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〚館長が語る1〛近世大名立花氏の誕生と戸次道雪

2024/4/3

福岡県では、旧柳川藩の城下町であった柳川市をはじめゆかりの市町村とも手を結び、戦国時代の終わりに北部九州で活躍し、初代柳川藩主となる立花宗茂と、その妻であり女城主であった誾千代の物語をNHK大河ドラマとして取り上げていただくための招致活動を行っています。


まずは、皆さまに親しみを抱いていただけるよう、「立花宗茂と誾千代」の物語を6回に分けてお話していきます。



今回は、プロローグとして近世大名立花家誕生までのお話。



戸次道雪[1513~1585]

柳川藩主立花家は、戸次 ベッキ 鑑連 アキツラ 、改め道雪 ドウセツ を初代としています。
ネット上や、歴史本では「立花道雪」と書かれていることが多い戦国武将ですが、史実では生涯戸次姓のまま立花城主の座にあった人物です。






立花宗茂[1567~1642]

道雪は立花姓の使用を主の大友宗麟から許されなかったのですが、道雪の養子となった統虎 ムネトラ (後の宗茂)が、天正10(1582)年、「立花」姓を継ぐことになったのです。









さて、そもそも「立花」姓は、遡る事252年の南北朝時代、立花山に城を築いた城主が名乗ることから始まります。



その人物は豊後の有力守護大名となる大友家の一族、大友貞載 サダトシ で、立花貞載となります。これを、道雪以降の立花家と区別して、前期立花家と呼びます。



近世大名立花家のルーツは、豊後の守護大名大友家に深く関わっています
「立花家」について、より深く知りたい方にオススメ‼

◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー






立花城主であった前期立花家は、7代立花鑑載 アキトシ のとき、大友家に謀反をおこし、敗死します。代わって立花城主となったのが、戸次道雪でした。



誾千代[1569~1602]

道雪には男子がなかったため、一人娘誾千代 ギンチヨ が7歳の時に、城主の座を譲られました。










ここに戦国史上稀な女城主誕生となったわけですが、誾千代が13歳のときに、同じ大友家家臣の高橋紹運 ジョウウン の長男統虎15歳を婿養子に迎えました。


高橋紹運 [1548~1586]

紹運が長男を養子に出すということはそれだけ重い決意があったはずで、衰退する主家大友家を最後まで支え続けた戸次家と高橋家が堅い同盟を結ぶという意義が示された婚姻であったといえるでしょう。








九州の戦国期に勇将として名高い二人の武将、紹運と道雪、二人の薫陶を受けて成長した立花宗茂は頭角を表すことになります。





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。







文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

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シン・立花伯爵邸西洋館煙突

2024/3/24

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。(前回は先にレリーフ復原の話をしました。)





平成18年(2006)の春、立花伯爵邸の煙突は全解体され、この世界に存在しなくなりました。



西洋館1階食堂から見ると、こんな感じ。



しかし、解体された個々のレンガには番号が付され、丁寧にモルタル(セメント+砂+水) がはがされた後、また記録の通りに積み直して、「立花伯爵邸西洋館煙突」は再構築されるはずでした。

ですが、積み直すにあたっては「耐震補強」が必須であり、ただ元に戻すだけとはいかなかったのです。


「耐震補強」とは、 建造物の強度や靱性を改善して、耐震性能を向上させること。世界でも有数の地震多発地帯にある日本では、耐震・制震(制振)・免震の三対策がとられていますが、すでに建っている文化財建造物ではもっぱら「耐震補強」が選択されます。



明治43年(1910)に建築された立花伯爵邸西洋館は木造ですが、耐火でなければならない煙突部分のみレンガ造です。

木造の建築が一般的であった日本では、 洋風建築の技術とともにレンガ造がもたらされ、明治時代の耐火建築物に盛んに用いられるようになりました。しかしながら大正12年(1923)の関東大震災を境に、耐火建築物の主流は施工の簡単な鉄筋コンクリート造へと変わっていきます。



明治・大正期(1868~1926)につくられたレンガ造の建造物は、ほとんどは現在にいたるまでに淘汰され、かろうじて残ったとしても耐震性への不安から解体される例も少なくありません。

例えば、ご近所のレンガ塀、おそらく明治34年(1901)頃の柳河高等女学校の南塀は、スペースやコストの制限等により耐震補強を施す術がなく、年々崩落の危険性が高まるため、保存を諦めるしかなかったそうです。

