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〚館長が語る6終〛再封後の宗茂と晩年の活躍

2024/9/1
立花宗茂[1567~1642]

元和6年(1620)、旧領柳川に復活を遂げた宗茂は、10万9千石余の領知を与えられました。










そのため、奥州南郷での家臣に加え、これまで肥後加藤家のもとにいた旧家臣達を呼び寄せたり新規の召し抱えを加えたりし、家格に相応しい体制を整えてゆきます。柳川藩の江戸屋敷の普請や、江戸城の城郭普請への動員、将軍の共をして上洛(京都に上ること)するなど、忙しく過ごすことになります。

また、徳川秀忠、家光の御成(将軍の外出)の供も多く、江戸を離れることがなかなか出来ない状況であったようです。

宗茂自身、家臣に宛てた手紙でも、帰国の御暇を許されないことは譜代並の処遇(それだけ、側近く必要とされている)だと自慢げに記しています。




新しい体制を整えてゆく多忙な日々の中、元和8年(1622)12月27日、実弟直次の四男として生まれ、 直後に宗茂の養子となっていた嫡嗣忠茂が将軍秀忠の御前で元服をします。



寛永6年(1629)、63歳となった宗茂は下屋敷へ転居をし、内々に隠居の準備と忠茂への権限移譲を進めてゆくのですが、将軍からは正式に隠居の許しを得ることはできず、これまで以上に二代将軍秀忠、そして三代将軍家光からも重用され、側近く仕えることになります。

この頃の様子を忠茂に宛てた書状に自ら次のように語っています。

「…つねづねかように其の日ほど出頭仕り候は、国の五ヶ国三ヶ国も取り候程の様子にて候つる、おかしく候、 …(中略)…猶以て毎日罷り出、隙無く草臥候事推量有るべく候」(特別な酒宴の席に臨席できたのは、国の五ヶ国三ヶ国も取ったような栄誉を感じています…なおも毎日将軍にお供し、休む暇もなく疲れていることはご推察ください)

忠茂に対し、どこか誇らしげな宗茂の様子に微笑ましささえ感じます。




寛永15年(1638)2月6日、宗茂は、前年より勃発した天草・島原の乱鎮圧に苦戦する幕府軍の原城総攻撃に参陣するため満を持して着陣。この時72歳でした。
往年の勇将の面目躍如だったのでしょう。「軍神再来」と囁かれたというエピソードが伝わっ ています。

この年10月20日、宗茂は正式に隠居を許され、「立斎 リッサイ 」と号します。



その翌年、年を重ねる宗茂の体調を気遣う家光から、風邪をひかぬよう、転ばぬようにと紅裏烏巾(黒頭巾)と紫竹の杖を賜りますが、これを名誉なこととその姿を肖像画にしたものが、宗茂の晩年の姿を伝える貴重な資料として伝わっています。

* 宗茂晩年の姿は、コチラで *
「琢玄宗璋賛 立花宗茂像」慶應義塾 センチュリー赤尾コレクション蔵
◎「立花宗茂肖像」 小野恭裕氏寄贈 柳川古文書館蔵
 ⇒白石直樹「寄贈された『立花宗茂肖像』と『小野鎮幸像』」 (広報やながわ2024年4月号 新市史抄片196 より)

※ちなみにコチラは、立花家に伝来して、当館が所蔵する宗茂の肖像画。

立花宗茂像 立花家史料館蔵




宗茂は多くの人々に惜しまれ、寛永19年(1642)11月25日夕方、江戸にて他界、享年76でした。

立花宗茂と誾千代の生涯について6回にわたりお話しましたが、大河招致活動を応援していただけるよう、今後も普及活動を続けてゆきたいと思います。



立花宗茂[1567~1642]ってどんな人?

立花家史料館 館長が語る”立花宗茂と誾千代” 
第1話 近世大名立花氏の誕生と戸次道雪
第2話 女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代
第3話 柳川城主となった立花宗茂
第4話 関ケ原合戦後の立花宗茂
第5話 立花宗茂、柳川藩主への復活
第6話 再封後の宗茂と晩年の活躍



文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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能へのラブは横綱級?最後の柳川藩主・鑑寛の趣味

2024/8/14

「写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式」から来た方は Skip


立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……




わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。



明治7年(1874)12月29日に17歳の息子に家督を譲った鑑寛は、同11年(1878)7月に東京を離れて帰郷します。5代藩主 貞俶が御花畠屋敷を造営して以来、柳川藩主のくつろぎの場所であった、現在の国指定名勝「立花氏庭園」の地に戻ってきたのです。

9月25日には、3月から普請が進められていた「御隠亭」に移りました。

茅葺の「御隠亭」の東には「能舞台」が、南には庭園「松濤園」がありました。鑑寛は、能舞台で能を演じたり、庭園に亭を設けて和歌を詠んだりと、49歳からの隠居生活を楽しんでいたようです。



