです。

浪人中の宗茂は、慶長6年(1601)と翌7年には中江新八、吉田茂武(桃山時代から江戸時代初期にかけての武術家)から日置 ヘキ 流弓術について免許されていますので、厳しい時にあっても武士の本分として武術の鍛錬を怠らなかった姿勢がみえてきます。



そして、慶長11年(1606)、1万石ながら奥州南郷の地(現在の福島県棚倉町付近)の大名として返り咲きを果たすことになり、両度の大坂の陣に出陣します。

宗茂の運命はここから大きく動き出すのです。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

▲ページの先頭へ

〚館長が語る3〛柳川城主となった立花宗茂

2024/6/1
立花宗茂[1567~1642]

豊臣秀吉にその武功を高く評価され、大友家の家臣から豊臣大名となり、柳川に領知を得た立花宗茂は、妻誾千代を伴って柳川城へ移ることになりました。
天正15年(1587)6月のことです。








間もなく宗茂は、隣国の肥後で勃発した国衆の一揆※討伐に加わります。
宗茂にとって豊臣大名となって初めての戦となったわけですが、そこでの戦功が際立っていたことが秀吉の朱印状に記されています。

※肥後国衆一揆…天正15年、秀吉に肥後を与えられた佐々成政は検知を行うが、それを拒否した隈府城の隈部親永に肥後の国人衆が加担して大規模な一揆に拡大した。秀吉は小早川秀包を総大将とし、筑後、肥前の諸将を討伐に向かわせた。



宗茂はその後、誾千代と共に初の上洛を果たし、若き豊臣大名として大坂と柳川を頻繁に行き来しながら柳川の統治を進めることになります。宗茂22歳のときでした。



そして文禄元年(1592)、秀吉の「唐入り」にあたり、宗茂は小早川隆景を主将とする第六軍配属され朝鮮半島へ渡ります。


小早川隆景 [1533~1597]

隆景は、すでに実父と養父を亡くしていた宗茂にとって第三の父とも言える人物です。
若い宗茂に大きな影響を与えた武将であり、これまでの活躍から宗茂に対して高い信頼を置いていたようです。









その期待に応える働きをした宗茂は加藤清正や島津義弘をはじめとする西国大名と固い信頼関係を築くことになります。








誾千代[1569~1602]

一方、誾千代は柳川城の南にある宮永という地に館を建て、城を出て別居することになりますが、その時期は、文禄4年(1595)と慶長4年(1599)の二つの説があります。









いずれも、2度にわたる宗茂の朝鮮出陣直後のことですので、この大きな戦の間に二人の関係に何かがあったのではないかでしょうか。

資料が残っていないため想像の域は出ませんが、初代道雪の娘であり元城主であった誾千代と、婿でありながら秀吉に見いだされて一大名へ出世を果たした宗茂には、それぞれに強い忠節を抱く家臣がおり、そのバランスの危うさも別居の背景にあったのではないかと考えられています。



豊臣秀吉 [1537~1598]

慶長3年(1598)、豊臣秀吉死去の後に朝鮮から帰国した宗茂は、その1年7か月後に天下分け目と言われる関ケ原合戦において、西軍に加担します。









ここに至る経緯については資料が乏しく不明ですが、島津義弘が遺した文書によると「秀頼様に対したてまつるご忠節のため、御軍役の人衆過上の由」と記されているように、軍役の規定を大きく上回る大軍を派兵したとされ、強い決意をもって西軍に投じたことがわかります。



しかしながら、大津城を攻略していた宗茂の軍は関ケ原合戦の本戦には間に合わず、そのまま敗軍の将として無念の思いを抱きつつ九州へ帰還することになりました。



この戦の後、宗茂の人生は大きな試練の時を迎えることになります。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

大久保ヤマト氏イラストの【 宗茂と誾千代キャラクターズバッジ】 をお手元に





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

▲ページの先頭へ

〚館長が語る2〛女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代

2024/5/3

前回は、7歳で立花城主となった誾千代が、13歳の時に2つ年上の宗茂を婿に迎えるまでのお話しをしました。





今回は、宗茂と誾千代の結婚と二人の立花城時代についてお話ししたいと思います。

大友宗麟 [1530~1587]