2022年12月時点のGoogleストリートビュー

2023年10月時点のGoogleストリートビュー

ちなみに、百武 秀「福岡地方の古い赤れんがの化学成分:第2報」『福岡大学工学集報』77号 2006 福岡大学研究推進部 ) によると、柳河高等女学校南塀のレンガと、立花伯爵邸西洋館煙突・立花伯爵邸正門東塀のレンガは、寸法が同じ(230㎜×110㎜×60㎜)であり、柳川周辺で同じ粘土を使って焼かれた”同期の煉瓦”だと見られています。



レンガやコンクリートなどの工業製品を用いた近現代建造物の保存・修理には、日本で長年培われてきた木造建築の保存・修理の手法が活かせず、建造物ごとに新たな課題に直面します。

近現代建造物は,煉瓦,石,鉄,コンクリートといった材料を用い,一体的な躯体を形づくるところに特徴がある。それゆえ,木造のように部分的に解体して,傷んだ部材を補修した後,再び組み立てることは難しく,解体を伴う修理や改修は,文化財の価値を保持する上で必ずしも適当とはいえない。例えば,煉瓦造やコンクリート造の建造物を解体して,分解した材料を再利用しても,材料自体は残るが,建設当初の工法の一部は損なわれる。また,継続的に供用されている近現代建造物は,一般的には設備機器の更新が定期的に行われ,その際には機械の搬入や据付けのための改修を伴う。そうした設備の更新や,それに伴う改修を計画するに当たり,その時点での工事内容を検討するだけでなく,建設当初の記録などを基に現状と比較し,更には将来の改修の可能性も含めて,長期的かつ全体的に計画することが重要である。そのほか,建設材料には工業製品が用いられるようになっているが,その更新に同一の材料や製品を確保することが難しく,類似の新しい工業製品を使わざるを得ないといった課題も見られる。

PDF「近現代建造物の保存と活用の在り方」文化庁HP近現代建造物の保存と活用の在り方(報告)」平成30年(2018)7月より)



「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の当時、レンガ造の文化財建造物の修理事例はまだ些少で、レンガ造の煙突に耐震補強を施した前例は全くありませんでした。

暖炉の機能を残すためには、中を空洞にしなければなりません。外側から補強すれば、煙突の意匠が損なわれます。可能な限り元のレンガを用いるという条件も外せません……難易度がハードすぎるんですけど?
わたしが担当者だったら、早々に暖炉の機能を諦めたかもしれません。



修理工事の補助金を交付する 国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ね、耐震補強の工法が検討されました。「文化財建造物の内部に火は不要ではないか?」と問われたこともあったそうです。

そのなかで、設計・監理を担う河上先生は、難しい要求を淡々と受けとめ、傍からは愉快そうに見えるほど前向きに取り組まれて、下の図面に到達しました。

修理工事後

修理工事前

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花

「耐震補強」は安全のために必要不可欠でしたが、内部構造のビフォーアフターを見ると、 現在の立花伯爵邸西洋館の煙突は、明治43年(1910)当時の煙突と同一であるとは、厳密には言えないかもしれません。

いうなれば、シン・立花伯爵邸西洋館煙突でしょうか。



それはともかく、この「耐震補強」の効果は地震時にしか発揮されないので、今でも正解は分かりません。できれば正解は分かりたくありませんが、分からないが故に迷いも生じます。

それでも文化財というバトンを預かり、次世代へと継承していくために、その時々の最善を探りながら、保存と活用をうまく両立していかねばなりません。

そして、この道の先にゴールは存在しないのです。

文化財は,有形・無形の多種多様な文化的所産からなり,取扱いに細心の注意が必要な文化財が存在する一方で,社会の中で適切に活用されることで継承が図られる文化財も存在する。文化財は一度壊れてしまえば永遠に失われてしまうため,それぞれの文化財の種類・性質についての正しい認識の下に,適切な取扱いがなされることが必要である。
また,保存と活用は互いに効果を及ぼし合いながら,文化財の継承につなげるべきもので,単純な二項対立ではない。保存に悪影響を及ぼすような活用があってはならない一方で,適切な活用により文化財の大切さを多くの人々にえ,理解を促進していくことが不可欠であるなど,文化財の保存と活用は共に,次世代への継承という目的を達成するために必要なものである

PDF「文化財保護法に基づく保存活用計画の策定等に関する指針(最終変更 令和5年3月)」 文化庁



文化財の保存と活用も、諦めたらそこで終了です。

諦められることなく「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)で取り戻されたシン・立花伯爵邸西洋館煙突
知る人ぞ知る劇場版的エピソードを、下記の4話をかけて、やっとお披露目できました。

■ 一気読み! 立花伯爵邸西洋館煙突修理!■
1話 劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney
2話 解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」
3話 失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》
4話 シン・立花伯爵邸西洋館煙突


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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失われたレリーフ《立花伯爵邸西洋館煙突》

2024/3/3

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震で破損した立花伯爵邸西洋館煙突。
12月から「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3) が始まり、レンガ造の煙突は解体されて個々のレンガとなりました。あとは積み直されるのを待つだけです。






レンガの積み直しの話はちょっと先送りして、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)の終了後まで跳んでみましょう!