ただし、彼の趣味にささげる情熱は、われらの想像を超えていきます。

柳川に戻った翌年の明治12年(1879)から亡くなる前年の41年(1908)までの29年間、鑑寛が謡、囃子、仕舞、能の演能にかなりの時間を割いていたことが、記録から読み取れます。
とくに明治18年~31年の期間は、さかんに能を主催していました。

演者は、息子や娘たちに、旧柳川藩士および立花伯爵家職員たち、そして旧柳川藩お抱えの能役者たち。もちろん、自らも演じました。



こちらは、相撲番付になぞらえたランキング「春秋御能相撲」 です。

明治17年~27年の10年間に御花畑(=御隠亭) 能舞台で上演した能番組をもとに、シテ(=主役の演者)の名前と『安宅』『海人』『當麻』『湯谷』『弦上』『小原御幸』などの演目を、順位付けしたものです。 演目の表記から、シテ方の流派は喜多流だとわかります。

ちなみに当時の相撲番付の最高位は、「横綱」ではなく「大関」でした。

能番付「春秋御能相撲」

東西の大関、関脇、小結というトップ3を独占する勢いなのが「大殿様」、すなわち鑑寛です。

ほかの名前はそれぞれ、鑑寛の三男・寛正と四男・寛篤、親族で鑑寛の養子となった十時、旧柳川藩士の野波八蔵 、宮川、問註所康光、立花伯爵家職員の与田庄三郎、佐伯 、岡田修理 、旧柳川藩お抱えの御役者であった喜多流シテ方・勝浦吉十郎と能役者・与田喜三太、名前しかわからない松尾球吉
あわせて12名です。

つまり、鑑寛と身近な同好者たち13名は、10年間でかわるがわるシテをつとめ、160曲を超える演目を御隠亭能舞台で上演しているのです。
彼らは、まったくのプライベートで、ご趣味でやってらっしゃいます……



能の上演のためには稽古しなければなりません。

例えば、明治19年(1886)4月7日の「御能」にむけて、1月20日 御謡合、2月8日 鳴物稽古、2月20日 御謡合、2月25日 鳴物稽古、3月1日 御謡合、3月5日 鳴物御稽古、3月14日 御謡合、3月20日 鳴物稽古、3月25日 鳴物稽古、4月1日 御能前御謡合、4月4日 御能大御習試と入念な稽古をかさねています。
そして本番当日は1日がかりで、7~8演目を上演するのです。


稽古して上演を繰り返すうちに早10年。
経緯は全くわかりませんが、 ” あの時の鑑寛様のステージが最高だったな?” “いや、あの演目も捨てがたい” という風な感じで、10年間の記憶を掘り起こしながらランキングを作成し、わざわざ印刷までしてしまいました。
印刷にかかる時間と労力と費用が、今よりもずっと大きかった時代にです。

しかし、彼らの能はここで終わりません。
この後も15年ちかくも続けられていきます。



現在のわたしたちには、鑑寛さんの能の巧拙を知る術はありません。
しかし、鑑寛さんの能への愛は、残された記録と能番付「春秋御能相撲」 から十二分に伝わってきて、その大きさに慄かされます。

鑑寛さんの趣味にかける勤勉さと、記録を残そうとする執念。
ここ、オンラインツアーでも出ます。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式

2024/8/2

立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……【終了しました】



わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。

明治7年(1874)12月29日、鑑寛は当時17歳の息子に家督を譲ります。さらに明治11年(1878)には東京を離れ、柳川に戻ってきました。
現在の国指定名勝「立花氏庭園」内に建てた屋敷にて、和歌や能などの趣味に邁進していたようです。


亡くなったのは明治42年(1909)2月24日、享年80でした。

葬儀は3月3日、立花家の菩提寺である福厳寺(福岡県柳川市)で厳かにとりおこなわれました。
残っている記録をみると、式場用の椅子机を借り入れたり、大導師以下各参列寺院の席次や受付などの役割を決めたりと、大がかりだったことが分かります。


115年前に撮影された、最後の柳川藩主のお葬式。

まず気になるのは、仮設の屋根。
今でも野外の行事に欠かせない仮設テントが、当たり前ですが藁葺きです。
祭壇は本堂を背にする位置に、南側の天王殿に相対して設えられています。
何よりも、すべて屋外でおこなわれるようです。



鑑寛の長男・寛治とその妻・鍈子が、それぞれ焼香をすませました。

寛治さんは洋装の礼服を着ているように見えます。
鍈子さんは和装の喪服でしょうか?白い喪服‼

「同令夫人御焼香済御復席」 拡大 白い喪服姿の令夫人

中央に鎮座する屋根付の六角柱は、鑑寛さんの棺でしょうか?