元亀2年(1571)、大友宗麟の命により立花城主となった戸次道雪ですが、男子がいなかったため、主である大友宗麟は戸次一門のうちからしかるべき男子を養子として「立花城」の家督を譲るように勧めます。









しかし、道雪はこれを聞き入れず、天正3年(1575)数え年わずか7歳の娘・誾千代に立花城主の座を譲ってしまいます。この相続は大友宗麟と義統も認めたため、ここに幼少の女城主が誕生したのです。

天正三年(1575)五月二十八日
戸次道雪譲状写(部分)【重要文化財】





その6年後、誾千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが高橋紹運の長男であった弥七郎 ヤシチロウ 統虎 ムネトラ、のちの立花宗茂でした。
誾千代と宗茂の婚儀は天正9年(1581)8月と言われています。

こうして、立花城主の座は夫となった宗茂に引き継がれたのです。



二人の婚儀の背景には、騒乱の九州にあって衰退する大友家の家臣として北部九州を守る戸次道雪と高橋紹運が堅固な軍事同盟を結ぶという意義があったのではないかと言われています。


その頃、道雪と紹運はともに筑前筑後の各地で反大友勢力との戦の中にありましたが、宗茂と誾千代の結婚からわずか4年後の天正13年(1585)9月、道雪は筑後北野の陣で没し、翌14年(1586)7月末には紹運の護る筑前岩屋城も九州の統一をもくろみ北上する島津軍との戦いで陥落、紹運も戦死します。



二人の父を相次いで亡くした宗茂と誾千代は、その時19歳と17歳という若さでしたが、立花家を率い、立花城を包囲する島津軍との20日間におよぶ決死の籠城を耐え抜きます。




そして、大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の軍が九州に入るという報を受けて島津勢は撤退を開始し、立花城は危機を脱しました。宗茂はこの機を逃さず、島津方にあった高鳥居城を激戦の末落城させ、岩屋・宝満両城も奪回します。

豊臣秀吉 [1537~1598]

この武功に感じ入った秀吉は、黒田如水、安国寺恵瓊等に宛てた書状で宗茂を「九州之一物(九州一秀でた武将)」と激賞しています。









この軍功により、天正15年(1587)立花家は大友家から独立して筑後柳河に新たな領知を与えられ、大名となったのです。

天正十五年(1587)六月二十五日 豊臣秀吉朱印状【重要文化財】


九州の要衝である立花城は、その後小早川隆景が入ることになり、宗茂と誾千代は筑後柳川城へと移りました。


立花家御城印シリーズ 「立花城」「柳川城」はじめました






若き豊臣大名・立花宗茂は戦巧者としてその名を知られるようになるのですが、そのお話は、次話でご紹介いたしましょう。




文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

▲ページの先頭へ

〚館長が語る1〛近世大名立花氏の誕生と戸次道雪

2024/4/3

福岡県では、旧柳川藩の城下町であった柳川市をはじめゆかりの市町村とも手を結び、戦国時代の終わりに北部九州で活躍し、初代柳川藩主となる立花宗茂と、その妻であり女城主であった誾千代の物語をNHK大河ドラマとして取り上げていただくための招致活動を行っています。


まずは、皆さまに親しみを抱いていただけるよう、「立花宗茂と誾千代」の物語を6回に分けてお話していきます。



今回は、プロローグとして近世大名立花家誕生までのお話。



戸次道雪[1513~1585]

柳川藩主立花家は、戸次 ベッキ 鑑連 アキツラ 、改め道雪 ドウセツ を初代としています。
ネット上や、歴史本では「立花道雪」と書かれていることが多い戦国武将ですが、史実では生涯戸次姓のまま立花城主の座にあった人物です。






立花宗茂[1567~1642]

道雪は立花姓の使用を主の大友宗麟から許されなかったのですが、道雪の養子となった統虎 ムネトラ (後の宗茂)が、天正10(1582)年、「立花」姓を継ぐことになったのです。









