なぜ、立花宗茂の甲冑の袖が、小野家で伝えられてきたのでしょうか?
我らが大先輩、渡辺村男さん⇒は、このように書いています。
※あとで解説しますので、読み飛ばしてかまいません。
臨場感あふれる描写を、わたしだけが楽しむのは勿体ないので長めに引用しました。
表記は原文のままですが、漢字の旧字体だけは新字体に変換しています 。
小野成幸 小伝
(前略)碧蹄館の役先鋒隊長の一人たり。午前の戦争中勇猛を振ひ敵を斬る事多し。時に 成幸 両袖あれば敵を斬るに邪魔となるを以て、之を切り捨てゝ奮戦せり。
宗茂 休息中 成幸 を招き 其奮闘抜群を賞す。且つ曰 鎧の袖なきは甚だ見苦しき也。故に軽き袖を与るを以て之を著けよ。又敵将の持ちたる団扇を与へて曰、之を以て部下を指揮せよと。成幸感泣して曰 之を以て功を建て其恩に報せんと。
正午の激戦 成幸 金甲の先鋒隊を率ゐ敵の本陣に突貫す。時に宗茂の隊は常に中堅を砕き直進し、其左右と後方とは浮田[引用註:宇喜多]小早川等の軍に委ね咸な殊死驀進す。其状恰も疾風の秋葉を払ふが如し。狼狽せる敵中一将あり、成幸 馬を躍らして之に薄る、遂に重囲に陥り戦死す。
其後 其子孫 唐団扇を以て家紋となし、又宗茂より賜ひし鎧の両袖は今尚之を保存すと云。(後略)
渡辺村男 『碧蹄館大戦記 』大正11年(1922)民友社 246・247頁
渡辺村男 著『碧蹄館大戦記』,渡辺村男,大正11. (163コマ)
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕
小野成幸は、文禄元年(1592)に宗茂とともに朝鮮に渡った、2千5百もの立花軍の一員でした。翌2年(1593)1月、朝鮮漢城〔現在の韓国ソウル〕北方の碧蹄館における明軍との激戦の中で、成幸は動きの邪魔となった両袖を切り捨てます。
袖とは、両肩につける、鎧の一部品です。
甲冑の袖は、古くは矢を防ぐ盾となるように大型でしたが、火縄銃が主戦力となる16世紀末頃からは、動きやすさが重視されたのか、次第に小型化していきます。成幸も袖は無用だと思ったのかもしれません。
しかし、袖のない成幸を見た宗茂は、見苦しいからと、自分の鎧の軽い袖を与えて、着けさせます。
当時の鎧は、基本的に頭、胴、腕、股、臑を守る部品のデザインをそろえ、一式として着用するものでした。他は自分の鎧のまま、宗茂の袖をつけた成幸は、ちぐはぐに見えたはずです。
それでも成幸にとって、 主君の袖は大きな誉れでありました。それに報いんと先鋒隊を率いて奮戦し、残念ながら戦死を遂げます。
この話の袖こそが、小野家に伝来した 「金白檀塗色々威壺袖」(柳川古文書館所蔵) ではないかと考えられるのです。
なんとドラマティック!!
とても宗茂らしいエピソードだと、わたしは勝手に思っています。
忠義な家臣との絆を感じます。
そして、平和な儀礼の場ではない、厳しい戦いの合間に、袖を邪魔だと言う家臣に、見た目が悪いという理由で袖を与える、宗茂の空気の読めない大らかさがステキです。
刀や鑓ではなく、身に着ける防具をやりとりするなんて……
NHK大河ドラマ「立花宗茂」が実現したら、絶対にこのシーンは見たい!
主君の宗茂から拝領した袖に、 さらに主筋の大友家の家紋「杏葉紋」の金具が付いていたとしたら、成幸や小野家にとって、非常に大きな誉れであったと想像されます。だからこそ、本人の死後に異国の地から持ち帰られ、大切に伝えられてきたのでしょう。
「金白檀塗色々威壺袖」と「杏葉紋」については
コチラを150秒みるだけでOK‼
実際、ともに小野家に伝来した具足の他の部分(柳川古文書館所蔵)と、袖とを見比べても、全くスタイルが異なるため、袖だけを宗茂から拝領した話にも頷けます。さらに、唐団扇紋のついた指物も、具足と同じ櫃に納められて伝来しているのです。
袖のやりとりは本当にあったんだ!
村男さんは嘘つきじゃなかった!