12代藩主 鑑寛については、この葬儀以外の写真は確認されていません。
肖像画も伝来していないので、オンラインツアーでじっくりとご覧いただく「徳川将軍参内式列画巻」の中に描かれている姿が、おそらく唯一の鑑寛像です。

実は、この絵巻を開いて見たことがある人は、ほんの少数。

立花家史料館蔵「徳川将軍参内式列画巻」

わたしも未見ですので、ワクワクしながらオンラインツアーを待っています。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。


【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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小さく薄い三角形の金属片

2024/8/1

明治43年(1910)築の立花伯爵邸では、現在では失われつつあるものが、現役のまま建物を支えています。

その最小のものが、“小さく薄い三角形の金属片”ではないでしょうか。


わたしがはじめて庶務を担当したのは、平成25年から27年(2013~15)の夏季に集中施工した、立花伯爵邸「西洋館」のメンテナンス工事でした。外壁を塗り替え、すべての窓の点検・修理をおこないました。

当時のわたしは、慌ただしい作業現場をトンチンカンな質問で騒がせ、むやみやたらに撮影する、お邪魔虫でしたが、快く撮影を許してくださった職人さんたち深く感謝しています。



とくに「上げ下げ窓」の修理作業は、何もかもが珍しく驚くことばかり。

大興奮して一連の作業を動画撮影したものの、10年間もちぐされ続け、2024年1月にやっと披露できました。

平成25年-27年(2013-15)立花伯爵邸「西洋館」保存修理工事の話



つい先日、この投稿が、立花伯爵邸と同年代の建物の保存修理に携わる方のお役に立ったとご報告いただきました。

「~森林博物館改修~木製建具改修の挑戦」
⇒「~ 明治から時を超えて、青森のシンボルを未来へ ~
株式会社 成文組( 青森県青森市 )HP >現場レポートより

「いつかどこかの困っている誰かに届けェ~」と密かに願っていたので、とても嬉しかったです。


近代の建築については、国宝や重要文化財に指定されはじめたのが近年なので、文化財指定や修理の際に作成すべき報告書があまりありません。
明治から昭和初期に建てられた木造洋館に限ると、さらに数が少なくなります。木造洋館に見られる、寺社や和風住宅とは異なる工法については、参考事例が蓄積されていないのです。

おそらく20年ほど前までは、木造洋館の現場を経験した職人さんも健在だったのでしょう。しかし、新素材や新技術の登場により、古い工法は猛スピードで忘れられていきます。

あたかも、フィルムカメラのように……



例えば、わたしたちは「上げ下げ窓」のガラスの固定に苦労しました。

現在は弾性接着剤によるコーキング(シーリング)でガラスを固定するのが主流ですが、西洋館の「上げ下げ窓」ではパテが使われています。パテは隙間を埋めて気密性や水密性を保つだけで、ガラスを固定している訳ではありません。

立花伯爵邸には他にもガラス窓はありますが、木桟で固定されています。



とりあえず、ガラス脇に小釘を打ってみましたが、ガラスが薄いので、かなりの確率でヒビが入りました。

河上先生も寺社修理の経験豊富な大工さんたちも、戸惑っています。
どうしよう?

結論から言うと、窓枠からポロポロと落ちてくる”小さく薄い三角形の金属片”が重要でした。
ここだけの話ですが、当初は金属屑(ゴミ)と見なされていました。



次は困らないよう、取り付けている様子もバッチリ撮影しています。

“小さく薄い三角形の金属片”が見えますか?



立花伯爵邸西洋館メンテナンス工事は滞りなく終了しました。

“小さく薄い三角形の金属片”を忘れる時はありませんでしたが、ほとんどの報告書は建具類について詳述していないので、名前を探せないまま時は流れていきます。



そしてブログの投稿をはじめました。

ブログ形式を選んだのは、報告書等で端的にまとめられる前の、雑多な情報を伝えたかったから。

もちろん、我らが誇る2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』においても、工事をストップして関係者一同を集めて繰り返し最善策を議論しつくした時間については言及されていません。



10年の経過はわたしに、簡単動画加工アプリと『国立国会図書館デジタルコレクション』https://dl.ndl.go.jp/の全文検索をもたらしてくれました。
アプリのおかげで、暗い画像を明るくしたり、自分の奇声を削除したりと、むやみやたらに撮影した動画をお蔵入りさせずにすんでいます。



そして、ブログで取り上げるため、『国立国会図書館デジタルコレクション』で「上げ下げ窓」を全文検索すると、

斎藤兵次郎 著『和洋建具設計実例』,信友堂,明41.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/846407 (参照 2024-08-01)



えッ “三角”釘 !?