修理工事のビフォーアフターをご覧ください。

煙突が全解体されたとは信じられないくらい、変りがありません。


……あれ気付いちゃいましたか? 煙突のレリーフに。


修理のついでに、いい感じにデコっておきました……という訳ではなく、明治43年(1910)の建築当初の姿に復原したのです。



このように、大正年間(1920年代頃)の撮影だと推測される写真では、煙突にお洒落なレリーフがあることが確かめられます。

おそらく大正年間に撮影された「立花伯爵邸西洋館」南面 

煙突がある立花伯爵邸西洋館の南側は、「大広間」との間の中庭からしか見られないので、わずかな写真しか残されていません。現時点でレリーフが確認できる写真は、この1枚だけです。



そして、いつしかレリーフは失われてしまいました。

昭和61~62年(1986~87)に西洋館の大がかりな修理をした際には、古写真や図面の詳細な調査はなされず、そのままペンキが塗り直されただけでした。

昭和62年(1987)4月

その18年後の平成17年(2005)3月20日に福岡西方沖地震が発生。

平成17年(2005)3月20日 地震直後の「立花伯爵邸西洋館」南面

地震のはるか以前からレリーフは失われていましたが、文化財建造物として健全な状態に回復させるためには、できるかぎり建築当初の姿に復原しなければなりません。

しかし、個人の勝手な判断で、いい感じにデコることも許されません。



有明工業高等専門学校建築科助教授(当時)・松岡氏と河上信行建築事務所(当時)・河上氏が中心となって、立花家に未整理のまま残っていた図面や古写真が丹念に調査されました。煙突が写っている唯一の古写真も、このとき発見されています。

この調査の結果をもとに、柳川市と福岡県と文化庁とも協議を重ねて、煙突のレリーフが復原されたのです。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花 147頁より


デザインが決定したら、あとは漆喰を用いてレリーフを仕上げます。



はい!できました!

平成19年(2007)3月

しかし、「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)のビフォーアフターの違いは、 レリーフだけではありません。


その違いの話は複雑で、とても長くなるので、次にします。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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解体レジデンス「立花伯爵邸西洋館煙突」

2024/2/28

前回のあらすじ
平成17年(2005)3月20日に発生した福岡西方沖地震により、立花伯爵邸西洋館煙突は大きく破損しました。
4月13日に、鉄製の「煙抜き」を地上に降ろすという応急処置がなされ、4月27日に、構造・デザイン・機能を取り戻すため、煙突は解体修理とする方針が決まりました。




諸々の準備を重ねて7カ月後、とうとう災害復旧を目的とする国庫補助事業「名勝松濤園内御居間他修理工事」(2005.12~2007.3)が、 河上信行建築事務所の設計監理、株式会社 田中建設の施工ではじまりました。

工事の現場代理人は、田中さん。
この工事が終わってから現在までずっと、立花伯爵邸の建物をとても気にかけてくださっています。



西洋館煙突は、応急処置が終わった状態がそのまま維持されていました。



「解体修理」とは、建造物を解体して各部材の補修を行い、 建造物を健全な状態に回復させる修理のこと。つまり、 全ての部材を解体して組み直すのです。

「解体修理」とは、こういうことです。


このスライドショーは、平成18年(2006)1月上旬から3月下旬までの72日間の解体作業にて、煙突のレンガを上から一段ずつ解体して撮影した現場写真を、約2分間に凝縮しています。



文化財建造物の価値を損ねないために選択される「解体修理」では、できる限り元の部材を修理して再利用するので、破壊しないように、石ノミで丁寧にレンガを外していきます。


外されたレンガは、一つ一つモルタル(セメント+砂+水)を剥がして、再利用のために保管されます。「解体よりも、レンガをキレイにする作業の方が、すごく時間がかかってツラかったですもんね」というのが、田中さんの感想です。



また、元の通りに組み直すため、レンガが積まれていた状況を記録しなければなりません。一段ごとに写真やスケッチで残された情報は、このように図面としてまとめられ、国庫補助事業の義務として作成した報告書にも掲載されています。
※図面の段数は、上のスライドとは逆の、最下段からの番号です。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007 (株)御花


