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100年前の手仕事が、現代の機械には難しい……

2023/3/25

立花伯爵邸「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的に、平成28~31年(2016-19)の修復工事は実施されました。
屋根瓦の葺き替えは、現代の機械により省力されましたが、機械化があだになった工程もあります。

とくに「大広間」の内装工事では、100年前の手仕事と、機械化が進んだ現代とのギャップに苦心しました。

金剛砂

例えば、「大広間」のガラス障子の格子模様。
奈良産の金剛砂(柘榴石)を吹きかけて削る、サンドブラストという技法によります。







【修理前】格子模様のないガラスが補完されています

修理工事では、(株)クライミング に、「大広間」のガラスを模造してもらいました。
通常は、ブラスト加工と薬品処理で “表情豊かなガラスを創る” を実現されている会社ですので、単純な格子模様はまったく難しくなかったのですが、意外な落とし穴がありました。

ガラスの厚さです。
明治43年(1910)築「大広間」のガラスは厚さが2mm、現代の一般住宅でよく使われるのは3~6mmなので、すこし薄めです。

この厚さ2mmのガラスに、通常どおり機械で砂を吹きかけると、ガラスが割れてしまいます。
しかし、風圧を落とすと、砂がノズルに詰まってしまう……

「大広間」の建具は厚さ2mmにあわせて作られているので、ガラスを厚くする手もありません。

職人さんも予期せぬ難点でしたが、「割れるな」と念を込めながら微調整を繰り返した結果、100年前の「大広間」のガラスが模造されました。

【修理後】すべて格子模様のガラスが補完されました



それ以上に苦心したのは「大広間」の壁紙です。

壁紙修理の工程はコチラ



もう一度、修理前の壁紙をご覧ください。

【修理前】「大広間」東床の壁紙

おわかりいただけたでしょうか?

そこここに模様が抜けている箇所があります。

模様が緊密だと息苦しくなるため、適度に空白をつくり、軽やかに仕上げたのでしょう。
とってもお洒落です。

しかし、この空白をつくり出すのが一苦労でした。

京都から来た株式会社 丸二の職人さん達・設計監理・現場監督の三者により検討が重ねられました。

空白に法則性があるかも?と、長時間にわたり壁紙と向きあい続けた職人さん達。
ついには「”寿”という文字が見える!」と口走りはじめました。
あたかもランダム・ドット・ステレオグラムのように、「目を凝らせば見える」と。

ランダム・ドット・ステレオグラム一昔前に流行しましたが、ご存知でしょうか?
わたしは見えた経験は全くないのですが、言われるがままに壁紙を凝視します。
……なんとなく”寿”が浮かびあがってくるような……


結局、無作為だろうという判断におちつきました。


元々の「大広間」の壁紙の模様は、版木をつかって擦られたものでした。

株式会社 丸二さんが、版木による色擦りについて、とてもわかりやすい動画を公開されています。

「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)

「大広間」壁紙の場合、絵具のせの段階で、のせたりのせなかったりと、無作為にムラをつくったのでしょう。当時の職人さんの気持ちでつくられた空白には、文字は隠されてないはずです。



壁紙を張り替えるにあたり、この”無作為”が、最大の難点でした。

現代でも動画のように手仕事をお願いできますが、予算をとてつもなく超過してしまいます。
文化財を末永く保存活用していくためには、無尽蔵ではない予算を上手に配分せざるを得ません。補助金を交付する国・福岡県・柳川市と相談しながら、名勝立花氏庭園整備委員会で修理の方針を決めていきます。


現代の機械をつかって、可能な限り「大広間」の壁紙に近いモノを制作することになりました。
つかう技法は、版木のような凸版ではなく、孔から絵具を通して刷る孔版です。ステンシルや合羽刷りともいいます。

“寿”を空目した職人さんたちにより、バランスよく空白を入れた4パターンの型紙が描きおこされました。

4パターンの型紙 福井県越前市 前田加工所にて

そこに、金銀2色刷と組み合わせることで、意図的に無作為をつくり出しました。(わたしは計算が苦手なので、4パターンの型紙×2色の場合、何通りの模様が出来るのか全く見当もつきません)

金色のみ印刷した壁紙 福井県越前市 前田加工所にて

100年前の手仕事とくらべると、すごく遠回りはしましたが、現代の機械でも、適度に空白のある軽やかな壁紙が出来ました。

【修理後】「大広間」東床の壁紙

わたしには見えませんが、もし”寿”の字が見えた方がいらっしゃいましたら、挙手をお願いします。



参考文献
株式会社クライミング(福岡県みやま市)HP株式会社 丸二(京都府)HPYouTube動画「唐紙について」(YouTube「京からかみ丸二」)、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑

2023/3/15

平成28~31年(2016-19)の修復工事がはじまる頃、(株)御花の古株社員の某氏から、深刻な表情で話しかけられました。

某氏「今度の修理では大広間の瓦もやりますか?」

「やります!すべて葺き替えます!これで雨漏りに悩まされなくなりますよ!」

暗い顔の某氏「今の瓦はどうなりますか?」

「残念ながら記録を残して廃棄ですねぇ」(古い瓦に愛着があるのかな?)

さらに暗い顔の某氏「言っていいものかどうか迷うのですが……」

「そんな話こそ聞きたいです!」

某氏「あのですね……新入社員の頃に大先輩から聞いた話なのですが」

(ワクワク)

某氏「大広間の建築資材は大阪から船で運んできたそうで」

(口伝だ!大阪から運んだことは報告書でも読んだぞ〔註1〕

某氏「その船上でですね」

(船上!ワクワク)

声をひそめた某氏「大広間のための瓦が粗悪品とすり替えられたそうなんです……」

(え!!!!)

