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高橋紹運が立花宗茂へ譲った「剣 銘長光」【重文】①

2024/11/22

江戸時代の柳川藩主立花家は、大名の家格にふさわしい刀剣を多数所持していたはずですが、当館が所蔵する伝来の刀剣は20口にもおよびません。
逆にいえば、立花家において重要な意味をもつからこそ、これらの刀剣は様々な事情を越えて残されてきたのです。
実際、それぞれの刀にまつわる逸話には、立花家の歴史が映し出されています。


柳川藩主立花家にて代々大切に受け継がれてきた刀の由来を記録して残そうと、明和4年(1767)に担当係の「御腰物方」が吟味の上まとめた「御腰物由来覚」 には、133口の刀剣が記載されています。
その筆頭には、徳川将軍家から歴代の柳川藩主が拝領した「刀 無銘 左文字」「短刀 粟田口則国」「刀 備前正恒」「刀 無銘 延寿」「刀 無銘 了戒」「小脇指 筑州左文字」の6口が列記されますが、すべて立花家から離れてしまいました。


将軍からの拝領刀の次、7番目の刀剣が、立花家史料館が所蔵する「剣 銘長光」【重要文化財】です。

「剣 銘長光」【重要文化財】 立花家史料館所蔵

「御腰物由来覚」の「一 長光 銘有 八寸壱分 御剣」の項を3行にまとめるとこんな感じ。

柳川藩士が著した『浅川聞書』には、戸次道雪の養嗣子となる日に、15歳の立花宗茂が父の高橋紹運から本剣を譲られたという逸話がある。初代柳川藩主・宗茂の秘蔵であったが、2代・忠茂の代に立花家を離れ、後に矢島家から戻された。

〚CM〛11月30日(土) 15時~ オンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」の解説冊子(B6カラー52頁) では、この逸話を詳しく解説! ご興味のある方は⇒



つまり、天正9年(1581) に宗茂へ譲るまで、「剣 銘長光」【重要文化財】の所有者は高橋紹運〔1549~86〕 でした。
紹運のゆかりの品はほとんど現存していないので、彼の形見としても貴重な1口です。


実はこの剣について、気がかりな点が2つあります。


1つは、「剣 銘長光」の名刀たる所以です。

もちろん私は、端正な姿と澄んだ地鉄に映える沸づいた乱刃調の刃文とが絶妙に調和した本剣を、誇りに思っています。ただ、本剣は長光としてはイレギュラーな作例なのです。


長光は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町長船地区)で活動していた刀工です。名工として技量が高かったといわれます。
現在、34口が国宝・重要文化財に指定されていますが、剣2口、薙刀2口のほかはすべて太刀(金象嵌銘と無銘の刀を含む)です。この傾向は、指定されている13口のうち、薙刀直シ刀1口、剣2口のほかはすべて短刀という吉光と対照的ではないでしょうか。


当館所蔵の【国宝】短刀 銘吉光は、ほかの作例と比べた上で優品だと断言できます。

しかし、長光の他の剣を実見できてない私に、本剣をほめたたえる資格があるのでしょうか。
「それってあなたの感想ですよね」って言われたらどうしよう。


そんな私に朗報です!

望月規史氏(九州国立博物館 主任研究員)と杉原賢治氏(備前長船刀剣博物館 学芸員)というスペシャリストが、当館所蔵の「剣 銘長光」「刀 無銘伝兼光」を中心に「備前刀」を 解説するオンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」が開催されます!

〚CM〛LIVEツアー は、展示室では見られないアングルで撮影した映像と専門家の解説、チャット機能を利用した質問対応と臨場感も楽しめます。アーカイブ視聴期間は約1ヶ月間、別途撮影した「剣 銘長光」の映像も追加予定です。 ご興味のある方は⇒



本剣についての忌憚のない評価がうかがいたいと、今回のオンラインツアーを心待ちにしています。


ところで、さきほど国宝・重要文化財に指定されている長光作と吉光作の刀剣を数えましたが、あわせて4口の剣のうち、3口は神社の所有となっています。
偏見ではありますが、剣には寺社仏閣が似合うようなイメージがあります。

高橋紹運は、なぜ「備前刀」の剣の優品を所有していたのでしょうか?

この気がかりについては、次回考えてみます。




オンラインツアーの前にコチラのブログもどうぞ

【ココまで知ればサラに面白い】
普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
⇒これまでの話一覧   ⇒●ブログ目次●



 

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柳川藩主立花家が所蔵していた「兼光」の刀

2024/10/22

柳川藩主立花家が所蔵していた刀剣類について、台帳形式で現時点で確認できる最古の記録は、明和4年(1767)10月にまとめられた「御腰物由来覚」です。

この「御腰物由来覚」は、立花家で代々大切に受け継がれてきた刀の由来を、今までのような口伝えでなく、きちんとした記録として残そうと、担当係「御腰物方」で相談し、寛永年間(1624~44)から当時までの所蔵刀剣について吟味の上、作成されました。



この 「御腰物由来覚」に記載されている133口のうち、「兼光」の刀は6口。
『柳川の美術Ⅱ』 の翻刻を引用して、記載順で紹介します。
ただし、記述は当時の立花家での理解によるものなので、内容の正確性は担保されないことをご了承ください。

柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』(柳川市 2007.3.22発行、2020.3.31第二刷)401-419頁掲載の翻刻を引用。読みやすさを優先して、旧字、異体字、合字、変体仮名を通用の文字に、漢数字を算用数字に改めています。また敬意をあらわす欠字も省略しています。