三角釘さんかくくぎ
鱗ウロコ釘、亜鉛トタン鋲、葉鋲ハビョー、等ノ別名アリ「はびょー」ヲ見ヨ。

葉鋲 はびょー
障子ニ硝子ヲ取付ケテ動カサラシムル為メぱて下ニ打ツ三角形ノ小キ薄キ金属板(英Spring-Glaziers’ point)「三角釘」トモ称ス。又普通亜鉛板ヲ用フル故ヘ「亜鉛鋲」トモイフ。米国ニテハぶりきヲ用フル故ヘTin point トモイフ。

中村達太郎 著『日本建築辞彙』丸善株式会社 明治39年発行

硝子職
パテは舶来品と和製品あり(後略)
ガラス板を附するに当り之を留むるに鱗釘を用ゆ鱗釘とはブリキ又は亜鉛引鉄板を小さく三角形に切りたるものにてガラス板一枚に付き凡そ四個乃至六個を要す

大泉龍之輔 編纂『建築工事設計便覧』建築書院 明治30年発行



“小さく薄い三角形の金属片”の名前は、「三角釘」 または「鱗釘」または 「亜鉛鋲」 または「葉鋲」といいます。



この名前を知るのに10年。


“小さく薄い三角形の金属片” との出会いから本投稿までの間に、ソチ・リオ・平昌・東京・北京・パリと6都市のオリンピックを見届けてしまいました。


2024.8.2リンク追記

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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〚館長が語る5〛立花宗茂、柳川藩主への復活

2024/8/1
立花宗茂[1567~1642]

宗茂は、関ケ原合戦で敗軍の将となり、慶長6年(1601)に浪人の身となりました。










5年の月日が流れ、慶長11年(1606)9月ようやく2代将軍秀忠に拝謁が叶いました。長年の浪牢生活を終え、奥州南郷(現在の福島県棚倉町付近)に1万石の領知を与えられ、大名という身分に復帰することができたのです※。

※ 徳川将軍の家臣のうち、知行高1万石以上からが「大 名」となり、1万石未満のものは「直参 ジキサン」と呼ばれます。


さらに慶長15年(1610)、宗茂は加増を受け、領地高は3万石となります。

2010年「宗茂」の名乗りから400年を記念して
御花史料館(現立花家史料館)で特別展を開催

実は、これまで煩雑さを避けるため、立花宗茂という名に統一して書き進めていますが、正式に「宗茂」と名乗るのは、この年からなのです。

旧家臣に送った加増を知らせる書状に「かたじけなき仕合せ、御推量あるべし」と書いているように、このめでたい加増を喜んだ宗茂は、この機に改名したことが想像されます。










「宗茂」の名乗りから400年記念特別展「立花宗茂」
[2010.11.13~2011.1.10] ポスター

これまで、波乱に満ちた人生の運気を切り開こうとするが如く、統虎 ムネトラ、宗虎 ムネトラ、正成 マサナリ、親成 チカナリ、政高 マサタカ、尚政 ナオマサ、俊正 トシマサ、と次々と名を変えてきましたが、「宗茂」となってからは生涯この名を使い続けます。


南郷に領知を得た後も、将軍の側近く仕えるため江戸を離れることがあまりなかった宗茂に代わって、家臣の由布 ユフ 惟次 コレツグ、斎藤統安 ムネヤス、十時 トトキ 惟昌 コレマサ、因幡宗糺 ソウキュウらが在地で支配に当たっていました。

この頃の宗茂は、秀忠の警護や江戸城の守衛としての役にあったようです。

慶長19年(1614)の大坂の陣では将軍の軍事的相談役を務めたと言われるように、武人として高い信頼を得ていたことが想像されます。


関ケ原合戦ののち、筑後国は田中吉政の領地となりましたが、2代忠政は跡継ぎがないまま没してしまったため田中家は改易されることになり、宗茂は欠国となった筑後の柳川へ再封の決定が下されることになったのです。

この再封がなぜ実現したのか、ひと言では説明できませんが、宗茂のそれまでの実直な生き方と彼を支えた人々との絆がこの奇跡の復活に導いてくれたものと思います。

慶長5年(1600)の柳川城開城からちょうど20年後、再び大名として 柳川城へ入城したのです。

柳川再封400年記念特別展「復活の大名 立花宗茂」
[2020 .12.4~2021.2.7] フライヤー



宗茂54歳の早春、激動の時代をくぐり抜け、静かに力強く柳川藩10万9千石の大名家当主として新しい時代が始まったと言えるでしょう。




これまでに開催された立花宗茂をメインテーマにすえた特別展は3回。
上記節目のほか、宗茂生誕450年を記念した「立花宗茂と柳川の武士たち」[ 2017.12.9~2018.2.4]が、柳川古文書館と立花家史料館とで共催されました。
このとき当館が作成したDVD版電子図録が、現在入手可能な唯一の展覧会図録となります。本図録では、両館の学芸員による詳しい解説とともに、宗茂と立花家家臣団の足跡をたどる文書資料と武具甲冑などの美術工芸品とを、デジタルならではの高精細画像で楽しめます。