さて、そもそも「立花」姓は、遡る事252年の南北朝時代、立花山に城を築いた城主が名乗ることから始まります。



その人物は豊後の有力守護大名となる大友家の一族、大友貞載 サダトシ で、立花貞載となります。これを、道雪以降の立花家と区別して、前期立花家と呼びます。



近世大名立花家のルーツは、豊後の守護大名大友家に深く関わっています
「立花家」について、より深く知りたい方にオススメ‼

◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー






立花城主であった前期立花家は、7代立花鑑載 アキトシ のとき、大友家に謀反をおこし、敗死します。代わって立花城主となったのが、戸次道雪でした。



誾千代[1569~1602]

道雪には男子がなかったため、一人娘誾千代 ギンチヨ が7歳の時に、城主の座を譲られました。










ここに戦国史上稀な女城主誕生となったわけですが、誾千代が13歳のときに、同じ大友家家臣の高橋紹運 ジョウウン の長男統虎15歳を婿養子に迎えました。


高橋紹運 [1548~1586]

紹運が長男を養子に出すということはそれだけ重い決意があったはずで、衰退する主家大友家を最後まで支え続けた戸次家と高橋家が堅い同盟を結ぶという意義が示された婚姻であったといえるでしょう。








九州の戦国期に勇将として名高い二人の武将、紹運と道雪、二人の薫陶を受けて成長した立花宗茂は頭角を表すことになります。





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。







文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

▲ページの先頭へ

意外なところで再発見!立花宗茂の金色の鎧

2023/5/14

NHK大河ドラマ「どうする家康」にて、とても象徴的にあつかわれ、番組のアイコンともなっている金色の鎧、徳川家康所用「金陀美(金溜塗)具足」(静岡・久能山東照宮所蔵)【重要文化財】

ドラマのなかでは、家康が今川義元から贈られていました。

え、この話の流れ、立花宗茂で見たことある!!

実は宗茂にも、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう”というエピソードがあります。しかし、残念ながら、宗茂の金色の鎧は現存していません。
そもそも、宗茂の金色の鎧を着ていたことは、最近まで研究者にも知られていませんでした。



現存する立花宗茂の甲冑は2領「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。どちらも立花家史料館が所蔵しています。

ダークブラウンをベースにビビットな赤を差し色とし、それぞれの佩楯を金と銀にするという、派手さに走らないシックな装いです。
わたしは宗茂を、カラフルな色や金ピカさとは無縁のオシャレ上級者だと思っていました。



これらの甲冑について詳しく解説すると長くなりすぎるので、ご興味のある方は、オンラインツアー【終了しました】にご参加いただけますと嬉しいです。

◆販売中◆ 解説本『立花宗茂の甲冑大解剖』(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足 )16頁 300円/解説本『立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ(鉄皺革包月輪文最上胴具足)24頁 500円(どちらも税込・送料別)展示室では鑑賞しずらい裏面や細部の拡大写真と詳細な解説。◎ B6判オールカラー ※まとめての購入は送料がオトクです






ところが、7年ほど前に、柳川藩士小野家の御子孫宅にて、大切に伝えられてきた 「金白檀塗色々威壺袖」(柳川古文書館所蔵)が再発見され、この認識がくつがえされます。

高精細画像なので、金具を拡大して家紋をご覧ください

金白檀塗の7枚の横長板を、上から紫、紅、白、紫、紅、白と色を変えた毛引威でつなぎ、壺のような曲線で肩にフィットする形にした壺袖。 “金白檀塗”とは、金箔を貼った上に透明な漆をかぶせる技法です。ちなみに、金溜塗は、金泥を塗った上に透明な漆をかぶせるので、同じ金色でも発色が違います。

注目ポイントは、杏葉紋のついた金具です。



この袖が宗茂のものと比定できる要因の1つが、杏葉紋です。

大友氏が寄進したと伝わる「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮所蔵)【重要文化財】 や「大友の鎧(色々威腹巻)」(長崎・松浦史料博物館所蔵)など、宗茂の主筋であった大友氏ゆかりの甲冑との関連を感じさせます。

まずはコチラを150秒ご覧ください

「金白檀塗色々威壺袖」「白檀塗浅葱糸威腹巻」「大友の鎧(色々威腹巻)」をすべてご覧いただけましたでしょうか?