柳川市史関連図書はコチラで購入できます






一 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 ◉立花家史料館所蔵
右は道雪様【宗茂義父・戸次道雪】御定差、宗茂公【初代藩主・立花宗茂】へ御譲、御合戦度毎に宗茂公被成御差候由、御代々御譲にて御座候処、鑑茂公【3代藩主・鑑虎】御代貞享2年丑(1685)12月原尻老之丞へ被下之候、其後宝永元年申(1704)9月28日立花源左衛門宅へ鑑常公【4代藩主・鑑任】御光儀之節進上之、唯今御拵等無之
※追記「此御刀天明4申年(1784)6月28日 梅岳御霊社へ従若殿様御奉納ニ相成ル」

一 備前兼光 銘有 8寸7分半  御小脇指   
右は寛永年中(1624-44)御求ニ相成候由 御帳に有之候、其後於石様【3代藩主・鑑虎娘 石】為御守御脇差被進之候処、延宝3年卯(1675)2月28日戸次勝左衛門手前より役方へ相渡、請取候段御帳有之候

一 兼光 無銘 2尺9分  大御脇差 
右は英山様【3代藩主・鑑虎】御代より御持伝之御道具、以前御刀之由延宝年中(1673-81)之御帳面ニ有之、当時御野差相成居申候

一 兼光 無銘 2尺6寸分半  御刀    
右は延宝元年丑(1673)11月被為 召之候、其後源五郎様【2代藩主・忠茂息子 貞晟】へ被進之、以後御譲之御道具、当時御定差

一 兼光 銘有 2尺9分 御刀    
右は天和3年(1683)鑑常公【4代藩主・鑑任】 御誕生之節、本多隠岐守様【4代近江膳所藩主・本多康慶、鑑任実母の兄弟】より被進之候道具と相見へ申候、併猶又吟味之事、元文4未年(1739)貞則公【6代藩主】就御出府御差料之御拵出来、寛保3年亥(1743)4月鑑通公【7代藩主】御花畠へ被成御座候節被進之候

一 波游兼光 金ニて入銘波游未代之劍兼光也/羽柴岡山中納言秀信所持ト有リ 2尺1寸4分半 御刀 
 折紙金五拾枚
右は往古上杉謙信秘蔵之道具之由、上杉家にては小豆兼光と申、重宝ニて有之候処、景勝【初代米沢藩主・上杉景勝】時代羽柴岡山中納言【小早川秀秋】依所望彼家ニ相渡り、波游と改名有之候由、其後年数経、払物ニて被為召候由、享保年中(1716-36) 有徳院様【8代将軍・徳川吉宗】御代上杉家兼光御僉儀[=詮議]之処、此方様御家に有之候段、本阿弥家より達上聞候処、可被遊上覧之由沙汰有之段、本阿弥家より為御知申上候ニ付、早速御硎[=研ぐ] 等被仰付之、其御用意有之候得共、入上覧不申候て相済申候

羽柴岡山中納言秀信とは、小早川秀秋が関ケ原合戦後に改名した「秀詮」の書き間違いでしょうか。



現在、立花家史料館が所蔵しているのは「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」のみです。他の刀剣類は様々な理由により、いつしか立花家から出ていってしまいました。



「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」は、戸次道雪から立花宗茂へと譲られ、宗茂自身も合戦のたびに指料として腰に差したと伝えられます。
一般的な評価では名物「波游兼光 」とは比べようもありませんが、柳川藩主立花家においては、この「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」 こそが家の重宝であり、必ず残すべき刀であったのです。


11月30日15時~開催のオンラインツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」では、この「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」 が主役となります。

ロマンあふれる伝来とともに、刀身そのものの美しさや見どころをカメラで直接撮影しながら 、備前刀のスペシャリストである望月規史氏(九州国立博物館 主任研究員)と杉原賢治氏(備前長船刀剣博物館 学芸員)が解説されます。ものすごく楽しみです。

当日参加が出来ない場合でも、後日アーカイブでご視聴いただけますので、ぜひお気軽にご参加ください。

詳細はコチラ


【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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「骨喰藤四郎」の御礼状[大友家文書]を高精細画像で見る

2024/10/4

2024年9月30日に、所蔵者の立花家史料館と寄託先の柳川市(柳川古文書館)そして東京大学史料編纂所の三者で連携協定が結ばれ、大友家文書・旧柳川藩主立花家文書(立花家史料館所蔵分)の高精細デジタル画像がWEB公開されました。

実現に至るまでの経緯やWEB公開の意義などは、いずれくどくどと語るつもりです。


ともあれ、さっそく活用してみましょう!

わたしのイチオシ「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]。

天正13年(1585)9月27日に 豊臣秀吉が大友左兵衛督/義統に宛てた手紙です。
秀吉が「吉光骨啄刀(骨喰藤四郎)」を所望したところ、義統がすぐに進上したので、大変満足である
と述べられています。

包紙や裏面の画像もあって惑わされますが、本紙表は00000491です。



せっかくなので、先に本紙裏 00000490も見てみましょう!
「切封 キリフウ」の形と〆の墨跡がよくわかります。「切封」とは下図のとおり、手紙を奥から袖に向かって折りたたみ、切った端を帯にして結わえ、その上に封締を印す封式のこと。

東大史料編纂所 Hi-CAT Plusの高精細デジタル画像じゃなきゃ見逃しちゃうところです。


あらためて書状の文面 00000491 を見てみましょう!

本文一行目冒頭にたっぷりとした墨で書かれた「吉光骨啄刀」が目に入ってきますが、続く文章を読み進められそうにありません。

でも、安心してください!