特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』DVD電子図録を販売中






文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
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ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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〚館長が語る4〛関ケ原合戦後の立花宗茂

2024/7/1
立花宗茂[1567~1642]

無念の思いを抱えたまま柳川に戻ることになった宗茂ですが、九州上陸の前、同じく九州に向かう島津義弘と日向灘沖で遭遇します。









島津義弘[1535~1619]

島津義弘は関ケ原で敵中を突破して決死の帰国の途上にありました。










宗茂の実父、高橋紹運 ジョウウンは、かつて島津軍に討たれた過去がありますので、宗茂にとって仇とも言える武将ですが、宗茂は過去の遺恨にとらわれることなく、共に助け合うことを約束して帰国を果たしたと伝えられています。







柳川城は東軍についた諸侯に包囲され、鍋島直茂の軍と江上(現在の福岡県久留米市城島町付近)・八院(現在の福岡県三瀦郡大木町・大川市付近)で激しい戦いとなり、立花軍は多くの戦死者をだしました。

しかしながら、徳川家康からの「身上安堵の御朱印状」※1を携えた家臣・丹親次が帰還したことから和睦交渉が進みます。宗茂とは信頼関係のあった加藤清正からの開城要請を受けて柳川城を開城し、領地安堵への期待を残しつつ上洛をするのですが、結果的に改易※2され、筑後一国は、三河岡崎の領主であった田中吉政の治めるところとなったのです。

※1 宗茂が西軍に加わった罪を許すという内容であったと推測されています。
※2 大名としての身分と所領を没収され、浪人となること



加藤清正[1562~1611]

宗茂とその家臣たちは、肥後の加藤清正の客分として高瀬(現在の熊本県玉名市)に仮寓することになり、誾千代は、腹赤ハラカ(現在の熊本県玉名郡長洲町)の屋敷に移りました。









誾千代[1569~1602]

夫・宗茂の大名復帰を強く望んでいたであろう誾千代は、関ケ原合戦からわずか2年後の慶長7年(1602)、熱病のため腹赤の屋敷で死去します。法名は「光照院殿 コウショウインデン 泉誉良清セイヨリョウセイ 大禅定尼 ダイゼンジョウニ」享年35と伝えられます。







誾千代が亡くなった腹赤には墓石があり、その特徴的な形から「ぼたもちさん」と呼ばれています。

熊本県玉名郡長洲町にある誾千代の墓碑
「ぼたもちさん」【長洲町指定文化財】

長洲町の文化財に指定され、周辺の駐車場整備も進んでおりますので、柳川へお越しの折は、少し足を延ばしてお訪ねいただければと思います。


2011.10.19付ブログでは「ぼたもちさん」について 詳しく紹介しています


宗茂自身は少数の家臣とともに再び上洛、徳川家康の許しを待ち続ける苦渋の浪牢生活を送りますが、領国を失った宗茂の大名復帰への望みを託して付き従い続けた家臣達がいたのは驚くべきことです。

浪人中の宗茂は、慶長6年(1601)と翌7年には中江新八、吉田茂武(桃山時代から江戸時代初期にかけての武術家)から日置 ヘキ 流弓術について免許されていますので、厳しい時にあっても武士の本分として武術の鍛錬を怠らなかった姿勢がみえてきます。



そして、慶長11年(1606)、1万石ながら奥州南郷の地(現在の福島県棚倉町付近)の大名として返り咲きを果たすことになり、両度の大坂の陣に出陣します。

宗茂の運命はここから大きく動き出すのです。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
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「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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立花伯爵邸「大広間」の隠し機”能”

2024/6/20

これまで立花伯爵邸「大広間」の内緒話をちょこちょこと紹介してきましたが、まだ全てを語りきれていません。

① 知られざる四分一(2023/1/26)
② 銀に輝く壁紙にひそむ新旧の技術(2023/1/31)
③ 「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ(2023/2/6)
④ フレキシブルな「大広間」床の間【前半】(2023/2/13)
⑤ フレキシブルな「大広間」床の間【後半】(2023/2/22)
⑥ Googleマップツアー《明治後期・大正期の「床の間」拝見》(2023/3/2)
⑦ 殿さんが騙された?「大広間」の瓦の疑惑(2023/3/15)
⑧ 100年前の手仕事が、現代の機械には難しい……(2023/3/25)
⑨ かりそめの素敵な素屋根(2023/9/8)
⑩ 知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。(2023/9/14)