そして、この図面の作成は、地震による破損状況も詳らかにしてくれました。

 煙突の破損がもっとも大きいのは軒蛇腹位置(桁位置)であった。一般に煙突など屋根から突出したものが震動を受けた場合、ホイッピング現象(むちうち現象)とよばれる現象が生じ、建物本体より大きく揺れる。当西洋館の場合、頂部が重く(3.6t)、煉瓦積みの煙突が建物の端にあって偏心しているため、接合部に応力集中が生じ、軒蛇腹付近が破断したと考える。また煙突が建物本体に挿入しているために、この部分の建物軸部は、壁や胴差しがなく、土台と桁だけでもっており、建物本体の中でも応力集中が生じ、大きく変形した可能性がある。そのような状況の中、2階床梁、1階大曳からの水平力も煙突に影響し、1、2階の床付近にクラックが生じたと推測する。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』2007.3月 (株)御花  47頁



わたしは報告書を読んで後日談として知っただけですが、当時の担当者たちの苦労を想像してふるえてしまいました。

無尽蔵ではない予算の範囲で “暖炉に火が入っている光景”を何とか残せないかと、補助金を交付する国・福岡県・柳川市と何度も協議を重ねた末に「解体修理」が実現できた過程を、ただ中にいた当館館長から聞いた後に見ると、この写真の得難さが身に沁みます。

立花伯爵邸2階 暖炉



解体が完了し、あとは外したレンガを積み直すだけ……とはいきませんでした。
「劇場版 立花伯爵邸西洋館 CODE:White Chimney」は、まだまだ終われないのです。





【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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〇〇藤四郎じゃない【国宝】短刀 銘吉光(立花家史料館蔵)

2024/2/13

当館が所蔵する「短刀 銘吉光」は、国宝に指定されています。




吉光は、鎌倉時代中期に京都粟田口(現在の京都市東山区)で作刀していた刀鍛冶の名前です。江戸時代には正宗、郷義弘とあわせて「天下三作」と評価され、短刀の名手として知られています。


この吉光が作刀した刀のうち、現在(2024年2月)国宝に指定されているのは、 短刀3口と剣1口。当館所蔵の短刀をのぞいて、みな “あだ名” をもっています。

「厚藤四郎」に「後藤藤四郎」に「白山吉光」……いいなぁ……



ちなみに、「厚藤四郎」(東京国立博物館蔵)と「後藤藤四郎」(徳川美術館蔵)の “あだ名” は、徳川幕府8代将軍・吉宗の命で編纂された『享保名物帳』により定着した名物としての号です。
また、「剣 銘吉光」(白山比咩神社蔵)は、江戸時代の記録にて「白山吉光」と称されていることが確認できます。




立花家伝来の「短刀 銘吉光」 にも、 “あだ名” があったらいいのになぁ……

うちのコも、 現存する吉光作の短刀のなかでも傑作と評価され、国宝に指定された名刀なのに……
制作当初の姿のまま伝世してきた、ピチピチのカワイコちゃんなのに……

と、ずっと残念に思ってきました。

いっそ「立花藤四郎」(仮)とか “あだ名”をつけちゃおうかしら?と、浅はかにも考えたこともあります。



しかし今回、 オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史」解説ブックレットで「短刀 銘吉光」について執筆するにあたり、改めて史料を見直しているうちに、目が覚めました。
立花家が所持しているから “あだ名” を「立花藤四郎」(仮)にしちゃえという考えは、全くの心得違いだったのです。



「短刀 銘吉光」について、立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、次のように記されています。

(前略)同九年[註:天正九年(1581)]辛巳 宗麟之命ニ因テ立花親善之嗣ト為リ立花ヲ以テ氏ト為三器之譲ヲ受ク。所謂三器ハ其一ハ軍旗。頼朝公自ラ八幡大菩薩ノ五字ヲ於軍旗ニ書テ之ヲ大友能直ニ賜フ。其二ハ軍扇。建武四年正月十日大友貞載結城親光ヲ楊梅東洞院ニ斬ル。首ヲ軍扇ニ載将軍尊氏之覧ニ具フ。之ヲ血付ノ扇ト謂フ。其三ハ短刀。貞載親光ヲ斬ル之功ニ因テ尊氏粟田口吉光短刀ヲ貞載ニ賜フ。(後略)

簡単に解説すると、

初代柳川藩主・立花宗茂の先代となる戸次道雪が、大友宗麟からの主命により、立花氏の名跡とともに「粟田口吉光短刀」をふくむ「三器」を譲り受けた

と記されています。



当時、前期立花氏7代・鑑載が大友家に謀反して撃退され、立花氏は断絶していました。なお、この翌年の天正10年(1582)11月18日に立花城にて「御旗御名字」の御祝がなされ、この時をもって宗茂が名字を戸次から立花に改めたと考えられます。 

つまり、「軍旗」「軍扇」「粟田口短刀吉光」の「三器」を所持するが故に、「立花」を名乗ることが許されているのです。

この「三器」を理解していただくには、 前期立花家のこと、戸次道雪を初代とする近世大名立花家のこと、立花家のルーツであり主家でもある大友家のことを説明しなければなりません。
話は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の時代にまでさかのぼり、途中で室町幕府初代将軍・足利尊氏もからんでくるので、とても複雑になってきます。



そこで朗報です!!