某氏「木材は建てた後も殿さん〔註2〕の視界に入るけれど、瓦は屋根に載せたら最後、絶対に殿さんの目には入らないからバレない、と」

(すごくもっともらしい!騙され方が、とても殿さまっポイ!)

某氏「大広間の瓦は、出来が良くないからヒビが入って、だから雨漏りするんですよ」

(これは事実。実際、大広間の瓦は焼き締めがあまく経年劣化が激しいです〔註3〕

某氏「柱などの木材はすべて立派じゃないですか」

(これも事実。選りすぐりの木材が使われています〔註4〕

某氏「木材と瓦の品質に差がありすぎるのは、殿さんが騙されたからだと大先輩が言ってました」

(ちゃんと筋が通ってる!信じちゃう!)

深刻な某氏「殿さんが騙された話は、おおっぴらには言えないので、今まで黙ってきました」

(えらいな、社員の鑑だな)

とても深刻な某氏「でも、瓦も修理するなら、白日の下にさらされるのですよね……」

「安心してください、殿さんは騙されていません。前提が違ってます。木材は大阪から取り寄せましたが、瓦は地元の柳川周辺でつくられたものです」

某氏「え!!!!そうなのですか?
でも、木材はわざわざ遠方から取り寄せたのに、なんで瓦はそうしなかったのですか?」

「それはですね、瓦はとても重く、そして大量の瓦が必要だったからです。 当時の輸送力では、遠方から瓦を運ぶのはとても難しく、地産地消となったのです

某氏「じゃあ、騙された殿さんはいなかったのですね、よかった……」

以上、多少脚色しましたが、実話です。


おそらく御花の大先輩は、目の前のチグハグさを、自分の知識の範囲で辻褄を合わせ、知らずにストーリーを作ってしまったのでしょう。とても興味深い事例です。
そして、殿さんが騙された話は絶妙に面白く、確証がなければ、わたしも完全に否定できなかったかもしれません。

註を解説しながら、騙された殿さんがいないことを証明します。

まずは、註2:殿さんは、柳川ではトンさんと読みます。


註1

国の指定文化財を、国・県・市などから補助金を交付されて修理する場合、修理の前後をきちんと記録に残すために、報告書を作成しなければなりません。

(株)御花が主体となって実施した修理工事の報告書は、2007年『名勝松濤園内 御居間他修理工事報告書』、2020年『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』の2冊があります。

報告書の作成にあたり、有明高等工業専門学校建築学科教授・松岡高弘氏と(株)河上建築事務所・河上信行氏が中心となって、残された図面や古文書類まで丹念に調査され、その成果も報告書にまとめていただきました。

とても充実した内容の、自慢の報告書です。


註3

立花伯爵邸の瓦は、瓦に刻印された地名から、地元柳川でつくられたことがわかります。

現在、全国の瓦の多くは、限定された生産地域でつくられた機械製品です。しかし、昭和初期ころまでは、それぞれの土地で焼かれた手作りの瓦がつかわれていました。

修理前の瓦は、土の耐火度が低いために焼き締めが十分でなく、100年の経年劣化もあわせて、「凍害」「割れ」「欠け」のある瓦が多く見られました。

平成28~31年(2016-19)の修復工事では、明治期の瓦に色が近く、耐久性のある瓦をもとめ、瓦の日本三大産地のひとつ、愛知県の三州瓦を約1万3千枚つかっています。


註4

立花伯爵邸の材木「御建築用材」の調達は、成清仁三郎さんが請け負い、長崎・大阪・名古屋で材木の市場調査の末、材料や木挽人夫等の手間賃の高騰に困らされながも、ケヤキ・ヒノキ・スギ・ツガ・マキ・タガヤサン等を大阪から納入したことが、残された文書資料からわかります。

ただし、修理で発見された板の摺書には、秋田や宇都宮の地名も見られるので、全国から集められた中で選りすぐりの良い材木を見分したのでしょう。



報告書では、刻印や摺書の写真や、ほかの文書資料なども掲載され、註3と註4がさらに詳述されています。



実際の修復工事にて、大型トラックやクレーン車、瓦を屋根に揚げる機械「瓦揚げ機」の大活躍ぶりを目にすると、100年以上前に人力のみで瓦を葺いた際の労力は計り知れません。

この修復工事をつぶさに見学した経験と、報告書の記録により、 わたしは確信をもって瓦の疑惑を否定することができます。


……歴史を学ぶ必要性を実感する、とても良い教材となりました。


参考文献
名勝松濤園修理事業委員会 河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3.31 (株)御花

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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立花伯爵邸には無いモノを紹介します

2023/3/5

よそのお宅をのぞくと、立花伯爵邸には無いモノが気になります。




目の前の作品を解説するとき、無いモノは説明しづらいので、在るモノだけを紹介せざるをえません。
しかし、無いモノにも無い理由があり、”無い”という特徴になるのです。



では、前回Googleマップストリートビューで訪れた「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」に在って、立花伯爵邸には無いモノを紹介します。


・立花伯爵邸には、趣向を凝らした天井がありません。


重要文化財「旧伊藤家住宅」(福岡県飯塚市)はどうでしょう?