あの話もこの話もしなければと悩みながら「大広間」を覗くと、アレッ⁉️

2024年6月12日の立花伯爵邸「大広間」

……どうやら「大広間」の隠し機能✨️を明らかにする時が来たようです。




「大広間」がトランスフォームした理由は”能”。

残念ながら本年度の公演は終了しましたが、来年度の公演情報がいち早く届くメールマガジンの登録ができます。

また、2022年の能公演の様子が、「柳川藩主立花邸「御花」で能を楽しむ。【前編】【後編】」(ウェブマガジン『アナバナ』https://anaba-na.com/)で紹介されています。






建築当初の「大広間」平面図

明治41年(1908)4月30日に棟上された立花伯爵邸「大広間」は、南は「松濤園」に面しています。


東から18畳、18畳、12畳の部屋がならび、部屋の南北に一間幅の畳廊下がつきます。




そして、西側の2室「西ノ御間(三の間)」と「中ノ御間(二の間)」の畳をはずすと、敷舞台があらわれるのです。












座敷に仕組まれた能舞台が現存する例はほかに、明治37年(1905)築の炭鉱主・高取伊好(1850-1927)の邸宅 【国宝】「旧高取邸」(佐賀県唐津市)があります。ウチと同じく畳と敷居が可動式だそうですが、アチラは「鏡板の松」が襖に描かれた本格的な能舞台であり、時に畳が敷かれて広間として使われたと聞きます。

しかし、今でも実際に能を上演するために活用しているのは、ウチだけではないでしょうか。

もっぱら広間として使われている立花伯爵邸「大広間」ですが、畳と敷居は、必要に応じて人力で可動します。



残念ながら、伯爵時代の「大広間」敷舞台の使われ方は、現時点では確認できていません。演能時の古写真や記録が発見されたら、すぐにご報告します。


(株)御花による大規模な能の公演は、平成6年(1994)から平成19年(2007)にかけて、十数回開催されました。


ただし、御花史料館の開館を記念して開催された平成6年(1994)と平成9年(1997)、平成12年 (2000)、そして福岡県西方沖地震復興を記念した平成19年(2007)の際は、「大広間」敷舞台ではなく、「松濤園」の池上に仮設された贅沢な野外能舞台で演じられています。








余談はさておき、立花伯爵邸「大広間」敷舞台が能の公演で使われるなかで、「大広間の床下には甕が埋められている」と、まことしやかに語られてきました。

能舞台の床下に数個の大きな甕を据える例は、天正九年(1581)の銘がある現存最古の能舞台【国宝】「 本願寺北能舞台」(京都市西本願寺)をはじめ、江戸時代に設営された能舞台にしばしば見られます。拍子を踏む足音の響きを良くする効果があるといわれています。


「大広間」の床下にも大きな甕がある⁉️ 
しかし、「大広間」の床下は外からは覗けない構造です。

「大広間」修復工事(2016-17) にて、 やっと機会が到来しました。

ワクワクしながら覗きこんだのに、切石礎石しか見えません……

立花伯爵邸「大広間」床下

礎石の下はコンクリート? 明治時代にコンクリートの基礎?



「大広間」修復工事(2016-17)では 、構造補強のために「東ノ御間(一の間)」「西ノ御間(三の間)」の荒床板を解体しました。

基礎は確かにコンクリートでしたが、厚さ6cmと薄く無筋で、床下の湿気を防ぐ効果しかなさそうだと判断されました。

工事では構造補強のため、厚い鉄筋コンクリート基礎を可逆的に加えています。

床下の既存コンクリート土間60mm厚の下部に空隙があり、構造補強の基礎設置に必要な部分を撤去し、コンクリート土間100mm厚を新規に整備した。

河上建築事務所『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』2020.3月 (株)御花 100頁より



でもでも、家屋としては”しょぼい無筋コンクリート基礎”であっても、能舞台としての音響効果は期待できるかも?



実は、江戸時代に設営された能舞台には、甕を埋めるのではなく、「彦根城表御殿能舞台」(滋賀県彦根市 彦根城博物館)のように、 漆喰を塗った大きな桝を床下に設置した例もあるのです。

彦根城博物館HP「3 江戸時代の能舞台
彦根城博物館の見どころ」(彦根城博物館HPhttps://hikone-castle-museum.jp)



もしかしたら、コンクリート基礎の目的が、湿気防止ではなく、音響効果であった可能性もあるかもしれません。(あくまで個人の勝手な期待です。)



「大広間」の音響効果のほどは、演者の方々にしか分かりません。
いつか、甕が埋められた舞台と「大広間」敷舞台との比較検証ができればいいなと、大きな期待を抱きながら願っています。



参考文献
『旧高取邸リーフレット』PDF(公益財団法人 唐津市文化事業団HP「旧高取邸」より)、「書院・能舞台」西本願寺HP)、磯野浩光「京都市内に現存する能舞台略考」PDF( 『京都府埋蔵文化財論集第6集』2010 京都府埋蔵文化財調査研究センター) 、山下充康「能舞台床下の甕」PDF(『騒音制御』14巻3号 1990.6 公益社団法人 日本騒音制御工学会)、「江戸時代の能舞台」(彦根城博物館HP)、「 表御殿の調査-彦根藩の表御殿を復元した彦根城博物館-」(彦根市HPより)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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〚館長が語る3〛柳川城主となった立花宗茂