つまり、宗茂の金の鎧は、主の大友義統(1558‐1605)から下賜された可能性が高いのです。


まさに、 “若武者時代に主筋から金色の鎧をもらう” です。



まことに残念ですが、小野家伝来の袖以外のパーツは失われているので、宗茂の金の鎧の全体像は、想像するしかありません。

しかし、当時の鎧は、基本的には各部品のデザインをそろえていたため、同じ杏葉紋をつけた「白檀塗浅葱糸威腹巻」(大分・柞原八幡宮蔵) を参考に、小野家伝来の袖のスタイルを他の部品にも反映させた、「金白檀塗色々威具足」復元イメージ図を、”立花宗茂生誕450年記念特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』“のために作成しました。

作画をお願いした大久保ヤマトさんが、いかにも宗茂が着ていそうな金の鎧のイメージ像を、考証に忠実に、とても緻密に描いてくださってます。

「金白檀塗色々威具足」復元イメージ  
大久保ヤマト氏作画

わぁ、格好いい!

白檀塗によるキラびやかな金色とカラフルな威糸は、現存する宗茂の甲冑の配色とは対照的で、これまで誰も想像しなかった宗茂の若武者姿になりました。

白檀塗の明るく透明感のあるゴールドに、毛引威の威糸が前面に出ていて、華やかで上品です。さすが、オシャレ上級者!
威糸の紫、紅、白の3色の組合せもステキ。ケーキにしても、すごく映えます。



宗茂と誾千代 NHK大河ドラマ招致活動サイト

先日、浜松まつりでパレードする、金の鎧を着た松潤殿をTVで拝見しました。
とてもとてもウラヤマシイ……

立花宗茂と誾千代がNHK大河ドラマになった暁には、出演者の方々に、ぜひ柳川で水上パレードしてほしいと心から願っております。
そのときは、当館所蔵のオシャレ甲冑も捨てがたいですが、やはり光り輝く金の鎧の方が映えるかなという思いのまま、ここまで書きあげてきました。






それでは、皆さまの疑問にお答えしましょう。
なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、家臣の小野家に伝来したのでしょうか?





参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、「しずおか文化財ナビ 金溜塗具足」(静岡県HP)久能山東照宮(静岡県)柳川古文書館(福岡県)柞原八幡宮(大分県) 松浦史料博物館(長崎県)

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●


立花家史料館では、大久保ヤマトさんに、さまざまなイラストを描いていただいてます。
各イラストのエピソードなどが聞けるインタビューは↓

▲ページの先頭へ

【スタッフに聞きました】大河ドラマ妄想キャスト2021

2022/2/14

柳川藩主立花邸 御花スタッフと立花財団スタッフへのアンケートシリーズ第2弾は

「大河ドラマ妄想キャスト2021」

大河ドラマ「立花宗茂と誾千代」が実現したら、どんなキャストに演じてもらいたいかを、自由に妄想してもらいました。

(2022年でないのは、アンケートをとったのが昨年だったからです。)

それでは早速みていきましょう。
ブログを彩るイラストは大久保ヤマトさんによるものです。
(以下、主に敬称略)

【立花宗茂】

 

 

 

 

 

綾野剛
(理由)アクションできるし、戦いのシーンがかっこよく決まりそうということと、私の中ではほかの武将のイメージや漫画のキャラが定着しているということもなさそうだったので選びました。宗茂は人望に厚く、城主を追われても慕う部下が大勢いたと聞いたので、綾野剛さんのイメージが出てきました。

池松壮亮
(理由)肖像画の丸顔がなので。福岡県出身でおばあちゃん家が大川にある。

坂口健太郎
(理由)朝ドラで『俺達の菅波』と視聴者から人気大!