わたしたちは、その場で見ていたかのように描写しながらも、引用元を明かさない村男さんの話を、話半分か四分の一に聞いていたので、2016年秋の”袖の再発見” は、とても嬉しい驚きでした。
喜びのあまり、おむかいの黒田屋菓子舗さんで、特注の袖ケーキまで作ってもらっちゃいました。(とても美味しいケーキだったので2回言いました)
村男さんが調査した100年前は、今では失われてしまった史料も残存していたのでしょうか?
小野家伝来の袖の存在も、宗茂と成幸のやりとりも、当時の柳川ではよく知られていたのかもしれません。
しかしながら、近代から現代にいたる間に、袖の話はいつしか忘れ去られてしまっていたのです。
実は、この袖のやりとりは、江戸時代の武具類の台帳に記録されていました。
逆に言えば、村男さんの著作以外では、武具類の台帳でしか確認できません。
現在確認できる、最も古い記録はこちらです。
武具類の台帳なので、前後のやりとり等は省略され、いたってシンプルです。
一、 御鎧 壱領
立斎様朝鮮御陣中御召 負箱ニ〆外箱入
右者文禄年中於朝鮮御陣中 御袖小野喜八郎江被為拝領候 其後同御陣中ニ而御袖小田部新助進上仕 唯今之御袖ニ御座候
「御道具改御帳」(柳河藩政史料1011-2) 安永7年(1778) 柳川古文書館所蔵
朝鮮御陣中において、御袖を小野喜八郎へ拝領せられる。其の後、同御陣中にて、御袖を小田部新助が進上つかまつる。 唯今の御袖がそれである 。
ノットドラマティックに、袖のやりとりが淡々と記録されています。
小野喜八郎は小野成幸のこと、 小野和泉守鎮幸の従兄弟です。小田部新助は、立花宗茂の姉妹[栄長院殿]の夫となる小田部統房だと考えられます。
どちらも天正10年(1582)頃には戸次道雪の近臣として名前が確認され、宗茂とともに朝鮮に渡りました。
■ 小野成幸
・白石直樹「新市史抄片150 宗茂の養子入りと戸次家家臣」(柳川市HP「広報やながわ」2017.12.1号)※リンクが繋がらない場合はタイトルで検索してください。
■ 小田部統房
・堀本一繁「No.336 戦国時代の博多展8-安楽平城をめぐる攻防」(福岡市博物館HP > アーカイブズ > 企画展示)
・「小田部新介小伝(中略)碧蹄館役常に宗茂の左右に侍り作戦計画に参加せり(中略)新介の子土佐統房亦豪胆にして奇行甚だ多し(後略)」( 渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社)
・小田部統房と立花宗茂の姉妹/高橋紹運の娘との間に生まれた娘[崇安院殿明誉大姉]は、立花宗茂の養女として2代膳所藩主・本多俊次(1595-1664)の正室となる。
あらためて、宗茂の袖を○、小田部の袖を□として図示してみます。
小野成幸 ●←拝領―○ 立花宗茂 ■←進上―□ 小田部統房
●の袖は小野家に伝来した「金白檀塗色々威壺袖」(柳川古文書館所蔵)。
となると、■の袖は立花家に伝来しているはず……
伝来していました。
2010年の調査で、小田部家の家紋がつく大袖が、立花家に伝来してきたことが再発見されました。小野家の袖が再発見される6年前です。
大名道具をあつかう史料館の学芸員にとって一番の醍醐味は、伝来してきたモノ史料と文字史料の相乗効果により、新たな知見が得られることです。
この袖のやりとりは、その最たる例だといえます。
小野家拝領の袖、小田部家進上の袖、わずかな文字史料をあわせると、村男さんのドラマティックさを超える、史実のファンタスティックさが見えてきます。
だからこそ、わたしはこのエピソードを映像化してほしいと願うのです。
で、ドラマティックさを超えるファンタスティックさって、どういうこと?
皆さまの疑問にお答えできるよう鋭意執筆中です。 もう少々お待ちください。
参考文献
渡辺村男『碧蹄館大戦記 』1922 民友社、柳川市史編集委員会 編『柳河藩立花家分限帳(柳川歴史資料集成 第3集)』1998.3.20 柳川市
【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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立花宗茂公の生誕450周年の節目となる2017年より地元柳川を中心に福岡県やゆかりの地など広域の官民団体で構成された招致委員会を発足、宗茂公と妻誾千代姫を主人公とするNHK大河ドラマ招致活動を展開中です。