2024/6/1
立花宗茂[1567~1642]

豊臣秀吉にその武功を高く評価され、大友家の家臣から豊臣大名となり、柳川に領知を得た立花宗茂は、妻誾千代を伴って柳川城へ移ることになりました。
天正15年(1587)6月のことです。








間もなく宗茂は、隣国の肥後で勃発した国衆の一揆※討伐に加わります。
宗茂にとって豊臣大名となって初めての戦となったわけですが、そこでの戦功が際立っていたことが秀吉の朱印状に記されています。

※肥後国衆一揆…天正15年、秀吉に肥後を与えられた佐々成政は検知を行うが、それを拒否した隈府城の隈部親永に肥後の国人衆が加担して大規模な一揆に拡大した。秀吉は小早川秀包を総大将とし、筑後、肥前の諸将を討伐に向かわせた。



宗茂はその後、誾千代と共に初の上洛を果たし、若き豊臣大名として大坂と柳川を頻繁に行き来しながら柳川の統治を進めることになります。宗茂22歳のときでした。



そして文禄元年(1592)、秀吉の「唐入り」にあたり、宗茂は小早川隆景を主将とする第六軍配属され朝鮮半島へ渡ります。


小早川隆景 [1533~1597]

隆景は、すでに実父と養父を亡くしていた宗茂にとって第三の父とも言える人物です。
若い宗茂に大きな影響を与えた武将であり、これまでの活躍から宗茂に対して高い信頼を置いていたようです。









その期待に応える働きをした宗茂は加藤清正や島津義弘をはじめとする西国大名と固い信頼関係を築くことになります。








誾千代[1569~1602]

一方、誾千代は柳川城の南にある宮永という地に館を建て、城を出て別居することになりますが、その時期は、文禄4年(1595)と慶長4年(1599)の二つの説があります。









いずれも、2度にわたる宗茂の朝鮮出陣直後のことですので、この大きな戦の間に二人の関係に何かがあったのではないかでしょうか。

資料が残っていないため想像の域は出ませんが、初代道雪の娘であり元城主であった誾千代と、婿でありながら秀吉に見いだされて一大名へ出世を果たした宗茂には、それぞれに強い忠節を抱く家臣がおり、そのバランスの危うさも別居の背景にあったのではないかと考えられています。



豊臣秀吉 [1537~1598]

慶長3年(1598)、豊臣秀吉死去の後に朝鮮から帰国した宗茂は、その1年7か月後に天下分け目と言われる関ケ原合戦において、西軍に加担します。









ここに至る経緯については資料が乏しく不明ですが、島津義弘が遺した文書によると「秀頼様に対したてまつるご忠節のため、御軍役の人衆過上の由」と記されているように、軍役の規定を大きく上回る大軍を派兵したとされ、強い決意をもって西軍に投じたことがわかります。



しかしながら、大津城を攻略していた宗茂の軍は関ケ原合戦の本戦には間に合わず、そのまま敗軍の将として無念の思いを抱きつつ九州へ帰還することになりました。



この戦の後、宗茂の人生は大きな試練の時を迎えることになります。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

大久保ヤマト氏イラストの【 宗茂と誾千代キャラクターズバッジ】 をお手元に





「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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〚館長が語る2〛女城主・誾千代と立花宗茂―立花城時代

2024/5/3

前回は、7歳で立花城主となった誾千代が、13歳の時に2つ年上の宗茂を婿に迎えるまでのお話しをしました。





今回は、宗茂と誾千代の結婚と二人の立花城時代についてお話ししたいと思います。

大友宗麟 [1530~1587]

元亀2年(1571)、大友宗麟の命により立花城主となった戸次道雪ですが、男子がいなかったため、主である大友宗麟は戸次一門のうちからしかるべき男子を養子として「立花城」の家督を譲るように勧めます。









しかし、道雪はこれを聞き入れず、天正3年(1575)数え年わずか7歳の娘・誾千代に立花城主の座を譲ってしまいます。この相続は大友宗麟と義統も認めたため、ここに幼少の女城主が誕生したのです。

天正三年(1575)五月二十八日
戸次道雪譲状写(部分)【重要文化財】





その6年後、誾千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが高橋紹運の長男であった弥七郎 ヤシチロウ 統虎 ムネトラ、のちの立花宗茂でした。
誾千代と宗茂の婚儀は天正9年(1581)8月と言われています。