福士蒼汰
(理由)カッコ良いから可愛いまで演じられそう

藤原竜也
(理由)肖像画の顔が丸いから

田中圭

小関裕太
(理由)高身長で、育ちのよさそうな雰囲気がある。

 

【誾千代】

 

 

 

 

 

土屋太鳳
川口春奈
戸田恵梨香
(理由)立花家のお姫様は「御姫様」というイメージではなくて、運動ができて、ハートが強くて、さっぱりしたところが素敵なイメージが勝手にあるため選びました。イメージする人がいろいろ出てきて選べませんでした・・・・

広瀬すず
(理由)誾千代がキリッとしたイメージで、広瀬すずさんもキリッとしてそうなので。

大久保ヤマトさんも広瀬すずさんに演じていただきたいそうです。

武井咲
(理由)芯がしっかりしてそう

高畑充希
(理由)もしくは八千子でも

橋本愛
(理由)冷たそうで笑顔が可愛い

小松菜奈

清野菜名

浜辺美波

沢尻エリカ
(理由)視聴率とれそう

杉咲花

久保田紗友
(理由)きりっとした顔立ちがいい

 

【戸次道雪】

 

 

 

 

 

大沢たかお
(理由)大きくて強そう

市川海老蔵
(理由)力強そうな目が肖像画と重なるので
(理由)目のインパクトで!!

渡辺謙
(理由)似合いそう

佐藤浩市
(理由)目力がある

 

【高橋紹運】

 

 

 

 

 

役所広司
(理由)大きくて強そう

中井貴一
(理由)中井貴一さんと坂口健太郎さん親子を観てみたい
(理由)個人的に好き

唐沢寿明
(理由)歳はあいませんが、イメージです

鈴木亮平
(理由)鈴木亮平さんが好きなので

竹中直人

 

 

【豊臣秀吉】

 

 

 

 

 

柄本明

 

【加藤清正】

 

 

 

 

 

オダギリジョー

 

【黒田長政】

妻夫木聡
(理由)童顔なので、官兵衛より長政かなぁ

 

【大友宗麟】

 

 

 

 

 

陣内孝則

伊武雅刀

 

【宋雲院】

 

 

 

 

 

小泉今日子

 

【八千子】

 

 

 

 

 

吉岡里帆

今田美桜

 

以上です。

以前、同じように「立花宗茂がドラマ化された場合、どなたに演じてほしいですか」というアンケートをとったことがありました。
2013年4月に「葉室麟 トークライブ」が開催されたときのことです。

そのときの結果はこちらのブログでご覧いただきたいのですが
見比べてみると、いくつかの共通点があることがわかります。

 

①朝ドラの影響力

2013年の宗茂1位に松坂桃李さんがあがっていたのは、前年に放映された「梅ちゃん先生」で人気が爆発していたことからでした。
今回は「おかえりモネ」から、俺たちの菅波がランクイン。

 

②道雪のキャスティングのポイント

ずばり「目力」。

 

③宋雲院のキャスティング

2013年の2021年も小泉今日子さん。
これはもう決まりですね。

 

④柳川にゆかりのある役者さん

陣内孝則さん、妻夫木聡さん、今田美桜さんなど。

 

一方、前回との相違点もいくつか。

①誾千代のキャスティング

誾千代は若くして亡くなったということもあってか、2013年からはだいぶ変化がありました。

 

②ジャニーズがいない

今回はアンケート回答者の範囲が限られていたせいもあると思います。

 

いずれまた、もっと広くみなさんにご回答いただけるような
妄想キャストアンケートを実施する機会を設けたいと思っています。

そのときまでに、みなさんもぜひ、妄想力を全開にして
「立花宗茂と誾千代」大河ドラマのキャストやシナリオを考えておいてください。

▲ページの先頭へ

特別展における干支別おすすめ作品

2017/12/20

立花宗茂生誕450年にあたる2017年。
記念の年の最後を飾る最大のイベント、特別展「立花宗茂と柳川の武士たち」
柳川古文書館と立花家史料館の2会場で、12月9日から始まりました。

 

今年もあっという間に時が過ぎ、気がつけばもう年末。
そこで全展示作品、2会場合わせて130点余りの中から
干支別のおすすめ作品をご紹介したいと思います。

 

【「子年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第4章 改易 より
「立花宗茂書状」(個人蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

慶長17年(子年)に出された書状です。
肥後加藤家に仕える十時成重が
奥州南郷(棚倉)領主となった宗茂のもとへ
転仕したいと希望するも
加藤忠広の家督相続という大事な時期だから
転仕願いは当分控えなさい、という内容です。