さすが東京大学史料編纂所。
明治34年(1901)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集『大日本史料』のデータベースをWeb公開しているので、活字化された翻刻文をすぐに確認できます。

東京大学史料編纂所HP》→《データベース検索》→《大日本史料総合データベース》→東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第11編之20』1997 東京大学394-7頁

天正13年9月27日 大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、

頁をめくると、「骨喰藤四郎」についての参考文献も紹介してくれています。

『大友興廃記』(東京大学図書館所蔵)巻二十二「骨啄刀の事」

『大友興廃記』‼️

『大友興廃記』で語られる 「雷切丸」の話(巻六「鑑連雷を斬事」)はコチラ


『大友興廃記』によると、「骨喰藤四郎」は大友家重代の宝刀でしたが、九州に下向した足利尊氏に献上され、足利将軍家の「御物」となったようです。いつしか松永久秀の元に渡っていたところ、大友宗麟/義鎮(義統の父)が先祖の重宝だと望み、永禄8年(1565)229年ぶりに大友家に帰ってきたと語られていますが、真偽は定かではありません。

「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]こそが、年紀がはっきりした一次史料なのです。
少なくとも、天正13年(1585)に大友義統から豊臣秀吉に「骨喰藤四郎」が進上されたのは確かなことでしょう。



ちなみに、当館所蔵の【国宝】短刀 銘吉光は、建武3年(1336)に足利尊氏から拝領したと伝わるので、『大友興廃記』のとおりなら「骨喰藤四郎」とは入れ違いになったとみられます。

せわしなく天下人の元を移った「骨喰藤四郎」とは対照的に、立花家にて秘蔵され続けた【国宝】短刀 銘吉光についてはコチラ



「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]は、柳川古文書館の特別展『大友家文書の世界』(2017.10.11~12.6)で初めて展示されました。
わたしは【重要文化財】薙刀直シ刀 無銘伝粟田口吉光/名物骨喰藤四郎(豊国神社蔵) は何度も見に行っていたのに、当館が「骨喰藤四郎」の御礼状を所蔵しているとは思いもしませんでした……だって、近世大名立花家のことを調べるのに、よそのお宅の中世の文書である「大友家文書」を気にする必要がなかったから……



「大友家文書」は、豊臣秀吉により改易された大友家22代・義統が23代・義乗に譲ったあと、時期と理由はわかりませんが、 遅くとも延宝7年(1679)までには柳川藩主立花家の所有となっているようです。そのまま立花家に伝来し、そのうち290通が平成5年(1993)に国の重要文化財に指定されています。

大友家と立花家の関係が気になる方にオススメ
「雷切丸」「【国宝】短刀 銘吉光」の話もアリマス

◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー





大友家文書・旧柳川藩主立花家文書は当館の所蔵ではありますが、寄託先の柳川古文書館で長年にわたって整理・研究が進められ、丁寧に目録化されていたからこそ、今回の公開へとつながりました。東京大学史料編纂所の高精細なデジタルアーカイブズで簡単に検索できるので、当館学芸員が誰よりも喜んでいます。

優秀な研究者の方々の尽力により公開が実現したデジタルアーカイブズ「立花家史料館所蔵史料」を、お気軽にどんどん活用いただけましたら幸いです。


【立花家伝来史料モノガタリ】
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〇〇藤四郎じゃない【国宝】短刀 銘吉光(立花家史料館蔵)

2024/2/13

当館が所蔵する「短刀 銘吉光」は、国宝に指定されています。




吉光は、鎌倉時代中期に京都粟田口(現在の京都市東山区)で作刀していた刀鍛冶の名前です。江戸時代には正宗、郷義弘とあわせて「天下三作」と評価され、短刀の名手として知られています。


この吉光が作刀した刀のうち、現在(2024年2月)国宝に指定されているのは、 短刀3口と剣1口。当館所蔵の短刀をのぞいて、みな “あだ名” をもっています。

「厚藤四郎」に「後藤藤四郎」に「白山吉光」……いいなぁ……



ちなみに、「厚藤四郎」(東京国立博物館蔵)と「後藤藤四郎」(徳川美術館蔵)の “あだ名” は、徳川幕府8代将軍・吉宗の命で編纂された『享保名物帳』により定着した名物としての号です。
また、「剣 銘吉光」(白山比咩神社蔵)は、江戸時代の記録にて「白山吉光」と称されていることが確認できます。




立花家伝来の「短刀 銘吉光」 にも、 “あだ名” があったらいいのになぁ……

うちのコも、 現存する吉光作の短刀のなかでも傑作と評価され、国宝に指定された名刀なのに……
制作当初の姿のまま伝世してきた、ピチピチのカワイコちゃんなのに……

と、ずっと残念に思ってきました。

いっそ「立花藤四郎」(仮)とか “あだ名”をつけちゃおうかしら?と、浅はかにも考えたこともあります。



しかし今回、 オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史」解説ブックレットで「短刀 銘吉光」について執筆するにあたり、改めて史料を見直しているうちに、目が覚めました。
立花家が所持しているから “あだ名” を「立花藤四郎」(仮)にしちゃえという考えは、全くの心得違いだったのです。



「短刀 銘吉光」について、立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、次のように記されています。