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

北棟「本座敷」廊下が、矢羽 ヤバネ 天井となっています。
柾目の板を斜めにして、V字を連続させたような文様に貼り、錯視効果を狙ったともいわれます。畳を横使いに敷き詰め、広さが強調される畳廊下は約50mつづきますが、欄間で区切られた、本座敷と次之間の範囲外は、装飾性が低い棹縁 サオブチ 天井です。



趣向を凝らした天井をもつ廊下は、重要文化財「旧岩崎家住宅」(東京都台東区)にもあります。

洋館と和館がつながる廊下が、船底 フナゾコ 天井です。横にわたされる梁は、岩崎家の家紋にちなんだ三菱紋形に削り出されているそうです。

並べてみると、どちらも廊下が長く見える効果を狙っているように感じます。
ちなみに、両者の廊下の幅はおおよそ同じです。



旧長州藩主の毛利家が大正5年(1916)に建設した重要文化財「旧毛利家本邸」山口県防府市)では、角材を格子に組んだ格 ゴウ 天井が、重厚さを醸しだしています。

格天井(小組格天井)は、この部屋「本館客室(一階大広間)」の格式の高さをあらわします。
Googleマップストリートビューではのぞけませんが、床の間がある部屋は、天井の中央部分を一段高くへこませた折上 オリアゲ 格天井にして、さらに高い格をあらわしています。



当主家族が食事をとる部屋「食事ノ間」の天井もスゴイ‼
内側は格天井で、一枠ごとに木目の方向を互い違いに配しています。



「旧毛利家本邸」では、いたるところで豪奢な木材を堪能できます。
例えば、玄関から応接間にいたる廊下は、台湾産の巨大ケヤキの一枚板です。 加えて、部屋部屋を仕切る各板戸は屋久杉(神代杉)の一枚板。



一枚板とは、大きく育った一本の木から切り出された、継ぎも接ぎもない板のこと。とくに節がなく木目が美しいものは珍重されます。


・立花伯爵邸には、このような一枚板はありません。


もちろん、立花伯爵邸「大広間」や「御居間」の柱や長押に使われているスギ材は、すべて均一な柾目で、とても上等です。他の部材も、伯爵邸の建築にあたって選び抜いた大量の高級木材を、大阪から運んできました。
平成28~31年(2016-19)の修復工事では、屋根裏にいたるまで贅沢に木材を使っていると、どの大工さんも褒めてくださいました。

それなのに、立花伯爵邸には一枚板は無く、わかりやすいケヤキやヒノキも無いのです。
しかし、趣向を凝らした天井も一枚板も無いことが、立花伯爵邸の特徴-明るさと軽やかさと新しさ を、より際立せてもいます。

重厚でゴージャスな毛利公爵邸と、軽妙でスタイリッシュな立花伯爵邸
それぞれの個性が対照的なのも、大変興味深いです。



今回は立花伯爵邸と比較するため、重要文化財「旧伊藤家住宅」重要文「旧岩崎家住宅」重要文化財「旧毛利家本邸」の、ごくわずかな部分しか取り上げませんでしたが、どのお宅も見どころ盛り沢山のステキな建物です。
Googleマップストリートビューでの予習の後、ぜひ実際に訪れてみてはいかがしょうか。



床の間を見て、天井を見て、各部材をイチイチ見て、と鑑賞していると、同行者や周りの人々から不審がられるかもしれませんが、私もそうなので大丈夫です。



【2023.3.14追記】
浅学のため見逃していました。
毛利博物館の柴原館長が「旧毛利家本邸」の見どころを解説される、贅沢で素晴らしく、とても勉強になる動画です。
レポーターの方がとても羨ましい…… 豪奢な木材も十分に堪能できます。

You Tube「防府市公式チャンネル」

『重要文化財 旧毛利家本邸(前編)』(ほうふほっとライン:2021年7月放送)

『重要文化財 旧毛利家本邸(後編)』(ほうふほっとライン:2021年8月放送)



参考文献
国指定文化財等データベース(文化庁)、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸(福岡県飯塚市)、
解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビュー (飯塚市提供)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」、毛利博物館(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会、YouTube「防府市公式チャンネル」

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》

2023/3/2

前回、立花伯爵邸「大広間」の床の間について長々と解説しましたが、床の間は難しいとしみじみ思いました。




最近は床の間のない住宅が主流になりつつあります。
床の間は建築の一部なので、美術館や博物館で見る機会も多くはありません。
床の間になじみのない方に、テキストだけで説明するのは難しすぎるのだけれど、どうしよう……


そんなときは新しいメディア、Googleマップ ストリートビューです。
画像の拡大も、360°回転も可能です。


さっそく立花伯爵邸「大広間」東床をのぞいてみましょう!

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

ふりかえって西床。

まさに「床の間」拝見にうってつけのメディアです。
東床と西床とを並べて、”間違い探し” もできます。

「大広間」東床・西床の詳細を知りたい方はコチラ



続いて立花伯爵邸「御居間」棟の「床の間」も並べましょう。

現在「御居間」は柳川藩主立花邸 御花の料亭「集景亭」の個室として利用され、通常の有料見学範囲には含まれておりませんので、ご注意ください



最初は立花家14代当主・寛治の居室であった「松の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」6畳が繋がる広い部屋で、最も格式が高いつくりとなります。

左上に見える欄間の意匠は「帆の丸祇園守紋」。立花家の家紋「祇園守紋」のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆塗です。



ちなみに大広間「東床」は、床・棚・付書院が設けられ、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げとなります。

「大広間」の東床と共通する=最も格が高いのですが、反面シンプルで遊びがありません。



隣は寛治の書斎であった「鈴の間」
伯爵邸時代の呼び名は「御殿様御書齊」、6畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。「松の間」と比べると少し格を下げています。

右をのぞくと見える欄間の意匠は「崩し祇園守り紋」。これも立花家の家紋のバリエーションの1つです。

床・棚・付書院を設け、幅4分3間・奥行4半間の畳床、床柱は杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。




「新鈴の間」は、寛治の嫡男で15代当主となる鑑徳の居間でした。
伯爵邸時代の呼び名は「若殿様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左上に見える欄間の意匠は若松で、寛治の部屋よりもくだけた雰囲気となっています。

床・棚・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は竹と雀、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は面付杉丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



寛治の三番目の妻・鍈子(明治31年結婚)の居間が「花の間」です。
伯爵邸時代の呼び名は「奥様御居間」、8畳に「御次ノ間」4畳が繋がります。

左をのぞくと見える欄間の意匠は梅、やわらかく洒落た雰囲気になっています。

床・付書院を略した形式の平書院を設け、障子の上の透し欄間の意匠は菊、違い棚はなく天袋 テンブクロ・地袋 ジブクロのみ、幅1間・奥行半間の畳床、床柱は鉄刀木タガヤサン の面付丸太、床柱と長押の取付きは雛留です。



なんということでしょう!

