2014/5/2
先日、史料館に一通の封書が届きました。
その手紙に同封されていたのがこちら。
スジャータ!黒田長政!
私たちはなぜ、このことが嬉しいのか。
それについてはこちらをご覧ください。
おわかりいただけたでしょうか。
そう、いなかったんです。黒田長政が。400個もあったのに。
これをくださった方は、ご自身でもスジャータの蓋を集めていらっしゃるそうで
重複したのがあるからと、わざわざ送ってくださったのでした。
さあ、長らく空白だった場所に貼りましょう。
遂に真のコンプリートを果たしました。
やはり全て揃ってこそのスジャータですね。
本当にありがとうございました。
タグ: スジャータ
Posted in 一般 | スジャータ戦国武将 まさかの黒田長政 はコメントを受け付けていません
▲ページの先頭へ
2013/11/7
スジャータ(戦国武将シリーズ)。
それは「褐色の恋人」でおなじみのコーヒーフレッシュ・スジャータの上蓋に
戦国武将60種の肖像画と略歴がプリントされたもの。
60人の中には立花宗茂も含まれています。
2年前に発売されたときには50個×8袋を購入し、宗茂の人生を振り返ったのちに
専用台紙にコンプリートしたのでした。
(それは現在も保存してあります)
そのスジャータ(戦国武将シリーズ)が、この夏再び発売されると聞いたのですが
一度集め終わったものに、それほど興味もなく
なんとなくといった感じで、発売元であるめいらくのサイトをのぞいてみたのでした。
すると、今回は台紙が違う。
日本地図形。4枚を貼り合わせるタイプ 。
これは……買うよね。
こうして、すっかりめいらくの罠にはまった我らは
再び50個×8袋=400個を購入。
(通販では8袋が最少単位でした)
せっかくなので今度は、合戦ごっこなどしてみたりして。
褐色の恋人としてだけではなく
いろいろな楽しみ方のある、スジャータ(戦国武将シリーズ)なのです。
その後専用台紙をダウンロード。
武将コンプリートを目指す夏が始まったのでした。
それから3ヶ月。
もうまもなく立冬を迎えるという頃になり、とうとうやりました。
2回目のコンプリート。
ほとんどは室長が、たまに館長も使ったスジャータの蓋たち。
地道に貼り続けた60枚。
って、あれ?
1枚空いてますね。
実は黒田長政だけいなかったのです。
400個のスジャータを、3回ぐらいひっくり返して探したのですが
遂に出ませんでした。
竹中半兵衛が匿ったままなのか、長政。
そんなわけで、厳密にはコンプリートとは言えないのでした。 残念。
なお今回の400個のうち立花宗茂スジャータは4個(前回は5個)。
仲良しの人達と一緒の宗茂。楽しそう。
[大量のスジャータ(戦国武将シリーズ)のその後]
史料室で褐色の恋人として使ったほか
社内の他部署に配ったり
資料借用にみえた他館の学芸員さんに差し上げたりしました。
タグ: スジャータ, 関連商品
Posted in 一般 | スジャータ戦国武将コンプリート、再び はコメントを受け付けていません
▲ページの先頭へ
2013/8/16
〈 川中島の戦い 〉
第4次の戦いのときのつもり
〈 長篠の戦い 〉
勝頼がひとりぼっち
〈 関ヶ原の戦い 〉
西軍武将のスジャータが少ない
その頃立花宗茂は
大津城を攻めている
【もうひとつの遊び方】
〈 信長包囲網ごっこ 〉
ちょっと楽しそう
タグ: スジャータ, 関連商品
Posted in 一般 | スジャータで合戦ごっこ はコメントを受け付けていません
▲ページの先頭へ
2011/12/1
それはまだ夏真っ盛りの8月のこと。
立花家史料館宛に、注文した大量のスジャータ(戦国武将シリーズ)が届いた。