(前略)同九年[註:天正九年(1581)]辛巳 宗麟之命ニ因テ立花親善之嗣ト為リ立花ヲ以テ氏ト為三器之譲ヲ受ク。所謂三器ハ其一ハ軍旗。頼朝公自ラ八幡大菩薩ノ五字ヲ於軍旗ニ書テ之ヲ大友能直ニ賜フ。其二ハ軍扇。建武四年正月十日大友貞載結城親光ヲ楊梅東洞院ニ斬ル。首ヲ軍扇ニ載将軍尊氏之覧ニ具フ。之ヲ血付ノ扇ト謂フ。其三ハ短刀。貞載親光ヲ斬ル之功ニ因テ尊氏粟田口吉光短刀ヲ貞載ニ賜フ。(後略)

簡単に解説すると、

初代柳川藩主・立花宗茂の先代となる戸次道雪が、大友宗麟からの主命により、立花氏の名跡とともに「粟田口吉光短刀」をふくむ「三器」を譲り受けた

と記されています。



当時、前期立花氏7代・鑑載が大友家に謀反して撃退され、立花氏は断絶していました。なお、この翌年の天正10年(1582)11月18日に立花城にて「御旗御名字」の御祝がなされ、この時をもって宗茂が名字を戸次から立花に改めたと考えられます。 

つまり、「軍旗」「軍扇」「粟田口短刀吉光」の「三器」を所持するが故に、「立花」を名乗ることが許されているのです。

この「三器」を理解していただくには、 前期立花家のこと、戸次道雪を初代とする近世大名立花家のこと、立花家のルーツであり主家でもある大友家のことを説明しなければなりません。
話は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の時代にまでさかのぼり、途中で室町幕府初代将軍・足利尊氏もからんでくるので、とても複雑になってきます。



そこで朗報です!!

2月17日(土)に開催されるオンラインツアーでは、この複雑極まりない説明のすべてが、わかりやすく丁寧にひもとかれます。【終了しました】

当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に関心がある方にも、是非聞いていただきたいところです。

締切は明日2月15日(木)、定員になる前に!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。






◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー







当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないのは、立花家から外に出なかったので、 “あだ名” が付けられる機会がなかったということの証です。

わたしは今、「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないことを誇りに思っています。


【立花家伝来史料モノガタリ】
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柳川藩主立花家に伝来した刀「雷切丸」

2024/1/30

脇指 無銘「雷切丸」は、その名のとおり戸次道雪が雷を切った刀として、柳川藩主立花家に伝来しました。

脇指 無銘 雷切丸 鎌倉時代~室町時代 刃長58.5㎝ 立花家史料館所蔵



まずは、戸次道雪[1513~1585] ってどんな人?

戸次 ベッキ 道雪ドウセツ は、戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪です。

豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。


江戸時代を通じて柳川藩11万石を治めた近世大名立花家の初代として数えられています。




「雷切丸」の由来について、立花家に残る文書のなかで、現時点で確認できる最古の記録は、明和4年(1767)10月にまとめられた「御腰物由来覚」です。

この「御腰物由来覚」は、立花家で代々大切に受け継がれてきた刀の由来を、今までのような口伝えでなく、きちんとした記録として残そうと、担当係(御腰物方)で相談し、寛永年間(1624~44)から当時までの所蔵刀剣について吟味の上、作成されました。

この 「御腰物由来覚」の 翻刻 が、『柳川の美術Ⅱ』に掲載されているので、「雷切丸」の項を全文引用してみます。

柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』(柳川市 2007.3.22発行、2020.3.31第二刷)409頁掲載の翻刻を引用。ただし読みやすいように、異体字、合字、変体仮名を通用の文字に改めています。

柳川市史関連図書はコチラで購入できます






「御腰物由来覚」の 「雷切丸」の項を読んでみましょう。

一 雷切丸 無銘 壱尺六寸七分半 御脇差

右は道雪様御差也、雷切と申訳は、鑑連公未豊後国南郡藤北之御館に被成御坐候節、炎天之比 大木之下に御涼所御しつらい、此所へ或時 被遊御昼寝候節 雷落けり、御枕元へ御立て被置候千鳥とゆふ御太刀を被遊御祓合セ、雷を御切被成、早速御涼所を御立退被成候、夫より以来御足御痛被成、御出陣にも御乗輿ニて被遊御出候、然とも御勇力御勝レ被成たるゆへ、常躰之者之達者より御丈夫ニ被成御坐候、且又比御太刀最初は千鳥と御附被成候得ども、雷御斬被成候以後其印御太刀有之故、夫より此御太刀雷切と御改名被成候、

この刀は道雪様の所用刀である。雷切という名の由来は次のとおり。
鑑連公がまだ豊後国藤北館(現在の豊後大野市)にいたとき、炎天のころ大木の下に涼所を設けていた。

あるとき、そこで昼寝をしていたら、突然の落雷。枕元の刀を抜いて雷を切り、すばやく涼所から立ち退いた。

それ以来、足が痛み、出陣に輿を使用するほどであったが、勇力に勝れていたので、並の武者よりも活躍した。最初「千鳥」と付けられていた太刀は、雷を斬った印があるため、「雷切」と改名された。

ここまでが、道雪が雷を切った場面です。

このくだりは、「御腰物由来覚」から100年程さかのぼった、寛永12年(1635)の自序がある『大友興廃記』にも描かれています。

戸次鑑連いまた南郡藤北に居住のとき、炎天のころ、大木の下にすゝみ所をこしらへ、ひるねして有りし、おりから雷鳴落、まくらもとにたてをきたる千鳥といふ太刀を抜あわせ、雷をきりてすゝみ所をとひさりぬ、それより以来足かたハにして、出陣も輿ならてハ不叶されとも、勇力のすくれたるに依て、常の者達者成にハまされり、扨千鳥と云太刀雷にあたりたるしるしあり、それより此太刀を雷斬と号せられたり
『大友興廃記』巻六「鑑連雷を斬事』