各部屋の「床の間」が簡単に見比べられて、共通点と相違点がよくわかります。
さらには視点を変えて、欄間や付書院もしっかりと鑑賞できます。

「立花伯爵邸」の「床の間」には、当主をトップとするヒエラルキーが明確にあらわされています。
柳川藩主立花家という、旧大名家の住宅の特徴でしょうか?



よそのおうちの「床の間」がとても気になる……

明治43年(1910)築の立花伯爵邸を基準に、同世代の富裕層の住宅という“縛り”で、《オンラインツアー「床の間」拝見》にGO!!


まずは同じ福岡県内、飯塚市の旧伊藤傳右エ門氏庭園(国指定名勝)内に建つ、重要文化財「旧伊藤家住宅

筑豊の炭鉱経営者・伊藤傳右エ門(1860~1947)の本邸として、明治39年(1906)から建設が始まり、昭和初期まで増改築を重ねました。
そして解説付き旧伊藤伝衛門邸3Dパノラマビューはオススメです。

この旧伊藤家住宅・北棟の「本座敷」がこちら。
さすが同世代、立花伯爵邸「大広間」にとても似てます。

ただ、土で仕上げた聚楽壁 ジュラクカベなので、紙や布を貼った貼り付け壁につけられる「四分一」はありません。かわりに襖に趣向が凝らされ、海を背景に、帆掛け船の引手が浮かぶように見せています。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。

「四分一」?と思われた方はコチラ



旧伊藤家住宅・北棟の「中座敷(主人居間)」は、「本座敷」より少し格が下げられています。紙貼り付け壁ですが、「四分一」はありません。

床・棚・付書院を設け、幅1.25間の畳床、床柱は鉄刀木の面皮柱、床柱と長押の取付きは雛留、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。



旧伊藤家住宅・北棟の「2階座敷」は、見た目の印象がガラッと変わります。 伯爵家から傳右エ門 嫁いだ歌人・柳原白蓮/燁子(1885~1967)の使用を前提として、大正2~6年(1913~17)に増築されました。

竹の落掛けに加え、竹をつかった亀甲組の床脇天井など、格式から離れ、洒落た趣向が凝らされています。

床・棚に斜め切りの書院窓を設け、幅1.5間の畳床、床柱は赤松の面皮柱筍面付、床框は三色黒漆塗の面皮塗残し、丸竹の落掛け。床脇は欅玉杢の一枚地板に亀甲組の天井が見えます。




次は、旧大名家の住宅つながりで、旧長州藩主・毛利家が、山口県防府市に大正5年(1916)に建設した「旧毛利家本邸」(重要文化財)

大規模で複雑な構成の建築を、上質な材料や高度な木造技術による贅沢な意匠でまとめるとともに、コンクリート造や鉄骨造、機能的な配置計画など近代的な建築手法を取り入れており、近代における和風住宅の精華を示すものとして重要である。このうち客間は、檜柾目の木材や飾金具、金粉を用いた壁紙など贅を尽くした意匠で仕上げる。

文化庁「旧毛利家本邸」(『国指定文化財等データベース』) より引用

贅を尽くした旧毛利家本邸では、 誰もが豪華さに圧倒されます。

とくに、先に “11万石” “外様” “伯爵” という「立花伯爵邸」を見ておくと、「旧毛利家本邸(毛利博物館)」が醸し出す ” 36万9千余石 ” “薩長土肥” “公爵” という風格がより強く、はっきりと感じられるので、オススメです。


わたしのイチオシは「旧毛利家本邸」の「本館客室(一階大広間)」。
絶妙な画角で「床の間」が拝見できないのが惜しまれます。
極めてゴージャスなので、ぜひとも現地を訪問して御確認ください。




最後は、洋館と和館を併設した住宅というつながりで、東京都台東区の「旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目)」(重要文化財)

旧岩崎家住宅は明治29年(1896)三菱第3代社長の岩崎久彌(1865~1955)の本邸として建てられました。現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟、英国人ジョサイア・コンドルが設計した洋館が有名です。

「大広間(和館)」の床柱は正角、おそらく杉の四方柾でしょうか。
この部屋の格の高さがわかります。

床・棚・付書院を設け、幅2間の畳床、床柱は杉?四方柾の正角、床柱と長押の取付きは枕捌、床框は黒漆蝋色塗仕上げに見えます。*畳床に通常の畳を縦に用いている点が合理的です。



Googleマップツアー、とても楽しい。
「みんなちがって、みんないい」


「旧伊藤家住宅」「旧毛利家本邸」「旧岩崎家住宅」の話はコチラにも!