2月17日(土)に開催されるオンラインツアーでは、この複雑極まりない説明のすべてが、わかりやすく丁寧にひもとかれます。【終了しました】

当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に関心がある方にも、是非聞いていただきたいところです。

締切は明日2月15日(木)、定員になる前に!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。






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当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないのは、立花家から外に出なかったので、 “あだ名” が付けられる機会がなかったということの証です。

わたしは今、「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないことを誇りに思っています。


【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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「立花道雪」の名前で出ています

2024/2/10

立花家史料館では、近世大名・立花家に伝来した美術工芸品を展示しています。

では、近世大名家・立花家とは?

この説明が、ものすごく複雑です。

まず、「近世大名・立花家の初代は、戸次道雪 ベッキドウセツ です」と説明をはじめるのですが、その時点で「立花家の初代なのに、戸次?」となります。
とくに、ゲーム等で「立花道雪」の名前をすでにご存知の場合、「戸次道雪」の名前に困惑されることがよくあります。

戸次道雪[1513~1585]

戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。
子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪 ドウセツです。
豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。

道雪が雷を切ったとされる刀が「雷切丸」の名で立花家史料館に伝来しています。



わたしたち学芸員も、この説明に時間をとられて、なかなか立花宗茂や誾千代の話にまでたどりつけないことを、大変もどかしく思っていました。

そこで朗報です!!

どうしても話が複雑になる立花家初代のことや、「立花道雪」の名前で知られている「戸次道雪」のことを、立花家のルーツである大友家にからめて丁寧に解説するオンラインツアーが開催されます。【終了しました】

解説ブックレットのチラ見せ





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当館館長のツイートのとおり、理解すると、この複雑さがクセになります。

空前絶後の機会ですので、ご興味をもたれた方は是非!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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柳川藩主立花家に伝来した刀「雷切丸」

2024/1/30

脇指 無銘「雷切丸」は、その名のとおり戸次道雪が雷を切った刀として、柳川藩主立花家に伝来しました。

脇指 無銘 雷切丸 鎌倉時代~室町時代 刃長58.5㎝ 立花家史料館所蔵



まずは、戸次道雪[1513~1585] ってどんな人?

戸次 ベッキ 道雪ドウセツ は、戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪です。

豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。


江戸時代を通じて柳川藩11万石を治めた近世大名立花家の初代として数えられています。




「雷切丸」の由来について、立花家に残る文書のなかで、現時点で確認できる最古の記録は、明和4年(1767)10月にまとめられた「御腰物由来覚」です。

この「御腰物由来覚」は、立花家で代々大切に受け継がれてきた刀の由来を、今までのような口伝えでなく、きちんとした記録として残そうと、担当係(御腰物方)で相談し、寛永年間(1624~44)から当時までの所蔵刀剣について吟味の上、作成されました。

この 「御腰物由来覚」の 翻刻 が、『柳川の美術Ⅱ』に掲載されているので、「雷切丸」の項を全文引用してみます。

柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』(柳川市 2007.3.22発行、2020.3.31第二刷)409頁掲載の翻刻を引用。ただし読みやすいように、異体字、合字、変体仮名を通用の文字に改めています。

柳川市史関連図書はコチラで購入できます






「御腰物由来覚」の 「雷切丸」の項を読んでみましょう。

一 雷切丸 無銘 壱尺六寸七分半 御脇差

右は道雪様御差也、雷切と申訳は、鑑連公未豊後国南郡藤北之御館に被成御坐候節、炎天之比 大木之下に御涼所御しつらい、此所へ或時 被遊御昼寝候節 雷落けり、御枕元へ御立て被置候千鳥とゆふ御太刀を被遊御祓合セ、雷を御切被成、早速御涼所を御立退被成候、夫より以来御足御痛被成、御出陣にも御乗輿ニて被遊御出候、然とも御勇力御勝レ被成たるゆへ、常躰之者之達者より御丈夫ニ被成御坐候、且又比御太刀最初は千鳥と御附被成候得ども、雷御斬被成候以後其印御太刀有之故、夫より此御太刀雷切と御改名被成候、