大友氏の興亡を大友義鎮、義統の2代を中心に描いた軍記『大友興廃記』の作者は、豊後国佐伯の領主に仕えた杉谷宗重とみられています。昭和初期にはじめて活字化されるまでは、写本で存在が知られていました。

「御腰物由来覚」と共通する表現が多いので関連はありそうですが、現時点では何とも言えません。ただ、江戸時代初期には、道雪が雷を切った刀のことは、知る人ぞ知る話であったようです。



「御腰物由来覚」の「雷切丸」の項はまだ続きます。

好雪様御代大膳様へ被進之候、然処 大膳様御逝去被成候節、御道具皆御払に相成よし、此□此御太刀も御払相成可申之処、矢嶋石見殿御聞付被成、此太刀者払抔へ差出候物ニて無之、大切之御重宝ニて有之候間、御取被成候由、夫より矢島采女家ニ持伝居申候処、 鑑通公御代宝暦九年卯之 御発駕前、矢嶋周防進上之、但白鞘ニて差上ル、三原之由承伝之処、同年六月御拭之節、本阿弥熊次郎へ見セ申候処、相州物之由申候、宝暦十辰十二月右雷切差上候為代リ大和守安定御小サ刀被下之、但白鞘、
 雷御切被成候年号不相知、追て吟味之上書載之事

その後この刀は、初代藩主・宗茂から2代藩主・忠茂へと渡り、さらに忠茂から息子の大膳(茂辰、吉弘氏を名乗るが20代で早世)へと渡る。

大膳の没後、この刀も遺品分与の対象となっていたが、弟の矢嶋石見(行和/立花茂堅)が聞いて、この刀は分与するものでなく「大切の御重宝」であるとして、矢嶋家にて伝えることにした。

7代藩主・ 鑑通の代になり、宝暦9年(1759) に江戸へ出立する前、矢嶋周防がこの刀を白鞘におさめて鑑通へと進上した。それまで三原の刀だといわれていたが、同年6月に刀剣鑑定を家業とする本阿弥家の一門の熊次郎が、相模国(現在の神奈川県)の刀工の作と判断した。

宝暦10年(1760)12月に、この雷切の代替として、白鞘におさめた大和守安定の小サ刀(脇指)が矢嶋家へと下賜された。

雷を切った年号は現時点ではわからないので、あとで調べて書くことにする。


結局、追記はなく、雷を切った年号は不明なまま「雷切丸」の項は終わります。

しかし、時代は下がりますが、天保年間(1830~44)頃に立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、戸次道雪の重要な経歴が書き上げられているなかに、

天文十六年丁未六月五日 雷斬ル 時年三十五歳

と記されています。
西暦に換算すると1547年6月22日……この年月日の根拠は全くわかりませんが、雷を切ったことが特筆すべき業績とされているのが、非常に興味深いです。



実は、道雪の40代以前の経歴はあまり分かっていません。
道雪は天文19年(1550)に戸次家の家督を甥の鎮連に譲りますが、この頃から政治・軍事的な活動が本格化していきます。一人娘の誾千代が生まれたのは、永禄12年(1569)56歳の時です。
現時点では、道雪の足が不自由であったかどうかも、一次資料では確認できていないのです。


また、「雷切丸」の刀身が短くされ、太刀から脇差となった経緯もよく分かっていません。本阿弥家により「相州物」と鑑定されていますが、大磨上無銘となる現状の刀身からは、相州伝と確定するのは困難です。



ただ確実なのは、道雪が雷を切った刀として「雷切丸」が立花家の血筋に伝えられて来たこと、当館で雷切丸を展示できるのは矢嶋家のオカゲだということです。

そして今、「雷切丸」は私たちも驚くほどの知名度を誇り、多くの方々に愛されています。

矢嶋さん、本当にありがとう。



「雷切丸」や「短刀 銘吉光」【国宝】、「大友家文書」【重要文化財】や「立花家文書」【重要文化財】のことを解説するオンラインツアーを開催します。
道雪のことをもっと詳しく知りたい方にも、おススメです。【終了しました】






◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー





【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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立花家の令和コンビ

2019/4/23

5月1日からの新元号が「令和」と発表されて
3週間と少し経ちました。

今年のゴールデンウィークは長いお休みだし
令和ゆかりの地めぐりでもしてみようか
という方もいらっしゃるでしょう。

全国各地に令和ゆかりの地があるようですが
その中でも今人気が高いのは太宰府でしょうか。
新元号が発表されてからというもの
人々が押し寄せているとの噂を聞きました。

太宰府天満宮(立花家の古写真より)

 

 

 

 

 

 

 

 

令和にゆかりがなくてもいいけど
なんとなく令和が感じられる場所に行きたいな、という方に
ぜひおすすめしたい場所があります。
それはここ、柳川です。

 

 

 

 

 

 

実は歴代立花家当主の中に「なんとなく令和な」コンビを見出しました。

 

 

さて、ここでまずは新元号「令和」の出典をみてみましょう。

初春令月
気淑風和
梅披鏡前之粉
欄薫珮後之香

『万葉集』の「梅花の歌三十二首」の序だそうです。
この中で注目したいのが
初春の令「月」と白粉のような「梅」です。

 

立花家で「月」といえば、立花宗茂(立花家2代)。

 

 

 

 

 

 

 

 
月輪モチーフの甲冑を身に着けた戦国武将です。

鉄皺革包月輪文最上胴具足

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして「梅」といえば、戸次道雪(立花家初代)。

福厳寺蔵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
戒名は「福厳寺殿梅岳道雪大居士」。
葬られた立花山養孝院は後に梅岳寺と改名されています。