参考文献
名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸の庭園国の名勝指定」、飯塚市HP「旧伊藤伝衛門邸」旧伊藤伝衛門邸HP(福岡県飯塚市)、砂田光紀『旧伊藤伝衛門邸 筑豊の炭鉱王が遺した粋の世界』旧伊藤伝衛門邸ブック制作委員会、『飯塚市指定有形文化財 旧伊藤伝右衛門邸修復工事報告書』2007.3.31 飯塚市、国指定文化財等データベース(文化庁)毛利博物館HP「毛利邸見所紹介」(山口県防府市)、『旧毛利家本邸の百年』2018.10.22(公財)毛利報公会 毛利博物館、旧岩崎邸庭園HP(東京都台東区)、内田博之『旧岩崎邸庭園 時の風が吹く庭園』2011.6(公財)東京都公園協会

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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フレキシブルな立花伯爵邸「大広間」床の間[後半]

2023/2/22

平成28~31年(2016-19)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の西側の床の間「西床」を復原しました。




参考としたのは、一枚の古写真と柱や梁に残された痕跡です。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

河上建築事務所による入念な調査の末に、復原のための設計がなされました。

理想としては、元の「西床」の木材を再利用したいところですが、関係者一同、誰も心当たりがありません。
ステージの改造は、およそ半世紀前。
当時は文化財であるという意識も薄かったので仕方ないと諦めて、新造する設計になりました。

修復工事がはじまった頃、わたしは倉庫で丸太につまずきました。
年に5回ほどしか来ない倉庫なので、毎回忘れて、毎回つまずくのです。

なぜここに 丸太が 転がっているのだろう?
長くて重くてすごく邪魔……と思った瞬間、ハッとひらめきました。

これって「西床」の木材じゃない?!

きちんと見ると、長さ12尺(3.6m)ほどの鉄刀木 タガヤサンで、ホゾ穴があき、加工されています。東南アジア産の鉄刀木は、漢字のとおり非常に硬くて重い高級木材であり、よく床柱として使われる材です。

急いで設計監理の河上先生に報告すると、フレキシブルに設計が変更され、「西床」の床柱として組み込まれることになりました。



きれいに洗われて、今では立派な床柱。

これぞ適材適所!!

修復工事後に、戦前から立花家・御花に勤めていた番頭さん(故人)が「大広間の床柱と仏間廊下のケヤキ板を床下に入れた」と仰っていたという証言を聞きました。
現時点では床下ではなく倉庫ですが、ケヤキ板もちゃんと保管されていますので、ここに記しておきます。



よみがえった「西床」の床柱は鉄刀木の面皮柱です。
「東床」はどうでしょうか?



2017年8月のGoogle撮影時は床框 トコカマチ(床の間の前端の化粧横木)に保護カバーが被せられていますので、こちらもご覧ください。

大広間「東床」修復後
ちなみに修復前の「東床」

おわかりいただけたでしょうか?

「東床」の床柱は杉の角材です。
数寄でも侘びでもなく、まったく面白みはありません。

しかし、この柱は「四方柾 シホウマサ」
四面すべてを細めで均一な柾目 マサメ(まっすぐな木目)にするために、数倍の大きさの丸太から贅沢に切り出された最高級品です。

また、縦の床柱と横の長押 ナゲシ との接点(釘隠 クギカクシ のある所)での、長押が裏までまわりこむ取付き「枕捌 マクラサバキ」や、床框の黒漆蝋色塗 ロイロヌリ での仕上げなど、すべてに手間がかけられています。

つまり「東床」は、最も格式が高い床の間としてつくられています。

ちなみに「西床」は、長押が床柱の正面でとまる「雛留 ヒナドメ」という取付き、床框は拭き漆仕上げとなっていて、一段階ほど格が下がります。

それでも、床の間の畳「畳床」にはサイズ(東床は約390×120cm、西床は約242×95cm)に合わせた大きな特注品(一般的な畳のサイズは約182×91cm)が使われるなど、シンプルですが贅沢です。



修復工事では、「東床」の床框も塗り直しました。

「東床」の蝋色塗仕上げも、 「西床」の拭き漆仕上げも、どちらも丹念な手仕事です。とくに「西床」は、 参考資料が白黒写真しかなかったため、色合わせに苦心しました。

木地に油分を含まない漆を塗り、木炭で研ぎ出し、さらに磨いて光沢を出す「蝋色塗仕上げ」の工程は、古研ぎ→錆繕い・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り鏡面仕上げ。
木地に透けた漆を塗り、余分な漆を拭き取る「拭き漆仕上げ 」の工程は、生漆固め・研ぎ→ 錆下地付・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り。
どちらも下塗り3回に上塗り1回という工程を重ねています。


この艶めき、キズひとつ付けてはならぬ!と心に誓いました。

実際の「大広間」では、どうか、お手を触れずにご鑑賞ください。

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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フレキシブルな立花伯爵邸「大広間」床の間[前半]

2023/2/13

明治43年(1910)築の立花伯爵邸「大広間」が誇る “明るさと軽やかさと新しさ” 、その “新しさ” のアピールポイントは他にもあります。




再び、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手は、前回と同じく『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」

「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

しかし、今回は床の間の向かい側を見ていただきたい。
お手数ですが、3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』「大広間」(Matterport)内で、ふりかえってみてください。⇒コチラからどうぞ!

⇒ふりかえると、畳廊下をはさんで「使者之間」があります。つまり「大広間」からは出てしまうのです。


では、立花伯爵邸「大広間」は? 
Googleストリートビュー立花伯爵邸内で、ふりかえってみてください。



おわかりいただけたでしょうか?

ふりかえると見えるのは、こちらの床の間です。

立花伯爵邸「大広間」西床 修復後

そうです、
立花伯爵邸「大広間」には、床の間(床・棚・付書院)が2つあるのです。



『高山陣屋』のような近世の書院造では、一方向の軸性が強調されます。

他方、立花伯爵邸「大広間」は、南側の庭園「松濤園」を隅々まで見わたせるような部屋の配置で、東西に床の間があるため、横の広がりを感じさせます。
東の床の間が主であり、西の床の間は、広間を分割して使用する際につかわれたのでしょう。

このフレキシブルさが、近代ならではの新しさだといえます。


実は、ご覧いただいている西の床の間「西床」は、平成28~31年(2016-19)の修復工事によって復原されたものです。

修理前はステージが設けられ、貸会場として「大広間」を利用される際には大活躍していました。

立花伯爵邸「大広間」西側ステージ 修復前

明治43年(1910)の建築当初は、写真のような床の間でした。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