 

【「丑年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第2章 立花山城へ、第3章 柳川城主となる より
「金箔押桃形兜」(立花家史料館蔵)

修復復元

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おなじみ金甲です。
なぜ丑年なのか。
裾黒の後立が、白と黒でなんとなくホルスタイン色かな、と思ったので。

 

【「寅年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「火縄銃 銘 大虎・小虎」(個人蔵)

大虎 部分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝鮮出兵の時に米多比鎮久が虎狩に用いたとされる火縄銃です。
一緒に伝来した「虎の歯」も並べて展示しています。

なお寅年生まれの方には他に
「加藤清正書状」なども併せておすすめいたします。

 

【「卯年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「鉄黒漆塗縹糸素懸威最上胴具足」(個人蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

生形家に伝来した甲冑です。
杏葉部分を見ると、こちらを向いたウサギさん(真向兎)がいます。
全展示の一番最後に登場する甲冑なので
「さよなら、また来てね」と言っているようにも見えます。

 

【「辰年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「鉄黒漆塗桶側二枚胴具足」(個人蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

由布家に伝来した甲冑です。
いかつい龍頭の前立が、こちらを威嚇するように睨みをきかせています。
誰もいない夜中には、金色の羽で飛び回っているかもしれません。

 

【「巳年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第2章 立花山城へ より
「誾千代肖像(写真パネル展示)」(良清寺蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

7歳にして立花山城の女城主となった誾千代は
永禄12年、巳年生まれです。

 

【「午年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「刀 無銘 伝清綱」(個人蔵)

白鞘 部分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後に儒学者となった安東省菴(親善)が
「有馬之役」つまり島原の乱で佩びたことが
白鞘に記されています。
「有馬之役」。
有「馬」之役。

 

【「未年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第6章 ふたたび柳川へ より
「鉄黒漆塗碁石頭伊予札紺糸素懸威二枚胴具足」(立花家史料館蔵)

部分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十時家に伝来した甲冑です。
胴に配された鼻紙入(緑色のポケット部分)は、おそらく羊の毛織物製。

 

【「申年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「豊臣秀吉朱印状」(立花家史料館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

宗茂に筑後三郡を与えますよという、豊臣秀吉の朱印状です。
これがなぜ申年なのかは、お察しください。

なお申年生まれの方には他に
豊臣秀吉から拝領した「唐物茶壺(呂宋壺)」なども併せておすすめいたします。
こちらも理由はお察しください。

 

【「酉年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第2章 立花山城へ より
「脇指 無銘(雷切丸)」(立花家史料館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大人気の雷切丸。
戸次道雪が雷を斬るまでは「千鳥」という刀でした。

 

【「戌年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「金白檀塗色々威壺袖」(柳川古文書館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗茂と家臣との仲をものがたる袖として、テレビや新聞で取り上げられた作品。
話題になったおかげで、YAHOO!ニュースの見出しに
「立花宗茂」の文字を見ることができました。
宗茂が小野にこの袖を与えたところ、小田部が袖を献上し云々
の話が記されている道具帳は
安永7年(戌年)に作成されたもの。

 

【「亥年」生まれのあなたへのおすすめはこの作品!】
第3章 柳川城主となる より
「軍神掛物」(立花家史料館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗茂が陣中に持参した御守本尊と伝わる資料。
中央の摩利支天が乗っているのは猪です。

 

 

立花宗茂生誕450年記念特別展「立花宗茂と柳川の武士たち」
会場は
第1章~第2章 柳川古文書館
第3章~第6章 立花家史料館
2018年2月4日まで、会期中無休。
今度のお正月休みは柳川でゆっくりとお過ごしください。

そして観覧の際には、それぞれの干支のおすすめ作品に
注目してみるのも楽しいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なお、立花家史料館は通常、展示作品の撮影が可能なのですが
本特別展は借用資料が多いため
写真撮影をご遠慮いただいています。

 

 

 

 

 

 

 
入口付近に撮影スポットを用意しましたので
そちらで存分に撮影した後、展示作品はご自分の目でご堪能ください。

▲ページの先頭へ