 

 

 

 

 

 

 

つまり立花家の初代と2代は、なんとなく令和なコンビなのです。

令和コンビの2人

 

 

 

 

 

 

 

立花家の令和コンビにゆかりのものを見ることができるのが
柳川にある「立花家史料館」です。

7月15日まで開催している特集展示「刀を見る、伝来を知る 柳川藩主立花家伝来の刀剣」では
二人にゆかりのある刀剣を紹介しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは「梅」担当、戸次道雪ゆかりのこちら。

脇指 無銘(雷切丸)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戸次道雪が雷を切ったと伝わる刀です。
梅担当武将は、実は雷担当武将としての方が有名だったりします。

 

次に「月」担当、立花宗茂ゆかりがこちら。

【重要文化財】剣 銘 長光

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実父高橋紹運から譲り受けた剣です。
ほかにも、ずばり月モチーフの兜も展示しております。

伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「令和」とは特につながりませんが
なんだかおめでたい気分になる国宝もおすすめです。

【国宝】短刀 銘 吉光

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

令和ゆかりの地・太宰府から、令和コンビゆかりの地・柳川までは、西鉄電車が便利です。
太宰府観光列車「旅人」や、柳川観光列車「水都」で、素敵な旅をお楽しみください。

 

まもなく始まるゴールデンウィークには、「なんとなく令和」を感じる立花家史料館へ。
令和コンビゆかりの刀剣たちが、みなさまのご来館をお待ち申し上げております。

 

[おまけ]
毎年、館長の誕生日にオーダーするオリジナルケーキ。
今年は令和ケーキにしてみました。
宗茂の金地三日月図軍扇に梅の花が一輪。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柳川藩士の末裔であるパティシエに作っていただきました。

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吉光と長光と雷切丸と

2019/3/29

空気がすっかり春めいてきました。
立花氏庭園の桜の開花状況は、3月29日現在このくらいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下の方から順々に咲いていって
もう間もなく満開を迎えそうです。

この木が葉桜になっているであろう4月12日から
立花家史料館では毎年恒例の刀剣展が始まります。

 

今年の目玉はなんといっても
久しぶりに両方そろう国宝と重要文化財です。

国宝「短刀 銘 吉光」

重要文化財「剣 銘 長光」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
昨年までの2年間は、重文の「剣 銘 長光」だけの展示でしたが
今年はお出かけの予定がない国宝の「短刀 銘 吉光」も
一緒の出番となりました。

立花家の吉光なら去年の秋に京都で見たよ、という方も
今年はぜひ、自宅でくつろぐ藤四郎くんを見にお越しください。

 

思えば、直近で国宝と重文がそろったのは2016年のことでした。
あの年は、ここ柳川でも震度5強を記録した熊本地震が
会期の初日前夜に発生し
余震のおそれから、国宝と重文は期間限定展示となってしまったのでした。
一緒の出番は、あの時以来になります。

 

そしてもうひとつの目玉は、大人気「脇指 無銘(雷切丸)」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近世大名立花家初代の戸次道雪が、雷を切ったという伝説のある刀です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道雪関係では他に、薙刀も展示する予定です。

 

さて今年は、少し頑張って、絵はがきを作ってみました。

 

 

 

 

 

 

左から長光、吉光、雷切丸です。
立花家史料館の受付で販売します。各100円。
入館して絵はがきを各1枚買っても合計1,000円(大人1名様の場合)。
ワン紙幣でおさまります。

さらに、人の形をした雷切丸くん(イラスト)の絵はがきも2種できました。
こちらもお楽しみに。

 

今年のゴールデンウィークは長いお休みがとれる方もいらっしゃるようです。
そのうち1日か2日はぜひ柳川へ遊びにお越しください。
4月から5月はお堀巡りに最適の季節です。

福岡方面からお越しの場合は、西鉄の観光列車「水都」への乗車をおすすめします。
6種類ある乗車記念カードのうち3号車のカードは雷切丸です。

福岡空港からでしたら、空港⇔柳川の高速バスが便利です。
最速60分で、乗り換えの必要もありません。

 

なおゴールデンウィークがゴールデンではない方もご安心を。
特集展示「刀を見る、伝来を知る 柳川藩主立花家伝来の刀剣」は
7月15日(月・祝)までの開催です。

 

最終日の7月15日には、立花家史料館友の会と立花財団賛助会の会員特典イベント
「旧柳川藩主立花家のお盆を特別体験」があるのですが
それはまた次の機会に詳しくご案内します。

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(立花家の)刀剣を楽しむ旅行プランの提案

2017/1/9

柳川はおだやかに2017年を迎えました。

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このままおだやかな一年になることを願いますが
そう、今年は立花宗茂生誕450年。
年末の特別展に向けて、荒ぶる一年になりそうな予感がしています。

 

この荒ぶる一年の最初を飾る、荒ぶる行事がこちら

 

第4回九州大名家資料研究会トークイベント「九州大名家伝説の名刀と拵え」

 

1月21日11時から、福岡市博物館で開催します。

参加申込は年末からpassmarketで受け付けていましたが
すでに予定枚数に達したため終了しました。
少数ですが当日配布整理券も予定しています。
枚数は前日までに確定して、当館公式twitterでおしらせします。

 

さて今回は
トークイベントに参加される方
参加しないけど1月21日あたりに福岡市博へ行かれる方
刀に興味があって1月20日~22日あたりに休みがとれそうな方へ
立花家史料館が提案する旅行プランのご案内をいたします。