昭和42年(1967)ころには、ステージへと改造されたようです。

床の間 → ステージ → 床の間復原 という変遷をみると、ステージは不要だったように思われるかもしれません。
しかし、フレキシブルに姿を変えてきた「西床」は、立花伯爵邸の歴史をそのまま反映しているのです。


昭和25年(1950)に立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なった状況で、収入源を確保するため、立花家は料亭・旅館業をはじめます。
「大広間」は、宴会場として地元の人々に頻繁に利用されるようになりました。
宴会には余興が欠かせません。
需要にこたえて「西床」が解かれ、ステージが設けられたのです。

時代に即したフレキシブルに 改装などにより、料亭旅館「御花」は創業70年をこえる老舗となり、立花伯爵邸は失われることなく、新築時からの姿を大きく変えずに残されました。
旧大名家の明治期の住宅が良好に保存されている例は全国的に見ても希少であるため、立花伯爵邸をふくめた「立花氏庭園」は、国の名勝に指定されます。

築50年では「古めの建築」でしたが、築100年をすぎると「文化財」として扱われるようになったのです。


「文化財」となると「変わらない」努力が求められます。

文化庁の指導に基づき、国・福岡県・柳川市のご協力を賜りながら、適切な維持管理に努めるなかで、「大広間」の修復工事が計画され、そこに「西床」の復原も組み込まれたのです。
文化財建造物の修理の際に、改造前の姿に戻すことを「復原」と言います。

では、一枚の古写真と柱や梁に残された痕跡をもとに、「西床」はどのように復原されたのでしょうか?



参考文献
高山陣屋HP(岐阜県)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ

2023/2/6

立花伯爵邸「大広間」の明るさと軽やかさのヒミツは、修復前の写真にも写っています。

お分かりいただけたでしょうか?

2016年7月 修復工事の直前

現代を生きる私たちは、明るくて広い室内空間に慣れすぎているため、驚きなく「大広間」を受け入れてしまいます。

よく畳の数を質問されますが、わたしが宣伝したいのは軽やかな開放感です。

ただし、「大広間」は襖で3室に区切られますが、近年はすべての襖をはずしているので、より開放感が増しております。

蛇足ですが、平成28~31年(2016-2019)の修復工事 で新調全交換した「大広間」の畳の数は、97枚+半畳2枚+本床2枚です


立花伯爵邸「大広間」は、室町時代にはじまる住宅建築の様式「書院造」をきちんと踏襲し、旧大名家にふさわしい格式を備えています。

書院造[→わかりやすい動画解説「書院造」(『NHK for School』) ]は、本来は呼称のとおりの書斎でした。
 例:『吉水神社書院』【重要文化財】、『慈照寺東求堂【国宝】

時代が下がると、接客や儀礼の場として使われるようになり、大規模な書院もつくられました。
 例:『二条城 二の丸御殿【国宝】、『本願寺書院(対面所及び白書院)【国宝】、『名古屋城 本丸御殿(復元)』

※ぜひ各サイトもご覧ください。3Dバーチャルツアー (Matterport) 『本名古屋城丸御殿(表書院をスタート地点に設定)』も楽しめます。


しかし、明治41年(1908)築の立花伯爵邸「大広間」には、近代ならではの新しさもあります。


新しさを実感できるよう、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模にみえる『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手に選んでみました。

岐阜県高山市「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより
立花伯爵邸「大広間」修理後の写真ですが、見くらべやすいので

このように並べると、よくわかるのではないでしょうか?
立花伯爵邸「大広間」の柱の数が少ないことは、一目瞭然です。

3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』(Matterport)内では測定もできます。
高山陣屋/立花伯爵邸で比べると、柱と柱の間は1.7m/5.88mで、立花伯爵邸「大広間」が3倍も広くなっています。ちなみに柱の高さ2.83m/3.64m 、柱の太さ12cm/15cm でした。

2017年6月 障子の張り替え


また、障子・ガラス障子・欄間障子がはめられていて見過ごしがちですが、とにかく壁面がありません。
加えて天井も高いので、とても明るく軽やかで開放感がある室内空間となっています。






2017年7月 細い柱と長押しかありません



この開放感ある室内空間は、建築当時の新技術によって実現できました。
明治時代に日本へもたらされた技術の1つ、トラス構造で屋根を支えているのです。

立花伯爵邸「西洋館」「大広間」断面図  トラス構造「洋小屋」

従来の屋根の構造、いわゆる「和小屋」では、屋根を支える力を下へと流します。他方、三角形のトラス構造「洋小屋」は、力を外に分散させるので剛性が高くなり、各部材をより細く、柱と柱の間をより広くすることができます。

木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」
(明治36、7年頃)東京都立図書館蔵


例えば、同時代の設計例の木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」(明治36、7年頃 東京都立図書館蔵)は、斜めの筋交いはありますが、屋根の重量を1本の梁材にもたせる「和小屋」です。








東京都立図書館「木子文庫」
内裏の作事に関わる大工を務めた木子家伝来の建築関係資料群。明治期以降、帝国大学の建築学の講師や教授になった木子清敬、幸三郎関係の建築図面や建築写真など約29,000点があり、明治宮殿ほか近代の宮殿建築の主要なものをほぼ網羅する。
*「立花伯爵邸」と同時代の建築図面や建築写真が多数公開されています*


現在も「和小屋」と「洋小屋」は使い分けられているので、新技術によって日本の屋根の構造が一変した訳ではありません。

実際、立花伯爵邸「御居間」棟の屋根は「和小屋」です。
必要な室内空間の広さにあわせて「和小屋」と「洋小屋」を使い分けたのでしょう。

「大広間」の屋根を、並列する「西洋館」と同じトラス構造としたのは、近世にはなかった、明るく軽やかな広い空間が求められたからではないでしょうか。

そして、立花家のお歴々は、とても「新しモノ好き」だったようなのです。



立花伯爵邸の新築から現在まで、およそ110年が過ぎました。
めまぐるしく産業技術は更新され、最新技術がすぐに古びてしまいます。
現代において、はじめて伯爵邸がお披露目されたときの、人々の新鮮な驚きを追体験するのはとても難しい……