この刀は道雪様の所用刀である。雷切という名の由来は次のとおり。
鑑連公がまだ豊後国藤北館(現在の豊後大野市)にいたとき、炎天のころ大木の下に涼所を設けていた。

あるとき、そこで昼寝をしていたら、突然の落雷。枕元の刀を抜いて雷を切り、すばやく涼所から立ち退いた。

それ以来、足が痛み、出陣に輿を使用するほどであったが、勇力に勝れていたので、並の武者よりも活躍した。最初「千鳥」と付けられていた太刀は、雷を斬った印があるため、「雷切」と改名された。

ここまでが、道雪が雷を切った場面です。

このくだりは、「御腰物由来覚」から100年程さかのぼった、寛永12年(1635)の自序がある『大友興廃記』にも描かれています。

戸次鑑連いまた南郡藤北に居住のとき、炎天のころ、大木の下にすゝみ所をこしらへ、ひるねして有りし、おりから雷鳴落、まくらもとにたてをきたる千鳥といふ太刀を抜あわせ、雷をきりてすゝみ所をとひさりぬ、それより以来足かたハにして、出陣も輿ならてハ不叶されとも、勇力のすくれたるに依て、常の者達者成にハまされり、扨千鳥と云太刀雷にあたりたるしるしあり、それより此太刀を雷斬と号せられたり
『大友興廃記』巻六「鑑連雷を斬事』

大友氏の興亡を大友義鎮、義統の2代を中心に描いた軍記『大友興廃記』の作者は、豊後国佐伯の領主に仕えた杉谷宗重とみられています。昭和初期にはじめて活字化されるまでは、写本で存在が知られていました。

「御腰物由来覚」と共通する表現が多いので関連はありそうですが、現時点では何とも言えません。ただ、江戸時代初期には、道雪が雷を切った刀のことは、知る人ぞ知る話であったようです。



「御腰物由来覚」の「雷切丸」の項はまだ続きます。

好雪様御代大膳様へ被進之候、然処 大膳様御逝去被成候節、御道具皆御払に相成よし、此□此御太刀も御払相成可申之処、矢嶋石見殿御聞付被成、此太刀者払抔へ差出候物ニて無之、大切之御重宝ニて有之候間、御取被成候由、夫より矢島采女家ニ持伝居申候処、 鑑通公御代宝暦九年卯之 御発駕前、矢嶋周防進上之、但白鞘ニて差上ル、三原之由承伝之処、同年六月御拭之節、本阿弥熊次郎へ見セ申候処、相州物之由申候、宝暦十辰十二月右雷切差上候為代リ大和守安定御小サ刀被下之、但白鞘、
 雷御切被成候年号不相知、追て吟味之上書載之事

その後この刀は、初代藩主・宗茂から2代藩主・忠茂へと渡り、さらに忠茂から息子の大膳(茂辰、吉弘氏を名乗るが20代で早世)へと渡る。

大膳の没後、この刀も遺品分与の対象となっていたが、弟の矢嶋石見(行和/立花茂堅)が聞いて、この刀は分与するものでなく「大切の御重宝」であるとして、矢嶋家にて伝えることにした。

7代藩主・ 鑑通の代になり、宝暦9年(1759) に江戸へ出立する前、矢嶋周防がこの刀を白鞘におさめて鑑通へと進上した。それまで三原の刀だといわれていたが、同年6月に刀剣鑑定を家業とする本阿弥家の一門の熊次郎が、相模国(現在の神奈川県)の刀工の作と判断した。

宝暦10年(1760)12月に、この雷切の代替として、白鞘におさめた大和守安定の小サ刀(脇指)が矢嶋家へと下賜された。

雷を切った年号は現時点ではわからないので、あとで調べて書くことにする。


結局、追記はなく、雷を切った年号は不明なまま「雷切丸」の項は終わります。

しかし、時代は下がりますが、天保年間(1830~44)頃に立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、戸次道雪の重要な経歴が書き上げられているなかに、

天文十六年丁未六月五日 雷斬ル 時年三十五歳

と記されています。
西暦に換算すると1547年6月22日……この年月日の根拠は全くわかりませんが、雷を切ったことが特筆すべき業績とされているのが、非常に興味深いです。



実は、道雪の40代以前の経歴はあまり分かっていません。
道雪は天文19年(1550)に戸次家の家督を甥の鎮連に譲りますが、この頃から政治・軍事的な活動が本格化していきます。一人娘の誾千代が生まれたのは、永禄12年(1569)56歳の時です。
現時点では、道雪の足が不自由であったかどうかも、一次資料では確認できていないのです。


また、「雷切丸」の刀身が短くされ、太刀から脇差となった経緯もよく分かっていません。本阿弥家により「相州物」と鑑定されていますが、大磨上無銘となる現状の刀身からは、相州伝と確定するのは困難です。