 
【1日目(1月20日)】

◆西鉄電車に乗って柳川へ

観光列車「水都」に乗ると、旅情をより楽しむことが出来ます。
「水都」は日によって運行ダイヤが違いますので
ご確認の上ご乗車ください。

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柳川では水都バスも走っています

 

 

 

 

 

 

 

 

柳川藩主立花邸御花にチェックイン

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ご好評いただいている九州戦国御膳プランが
1月20日・21日だけスペシャルになります。

 

スペシャル1:
戦国武将(熊本城おもてなし武将隊)の声で朝を告げてくれる「オリジナルボイス目覚まし時計」に
立花宗茂と雷切丸くんバージョンが登場

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雷切丸くんと殿の会話はすでに収録済みなのですが
予約状況によっては、誰にも聞かれないままに終わってしまうのではないかと
スタッフがはらはらしています。
雷切丸くんが殿におねだりしたりする特別バージョンを、ぜひ皆様に聞いていただきたい。

なお今の期間は、他の武将さんたちの目覚ましも
刀剣に関する内容で起こしてくれる仕様になっています。

 

スペシャル2:
大広間の修復工事事業に伴い、新しく架け替える屋根の『瓦』に
ご自分でお名前を書いて頂けます。

絶賛工事中

絶賛工事中

 

 

 

 

 

 

 
新しい瓦は次の修復工事(おそらく100年後)まで、大広間の瓦として設置されます。
100年間続くスペシャルです。

 

スペシャル3:
20日(土)にご宿泊のお客様で福岡市博物館で行われるトークイベントにご参加のお客様は
翌朝、西鉄柳川駅までお送り致します。

柳川藩主立花邸御花のスタッフが
電車の時間にちょうど間に合うように、車でお送りします。

 

九州戦国御膳プランのご予約は
柳川藩主立花邸御花へお問い合わせください。
電話:0944-73-2189

 

◆立花家史料館で「脇指 無銘(雷切丸)」を鑑賞する

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宿泊プランについているチケットを使って
ご飯の前に立花家史料館へ行きましょう。

九州大名家資料研究会の開催を記念して
1月18日~24日の間、「脇指 無銘(雷切丸)」を特別公開。
展示ケースの関係で、いつもより近くで見られます。

閉館は18時(入館は17時半まで)です。

 

◆九州戦国史に思いをはせながら、食事を楽しむ

九州戦国御膳プランのお食事には
それぞれのメニューと戦国武将との関わりを解説した栞がついてきます。
立花宗茂と、ゆかりの戦国武将をイメージした、本格会席料理をお楽しみください。

 

◆明日を楽しみにしながらぐっすり眠る

柳川の夜は静かです。
ぐっすり眠って、英気を養いましょう。

 

【2日目(1月21日)】

◆武将めざましでさわやかに目覚める

ご予約時にご希望の武将をおしらせください。
(立花宗茂と雷切丸、加藤清正、黒田官兵衛、細川忠興、小西行長、森本儀太夫)
もちろん期間限定の立花宗茂と雷切丸くんが一押しです。

 

◆柳川から福岡市博物館へ移動

九州戦国御膳プランでご宿泊の方は、スタッフ運転の車で柳川駅へらくちん移動。
柳川駅からは西鉄電車に乗って福岡市(天神)へ。
天神から市博への移動は、都市高速を経由するバスが便利です。
「圧切長谷部」公開と、コラボ缶バッジ販売で大賑わい中の、福岡市博物館が
第4回九州大名家資料研究会トークイベントの会場です。

 

トークイベントの後は、圧切長谷部と日本号を鑑賞したり
フィンランド・デザイン展を鑑賞したり
図録を買ったりしましょう。

 

◆博多駅から都城へ移動

圧切長谷部の余韻に浸っている場合ではありません。
ここで九州内を大きく移動します。

博多駅から九州新幹線と特急きりしまを乗り継いで
都城へ向かいましょう。

そこで待っているものは

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1月21日から都城島津邸で始まる
「島津の至宝~文化財と地域博物館の魅力~」

こちらの展覧会に、立花家史料館所蔵の
国宝「短刀 銘 吉光」が展示されます(2月12日まで)。

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都城島津邸は17時閉館(入館は16時半まで)ですので
到着した日は、都城のおいしいご飯を食べて一泊。
翌日にゆっくり訪れるのがよいでしょう。
ちなみに開館は9時だそうです。

 

【3日目(1月22日)】

◆都城島津邸→帰宅

お家に帰るまでが旅行です。
この数日間の思い出を胸に、帰路につきましょう。
お土産の置き忘れにご注意を。

 

以上が、立花家史料館が提案する、(主に立花家の)刀剣を楽しむ旅行プランです。
雷切丸と共に、みなさまの旅の安全をお祈り申し上げております。

 

なお、ゆるく作ったプランですので
行程的に難しいと思われる部分は
良きようにカスタマイズしてご利用ください。

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立花家の刀剣展に雷切丸登場!