立花伯爵邸「大広間」が誇る “明るさと軽やかさと新しさ” を実感していただくため、時代を遡りながら長々と書き連ねてきましたが、まだまだ終われません。

この機会に声を大にして、とことんアピールしていきます。




参考文献
NHK for School国指定文化財等データベース(文化庁)吉水神社(奈良県)臨済宗相国寺派銀閣寺(京都府)元離宮二条城(京都府)西本願寺(京都府)名古屋城(愛知県)高山陣屋(岐阜県)木子文庫(東京都立図書館)

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金銀に輝く壁紙にひそむ新旧の技術

2023/1/31

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、経年により変色した「大広間」の壁紙を、新旧の技術で再現して張り替えました。

作業はすべて、今では失われつつある、京都の職人さん【株式会社 丸二】の技によります。


旧壁紙のはぎとり

2016年8月
旧壁紙の内側(残念ながら重要な文書は出ませんでした)

旧壁紙の調査

蛍光X線分析を主とした調査の結果、 黒ずんでいた菱形文様は、真鍮(銅+亜鉛)による金色と銀の2色刷と判明しました。経年により、銀は黒色に、真鍮は銅が緑青化して緑がかった褐色に見えていたのです。

2016年9月 福岡市埋蔵文化センターにて

組子の修理

2017年3月

壁紙の下張り

可能なかぎり旧来の手法を踏襲しましたが、下張りは反故紙を利用せず、新たな和紙を、厚さや糊付けを変えて七重に貼り重ねた上に、本紙を上張りしました。

張り方によって糊の濃度も変えます

①骨縛り 
厚めの楮紙と濃いめの糊により、組子の暴れと型くずれを防ぐ
②胴張り
虫害や変色につよく、燃えにくい緑色の名塩和紙(雁皮に泥土をまぜた和紙)により、骨が透けて見えるのを防ぐ
③田の字簑
少し濃いめの糊を田の字につけ、緩衝となる空気層をつくる
④簑縛り
楮紙を押さえつけ、壁面化させる
⑤浮け
楮紙により通気のための層をつくり、下地の灰汁を通さない
⑥ 二重浮け
⑦浮け縛り
茶色の機械漉和紙(混入物がない、のびが少ない)により、下が透けず皺がでない

2017年4月 ①骨縛り
2017年5月 手前から白・②緑・⑦茶色の和紙が張られています

壁紙の本紙上張り

本紙は越前の手漉き和紙です。
和紙を漉くための枠「漉きぶね」も、「大広間」壁紙のサイズに合わせ、通常の襖のサイズよりも大きくなっています。

福井県越前市 やなせ和紙(http://washicco.jp)にて

金銀2色の文様はスクリーン印刷。
顔料は変色しにくい、雲母と酸化チタンからつくられる顔料を用いています。

福井県越前市 前田加工所にて
福井県越前市 前田加工所にて

丈夫な越前の手すき和紙に、新技術で刷られた輝きが、100年後まで変わらずに続いていくはずです。ただし、新しい技術なので、まだ100年の実績を誰も確かめてはいないのですが……



壁紙が張り替えられた「大広間」は、とても明るく軽やかで、修復前とは印象がガラリと変わりました。

2017年6月 畳を敷く前 四分一も見えますか?
100年前の輝きをとりもどした「大広間」

株)御花は、この「大広間」を結婚披露宴の会場としても活用しています。
金銀でおめでたく、華やかな宴にピッタリ。

会場設営の一例 御花ブライダルギャラリー」より


100年前の建築当初には予想もしなかったはずなのに、先見の明でしょうか……

しかし、明るさと軽やかさのヒミツは壁紙だけではありません。




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知られざる「四分一」

2023/1/26

四分一と書いて、シブイチと読みます。

辞書には、
  ①4分の1。四半分
  ② 銅3、銀1の割合で作った日本固有の合金。装飾用。朧銀。
  ③室内の貼付壁をとめるために周囲に取り付ける漆塗の細い木
と3項目の説明があります。 

※広辞苑・大辞林・大辞泉の記述を要約

今回の「四分一」は③のことです。

わたしは、合金の②は刀装具などでみて知っていましたが、建築用語の③は立花伯爵邸の修復工事を担当するまで知りませんでした。

しかし、立花伯爵邸「大広間」を見学された方はすべて、③の「四分一」を目にしているはずです。

立花伯爵邸「大広間」修復前

おわかりいただけたでしょうか?

この黒漆塗の細長い木材です。

(残念なピントですが) 壁からはずされた四分一



「四分一」とは、4分×1寸、つまり断面が約12㎜×約30㎜であることに由来する呼称です。

壁や床などの境目を、美しく始末するための「見切り材」の一種であり、おもに紙や布を貼った貼り付け壁の縁に取り付けられています。

実際に見る方が断然わかりやすいのですが、写真を凝視すると、各区画の壁紙に額縁のように付けられているのが見えてきませんか?








平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の壁紙をすべて貼り替えました。

壁紙を担当する株式会社 丸二 の職人さん達が下見に来た際に、わたしは初めて「四分一」を視認しました。何年も見続けてきた「大広間」なのに……

職人さん・設計監理・現場代理人の三者下見
2016年7月 

壁紙の貼り替えと同時に「四分一」も新調するのですが、いくつかの難点があげられました。

  1. 最近は紙の貼り付け壁が激減、さらに「四分一」の施工例は希少で、作業経験のある職人さんも少ない。
  2. 「大広間」の「四分一」は黒漆塗り仕上げであるが、細長い木材に漆を塗るにはコツが必要。あつかえる職人さんはごく少数のうえ、高齢化している。
  3. 「大広間」の「四分一」は最長で2メートルをこえるほど長く、必要本数も大量。漆塗りには体力を要し、高齢化された職人さんから避けられる可能性がある。


再利用しては?とうかがうと、「四分一」は釘付けされていて、古い壁紙とともに、むしりとるように撤去するしかないとのこと。

釘? どこ?