ただ確実なのは、道雪が雷を切った刀として「雷切丸」が立花家の血筋に伝えられて来たこと、当館で雷切丸を展示できるのは矢嶋家のオカゲだということです。

そして今、「雷切丸」は私たちも驚くほどの知名度を誇り、多くの方々に愛されています。

矢嶋さん、本当にありがとう。



「雷切丸」や「短刀 銘吉光」【国宝】、「大友家文書」【重要文化財】や「立花家文書」【重要文化財】のことを解説するオンラインツアーを開催します。
道雪のことをもっと詳しく知りたい方にも、おススメです。【終了しました】






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【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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河上信行氏と国指定名勝「立花氏庭園」

2024/1/11

わたしのブログ初投稿から、ちょうど1年が経過しました。


当初は、美術工芸品を専門とする学芸員として、当館所蔵品を次々と紹介しようと考えていましたが、ふりかえると、自分勝手に【立花伯爵邸たてもの内緒話】と銘打った、 国指定名勝「立花氏庭園」内の建物の話がメインとなってしまっています。

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。



専門外のわたしが、なんとか建物を解説できているのは、修復工事などの庶務を担当するなかで、河上先生から薫陶を賜ってきたからです。



河上信行氏[株式会社河上建築事務所 所長] は、平成17年(2005)3月に発生した福岡県西方沖地震による災害復旧工事の設計監理を皮切りに、国指定名勝「立花氏庭園」内の文化財建造物と真摯に向きあい続けてくださいました。
本当に、令和3年(2021)1月11日に他界されるまで、ずっと。


河上先生による徹底的な調査と、それを基とした設計図面の作成をもって、平成28年度(2016)に「名勝立花氏庭園大広間・家政局修理工事」がはじまります。

しかし、その着工直前の平成28年(2016) 4月に熊本地震が発生。

予定を変更することなく修理工事を進める一方で、熊本地震で受けた被害状況の調査から修理まで請け負ってくださいました。本当に心強かったです。



床下から天井裏まで、「立花氏庭園」の文化財建造物のなかで、河上先生が知らない柱は1本もないといっても過言ではありません。


庶務をつとめはじめた頃のわたしは、「縦の棒が柱で、横の棒が梁」レベルの知識しかなく、専門用語の多い早口な河上先生のお話を、2割くらいしか理解できない不甲斐なさでした。

そのわたしが今、多少なりとも建築について書けているのは、未熟者を見捨てず、慌ただしい現場でトンチンカンな質問してもご教示くださった河上先生のオカゲであり、先生が残してくださった2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』 のオカゲです。



令和2年(2020)3月に、河上建築事務所 編集『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』が無事に発行された後、河上先生は、お手元に蓄積されていた「立花氏庭園」関連のすべての膨大なデータ、 調査で撮影した写真や自身が作成した図面、工事関連の事務書類などを、丁寧に整理してまとめた上で、譲り渡してくださいました。

「自由に使ってください」
「え~いいんですか?大変大変ありがたいです。有難うございます。じゃあ、必ず先生の名前を出しますね」
「いりません、名前なんか出さなくて結構です」

というやりとりの末、とても心苦しいのですが、河上先生のこだわりの美意識を尊重しています。
逐一明記はしてきませんでしたが、図面はもちろん、写真についても河上先生の助けを大いにお借りすることで、 【立花伯爵邸たてもの内緒話】 は成立できているのです。



河上先生に頼りきりながら 【立花伯爵邸たてもの内緒話】を書き続けている根源には、河上先生の言葉があります。

「立花家が苦労して維持してきた御花は、柳川の個性であり、歴史です。ここまで残されてきたのは、立花家のみならず柳川の人々が愛情を持っていたからだといえます。心の拠り所にしてきたからこそ、子孫のために残したいと思う。文化財はその地域の人々に愛されてこそ守られていくのです」

建築への興味が薄かったわたしが、建築の知識や修復工事の苦労話など、知れば知るほど立花伯爵邸への愛情を増やしてきたように、ブログを読んだ方が「立花氏庭園」に関心を抱き、もっと知りたい、実際に行ってみたいと思ってもらえれば、とても嬉しいです。



『OHANA Story』2006年夏号 (株)御花作成 より

「歴史の蓄積を感じさせる、品格のある建物」

・江戸時代からの流れを継ぐ大名屋敷でありながら、内部には明治期以降の近代和風建築技術が随所に見られ、そのバランスこそが正統な品格を醸し出している。

・文化財的価値として特筆すべきは、接客空間である西洋館と大広間だけでなく、立花家家族たちの寝室であった小部屋棟、事務方が使っていた御役間という内向きの建物が残っていること。明治期の大名屋敷が、機能別に残っているのは稀。