上蓋に戦国武将60種がプリントされている。
50個入りを8袋、計400個のスジャータ。
なぜこんなにたくさん。
それは、通販の販売単位が8袋だったから。
まぁこれだけあれば宗茂も出てくるだろうと思った、というのもある。
めいらくのサイトで台紙をダウンロード・印刷。
ここに上蓋を貼っていく。
それにしても400個は使いきれない。
柳川藩主立花邸御花のレストラン・対月館に、半分ほど使ってもらうことにする。
それから約3ヶ月半。
賞味期限を1ヶ月近く過ぎた今日、
最後に、顔色の悪い前田利家を貼って
やっとコンプリート。
ところでこのシリーズの画像、
普段よく見る肖像画とは別の肖像画が使われている人が多い。
この立花宗茂は、大徳寺蔵の宗茂像だろう。
さあ、60人コンプリートはしたが、
スジャータはまだいくらか残っている。
はたして今年中に使いきれるだろうか。
タグ: スジャータ, 関連商品
Posted in 一般 | スジャータ戦国武将コンプリート はコメントを受け付けていません
▲ページの先頭へ
2011/8/11
1567年 豊後国国東郡筧において誕生しました。幼名は千熊丸。
この年に生まれた武将は他に、伊達政宗・真田信繁(幸村)がいます。
ちなみにこの3人は、一部ファンの間で「67(ろくなな)トリオ」と呼ばれています。
1569年 実父高橋紹運が高橋家を継ぎ、宗茂も筑前国御笠郡岩屋城に移ります。
高橋紹運は豊後大友氏の家臣です。
実家は吉弘家ですが、大友宗麟の命で高橋家を継いだのでした。
1587年 豊臣秀吉から筑後三郡を与えられ、柳川を城地と定めます。
同じ大友配下である戸次道雪の養子となり、やがて立花家を継いだ宗茂は
島津攻めの働きにより、「九州の一物」と讃えられ
筑後国山門郡・三潴郡・下妻郡の領地を与えられます。
1597年 慶長の役で島津義弘らと共に戦います。
宗茂は朝鮮に出兵し、他の諸将と共に戦いました。
やがて秀吉の死をきっかけに帰還命令が出ます。
このとき島津義弘・小西行長・宗義智ら諸将と会談し、撤退の段取りを決定しました。
撤退途中、小西行長が退路を断たれたときには、義弘らと共に救援に向かいました。
1600年 関ヶ原の合戦で西軍に加担、大津城攻めで活躍。
秀吉への恩義から西軍についた宗茂は、京極高次の守る大津状を包囲しました。
9月15日に高次は降伏します。
しかし同日、主戦場である関ヶ原で西軍が敗れたため
宗茂は家来を従えて柳川へ帰ります。
1600年 加藤清正に柳川城を明け渡す旨の使いを送ります。
柳川に戻った宗茂は、江上・八院で東軍勢と戦い多くの家来を失いました。
そうして柳川城を明け渡した宗茂は、大名としての地位を失い
清正の領内である肥後国高瀬に寓居します。
1606年 徳川秀忠に大番頭役として召し出される。
1601年に高瀬を出た宗茂は京都で牢人生活を送っていました。
そしてやっと秀忠に会うことを許され、大番頭役として召し出されることとなったのです。
このときに奥州南郷に領地をもらっています。
1620年 田中家の改易に伴い、柳川への再封が決定。
田中家は跡継ぎがなく断絶となってしまったため
宗茂に南筑後(10万9600石)が与えられました。
一度領地を失った大名が、再び元の領地の大名として復活するのは
非常に珍しいことです。
その後の宗茂は天草・島原の乱に参戦したり
将軍家光の側近くに仕えたりしていましたが
1642年、江戸で亡くなりました。76歳でした。
タグ: スジャータ, 立花宗茂, 関連商品
Posted in 一般 | 立花宗茂の生涯をスジャータでたどる はコメントを受け付けていません
▲ページの先頭へ