2016/4/20

4月に入り、毎年恒例の刀剣展の季節となりました。

4月15日から始まった、今年の刀剣展は

特集展示「よくわかる刀剣のみかた-柳川藩主立花家伝来の刀剣-

です。

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この展示では、脇指 無銘(雷切丸)をはじめ
国宝「短刀 銘吉光」や、重要文化財「剣 銘長光」など
初代柳川藩主・立花宗茂ゆかりの刀剣を中心に
立花家の歴史をものがたる刀剣と刀装具を紹介しています。

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今年は国宝の吉光と重文の長光、それに雷切丸の
3口がそろって展示されていますが
実はこんな機会は、これから数年間はありません。

※追記
熊本地震の余震から文化財を保護するため
国宝「短刀 銘 吉光」と、重要文化財「剣 銘 長光」の
展示期間を制限することとなりました。
4月25日~4月28日、5月2日、5月6日は
どちらも展示しておりませんのでご注意ください。
その他の展示はご覧いただけます。(追記終わり)

※さらに追記
国宝「短刀 銘 吉光」と、重要文化財「剣 銘 長光」の展示期間を
6月5日(日)までに短縮することとなりました。
また6月5日までのうち、以下の日は展示しておりません。
5月10日、11日、12日、17日、19日、20日、26日、27日
6月3日
6月6日(月)からは、国宝「短刀 銘 吉光」と重要文化財「剣 銘 長光」に代えて
初代柳川藩主・立花宗茂所用の鑓2口を展示します。
既にご観覧予定をたてられていた方には大変申し訳ございませんが
何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。(さらに追記終わり)

 

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吉光の向こうに雷切丸。

 

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こちらは長光です。

他にも刀装具や刀筒などもありますが
こんなものもあります。

「御腰物由来覚写」

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立花家の刀剣の由緒が書かれたものです。
開いているページは、雷切丸の箇所。
江戸時代のものですが、比較的読みやすい字で書かれていますので
どうぞじっくり読んでみてください。

 

立花家史料館の展示室は撮影自由です。
ただし一脚や三脚などの使用と、フラッシュ等追加照明の使用は
他のお客様の鑑賞のさまたげとなりますのでご遠慮ください。

 

刀剣展開催に合わせて、新しいグッズも完成しました。

「雷切丸チケットホルダー」

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表面には脇指 無銘(雷切丸)と立花雷切丸くん。
これは2種類というわけではなく、表と裏です。

 

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ぱかっと開けると、雷切丸の説明。
そしてチケットを入れるスペースの他に
カードを入れるスペースが2箇所。

こちらの商品は、立花家史料館前の売店にて
378円(税込み)で販売しています。

 

刀剣展のチラシは、西鉄福岡(天神)駅と西鉄柳川駅のメディアボックスに
5月13日まで設置しています。

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近くをお通りの際は、ぜひ手に取ってご覧ください。

チラシの裏は、新聞の号外風で
これを読めば「雷切丸」の名前の由来がわかります。

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表面にいる、チケットホルダーにも描かれていた、このキャラクターは「立花雷切丸」くん。
雷切丸を擬人化した、当館オリジナルのキャラクターです。(twitterやってます
よくよく見ると、いろんな小ネタが仕込まれているので
じっくり探してみて下さい。

また「千鳥よ!この稲妻を斬ってみよ!!」のコピーは
柳川みのり幼稚園の次回劇の冒頭のセリフから、許可を得て、頂戴しました。

 

お得な情報をもうひとつ。

柳川古文書館の常設展「保存のかたち~史料を守り、伝える~」では
戸次道雪関連文書を特別に公開しています。

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(柳川古文書館の展示室は撮影禁止です。許可を得て撮影しました。)

立花家史料館と柳川古文書館で、道雪三昧しましょう。
このあと三柱神社に行けば、さらに完璧。

 

特集展示「よくわかる刀剣のみかた-柳川藩主立花家伝来の刀剣-」は7月4日まで。
みなさまのご来館を心よりお待ち申し上げております。

 

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「柳川立花家と島津家」展顛末記 〜その1 史料搬出〜

2011/10/14

twitterでもときどき触れましたが、
10月8日より都城島津伝承館にて「柳川立花家と島津家」展を開催中です。
今回より数回に分けて、この企画展の準備風景をお送りします。
まずは9月27日〜28日に行われた搬出作業の巻から。

都城から学芸員と日通の美術品輸送スタッフが到着。
史料を、収蔵庫から広い部屋に移動するところから作業開始です。
今回は福岡の日通さんもヘルプに来ていたので
力持ちな男手がいっぱい。
あっという間に運び終えました。

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まずは、作品の状態を確認して調書に記入していきます。

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貸出前と後とで状態が違った場合、借りた側の責任になりますので
傷やほつれ、取り扱う際に注意する点など、こと細かに記入します。

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おとなしくチェックを待つ婚礼調度たち。
小さなものが多いので時間がかかります。
でも大事な作業です。

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じっと見られる雷切丸。
チェック前にちゃんとお手入れしたので、恥ずかしいところはありません。

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見られた後は、きちんと梱包されます。(これはまだ梱包途中の状態)

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こちらは、国宝の短刀「吉光」です。
中身は、展示でご覧ください。

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間にクッションを挟んだ二重箱にきちんと梱包されました。

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他の作品も、日通さんが手際よく梱包していきます。

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それぞれ、作品の大きさに合わせた箱に収まっています。
ヤマトロジスティクスさんもそうですが、
美術輸送の専門の方々は箱作りの天才です。

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じゃーん。今回都城まで作品を運ぶのはこの車。

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「AIR CONDITIONER」で「AIR SUSPENSION」なトラックです。
作品たちもさぞや快適な旅になることでしょう。

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この中に次々と積み込んでいきます。

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そして、いざ出発。
道中気をつけて〜。

【次回予告】
立花家史料館の学芸員が都城へレッツ出張。
南九州特有のゆるりとしたリズムで
展示替え作業を行いました。

次回「柳川立花家と島津家」展顛末記 〜その2 展示替えと開会式〜
お楽しみに。

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