河上先生による立花伯爵邸の評価



河上先生の理念は、常に一貫していました。

「文化財の宿命的な課題が、保存と活用です。こと、建物に限っていうと、活用されてこそ後世に受け継がれていくのではないでしょうか。」



河上先生から託されたバトンを、次へと渡していけるよう精一杯がんばります。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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上げ下げ窓を上げ下げする機構

2024/1/8

前回にて繰り返しご覧いただいたように、明治43年(1910)築の立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、とても軽やかに上げ下げできます。




立花伯爵邸西洋館の窓はどれも大きいのですが、その大きさに見合った重さを予想しながら窓を開けると、肩透かしを食らいます。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』より



どうしてこんなに軽いのでしょうか? タネやシカケはどこに?

わたしには何の変哲もない木造の窓枠しか見えません。



株式会社 御花は、平成25年から27年(2013~15)の3ヵ年にわたり、外壁のペンキの塗り替えを主とする、西洋館のメンテナンス工事を実施しました。災害復旧にくらべると急を要しないため、閑散期である夏季に集中して施工されました。



外壁だけでなく、窓の状態もかなり悪化していたので、西洋館のすべての窓を取り外して、点検・修理をしていきます。

メンテナンス工事前 左下隅のガラスが抜けています

窓を取り外している現場では、予期せぬ”力技”に驚きました。

※5倍速



作業のお邪魔にならないよう注意して、もう少し近寄ってみます。
(手ブレがひどく、ピントがズレている点はご容赦ください)

※音声注意

あらこんなところに、紐と錘と……滑車?



タネとシカケがここに‼



立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、「分銅式」の錘 オモリ を用いた機構により、上下の窓がどちらも自在に動かせる「両上げ下げ窓」です。
窓と同じ重さの分銅がバランスをとることで、小さな力での開閉や、開閉状態の固定が可能になっています。窓枠に仕組まれた分銅は、窓枠上部に取り付けられた滑車を介して、窓の両側とロープで繋がり、窓が分銅で吊るされたような形になっているのです。エレベーターと同様の仕組でもあります。

実際、メンテナンス工事の際に錘を量ると、およそ4.5kgほどでした。つまり、窓1枚の重さは4.5×2=9kgとなります。

ちなみに「上げ下げ窓」は、「引き窓」と比べると、戸車がないため気密性が高まる一方、上下に開口部をつくれるため換気効率も上がります。構造上外から開けにくいため、防犯面も安心です。



立花伯爵邸西洋館の各窓枠には、上下2枚の窓と、ロープでつながる4つの分銅が収まっていますが、100年が経過するなかで、木製建具がゆがんだり、ロープが切れたり、滑車が回らなくなったり、分銅が腐食したりと、様々な不具合が生じていました。

メンテナンス工事では明らかな不具合は修理しましたが、建築当初の素材や機構をできる限り後世に伝えたいと、切れずに残っていたロープや分銅など、経年劣化が明らかな部品でも、なるべく現役で頑張ってもらっています。

ですので、

100歳を超えた木造建築に斟酌していただき、通常のご見学時には、窓の開閉はご遠慮ください。



その代わり、いつでもこちらで、宗茂さんと誾千代さんが上げ下げ窓を上げ下げしている様子を御覧いただけます。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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上げ下げ窓を上げ下げする

2024/1/2

2024年、令和六年 甲辰歳がはじまりました。



新年

あけましておめでとうございます。

※ぜひ音声付でご覧ください





このブログのため、柳川藩初代藩主・立花宗茂【立花家史料館公式キャラクター】に、明治43年(1910)に建てられた立花伯爵邸西洋館の窓を、開け閉めしてもらいました。




せっかくですので、宗茂の正室・誾千代姫 【立花家史料館公式キャラクター】 も。



お分かりいただけましたでしょうか?

宗茂さんも誾千代さんも、とても軽やかに窓を上げ下げしています。

*通常のご見学の際は、建物に手を触れないようお願いしていますので、特別な許可を得て、御二人に代行してもらいました*



ご覧のように、力を全く込めずとも、窓はスッと上がります。
閉めているときのギギギ音は、110歳を超える木造建築の音で、窓の重さには由来しません。

立花伯爵邸西洋館の窓はすべて「上げ下げ窓」、なかでも上下両方の窓が動かせる「両上げ下げ窓」です。文字通り、窓を上下にスライドさせて開閉します。

実は、軽やかに上げ下げさせる機構が、窓枠内部に仕込まれているのですが、それはまた別のおはなしで。




手を放しても、自然と上がっていく軽やかさを、もう一度ご覧ください。

この立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓のように、
本年が、軽やかで苦労がない一年となりますように。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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