左:剥ぎとる前、右:剥ぎとり後 菱菊形釘隠ではなく四分一をご覧ください




1年後、実際の作業を見てはじめて理解できました。

四分一の取り付け【釘を隠すための工程】

両端がとがった合釘 アイクギ を、「四分一」の内側に半分打ち込みます。
その合釘が仕込まれた「四分一」を、傷が付かないよう当て木をして、紙を張り終わった壁に打ち付けています。



2017年6月 新調四分一のサイズ合わせ


もちろん、ぴったりと納まるように、寸法は現場にて合わせられました。












壁紙の撤去は修復工事の序盤。
畳や瓦が次々に取り除かれ、「大広間」の内部構造があらわになっていきます。

「大広間」 壁紙・四分一撤去後 2016年9月
はぎとられた四分一
(全体のほんの一部です)


外された「四分一」の断面を見てはじめて、角をけずった「面取り」加工に気がつきました。

当然、「大広間」のすべての「四分一」が面取りされています。

















とても丁寧に工程が重ねられた贅沢さ。

これが、大名から伯爵となった立花家の、400年の歴史の重みです。

しかし、どれも派手なキラびやかさはなく、一見しただけでは分かりにくい……
立花家史料館の学芸員としては、是非とも皆さまに、微に入り細に入り延々と解説したいところです。



これから、明治43年(1910)に新築お披露目された「立花伯爵邸」の各所に隠されている贅沢さを、修復工事の記録や裏話とともに紹介していきます。

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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兜の脇立をはずせますか? 立花宗茂の月輪脇立

2023/1/18

当世具足と組み合わされる兜、その両脇につく飾りを「脇立」といいます。
わたしが甲冑を展示する際に、最も神経をとがらせるのが、「脇立」をはずす時です。

脇立って、はずせるの⁉️


実際にはずす動作を見るのが一番わかりやすいので、オンラインツアー【終了しました】でご覧いただきたい。これこそ通常の展示室では不可能な、オンラインツアーの醍醐味!滅多にない機会です。






ほんのチラ見せですが、冒頭で脇立の解説をしています。

◆販売中◆ 解説本『立花宗茂の甲冑大解剖』(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足 )16頁 300円/解説本『立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ(鉄皺革包月輪文最上胴具足)24頁 500円(どちらも税込・送料別)展示室では鑑賞しずらい裏面や細部の拡大写真と詳細な解説。◎ B6判オールカラー ※まとめての購入は送料がオトクです

大輪貫鳥毛後立兜を刺繍した「宗茂兜ミニタオルハンカチ」も販売中です






脇立は、兜の両脇に出ている「角元」に差し込んで付けます。

初代柳川藩主・立花宗茂の兜の脇立は、金属製だと誤解されがちですが、実は薄くて軽い木製です。黒漆が塗られ、鏡面のように仕上げられています。上部中央の蝶番により、半分に畳んで収納できます。

大輪貫鳥毛後立頭形兜(伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足)

おわかりいただけたでしょうか?

脇立の下部に、角元が少し覗いています

脇立を兜に装着する際は、真上から差し込みます。
角元がみえると見栄えが悪いので、無理のない範囲で押し込まないといけません。

ただし、力まかせに押し込むと、抜けなくなる可能性があります。
繊細な文化財を保護しながらの展示作業では、押し込むより引き抜く方が、コツが必要で難しいのです。

とくに脇立は、前立や後立、頭立とくらべると、絶妙な力加減が要求されます。



当世具足より以前の甲冑には脇立が付くことがないので、脇立を外した経験がある学芸員さんも、意外と少ないのではないでしょうか。
それだけ、兜から脇立を外す瞬間を見る機会は希少なのです。


脇立の外し方を知ると、他の武将の脇立を鑑賞するのがサラに楽しくなります。


例えば、福岡市博物館が所蔵する「銀大中刳大盔旗脇立頭形兜」も、脇立の基本的な造りは同じなので、素材や構造の推測はできます。
だからこぞ、大きな脇立を支える角元の形や、外した脇立を収納する箱についての疑問がサラに生じ、ものすごく楽しいです。いつか正解が知りたい……



この楽しみを分かち合える方々が増えると大変嬉しいので、個人的にも今回のオンライツアーを強くオススメいたします。

【ココまで知ればサラに面白い】
普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
⇒これまでの話一覧   ⇒●ブログ目次●


オンラインツアー「立花宗茂の甲冑大解剖~すべて魅せます!表も裏も細部まで~」 (2023.1.27開催) は、オンラインだからこそできる内容を目指した当館初企画です。第1回目は「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」。展示中の甲冑を脱がせながら、裏側をのぞいたり細部に肉迫したりと、植野館長が直接カメラで撮影をしながら解説します。付録の「立花宗茂の甲冑大解剖解説冊子」(B6版16頁オールカラー)も充実しているので、例えば徳川家康とか、他の武将の当世具足を鑑賞するときにも必ずお役に立つことでしょう。

オンラインツアー「立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ~すべて魅せます!表も裏も細部まで~」(2023.6.2開催)では、「鉄皺革包月輪文最上胴具足」の内側や細部を植野館長が直接カメラで撮影しながら解説。付録ブックレット(B6版フルカラー 24頁)も大充実。他の武将の当世具足を鑑賞するときにも必携の書となるはずです。

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