こうして、立花城主の座は夫となった宗茂に引き継がれたのです。



二人の婚儀の背景には、騒乱の九州にあって衰退する大友家の家臣として北部九州を守る戸次道雪と高橋紹運が堅固な軍事同盟を結ぶという意義があったのではないかと言われています。


その頃、道雪と紹運はともに筑前筑後の各地で反大友勢力との戦の中にありましたが、宗茂と誾千代の結婚からわずか4年後の天正13年(1585)9月、道雪は筑後北野の陣で没し、翌14年(1586)7月末には紹運の護る筑前岩屋城も九州の統一をもくろみ北上する島津軍との戦いで陥落、紹運も戦死します。



二人の父を相次いで亡くした宗茂と誾千代は、その時19歳と17歳という若さでしたが、立花家を率い、立花城を包囲する島津軍との20日間におよぶ決死の籠城を耐え抜きます。




そして、大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の軍が九州に入るという報を受けて島津勢は撤退を開始し、立花城は危機を脱しました。宗茂はこの機を逃さず、島津方にあった高鳥居城を激戦の末落城させ、岩屋・宝満両城も奪回します。

豊臣秀吉 [1537~1598]

この武功に感じ入った秀吉は、黒田如水、安国寺恵瓊等に宛てた書状で宗茂を「九州之一物(九州一秀でた武将)」と激賞しています。









この軍功により、天正15年(1587)立花家は大友家から独立して筑後柳河に新たな領知を与えられ、大名となったのです。

天正十五年(1587)六月二十五日 豊臣秀吉朱印状【重要文化財】


九州の要衝である立花城は、その後小早川隆景が入ることになり、宗茂と誾千代は筑後柳川城へと移りました。


立花家御城印シリーズ 「立花城」「柳川城」はじめました






若き豊臣大名・立花宗茂は戦巧者としてその名を知られるようになるのですが、そのお話は、次話でご紹介いたしましょう。




文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/


「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。

入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。

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立花家のヨメが、徳川家康のヒマゴで、伊達政宗のマゴ!?

2024/4/28

柳川藩主立花家にお嫁入りした女性のなかに、今でも「仙台奥様」や「仙台奥さん」と、なぜか親しげに呼ばれる方がいます。



その方は、2代柳川藩主・立花忠茂(1612~75)の継室となった、鍋子(1623~80)さん。

正保元年(1644)の祝言までの経緯を、柳川古文書館学芸員の白石氏がわかりやすく解説されています。

白石さんによる詳しい経緯の解説はコチラ






忠茂 33歳と鍋姫 22歳の縁組は、いろいろと異例でした。


忠茂の先妻・長子〔玉樹院〕の場合、大御所秀忠に仕える西丸老中の父・永井尚政は、最終的には淀藩(京都府)10万石の藩主となりますが、結婚当時は古河藩(茨木県)8.9万石の藩主でした。
柳川藩(福岡県)11万石と、ほどよく釣り合った縁組だといえます。


しかし、鍋子さんは仙台藩(宮城県)62万石の2代藩主・伊達忠宗の一人娘。

しかも母親は、 姫路藩(兵庫県)52万石の初代藩主・池田輝政の娘、かつ初代将軍・徳川家康の孫であり、2代将軍・秀忠の養女となって嫁いだ正室・振姫です。


ちなみに、振姫の母親は、2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』で印象深い役柄だった「お葉」〔西郡局〕であり、北条氏直との離縁後、再婚した池田輝政との間に振姫をもうけました。
「お葉」さんの娘!俄然親しみがわいてきます。
また、父・忠宗の両親、伊達政宗と正室・愛姫についても、1987年NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』のおかげで、よく知っている気がします。

わたしは日頃、血統ではなく「家」という枠で系図を見ていますが、今回はフカボリするほどに意外な血縁が判明して、ワクワクしました。


あいにく振姫の実子3人のうち男子2人は早世したため、側室から生まれた綱宗が3代仙台藩主となります。
つまり鍋ちゃんは、徳川家康と伊達政宗との血を受け継ぐ、一粒種となってしまったのです。

忠茂が 「つりあわぬ身躰」 と感じたのも、無理はありません。

まさに格差婚。
しかも老中が祝言を急かすので、予期せぬ大きな出費が嵩んでムリっぽい。

そこで老中は、本来ならば江戸上屋敷ですべき祝言を、下屋敷で行うよう助言してきました。柳川藩の苦しい財政事情を鑑みた、立花家の負担を減じる指示でしたが、鍋姫や伊達家にとっては不本意だったかもしれません。

いろいろと異例な縁組と祝言には、3代将軍・家光の意向「上意」が働いていたようですが、家光の目的は何だったのでしょうか。


大きな格差はありましたが、忠茂と鍋姫はいい夫婦となれたようです。

二人の間には、夭折した千熊丸、後の3代柳川藩主・鑑虎、先の永井家に嫁いだ、忠茂から「雷切丸」をもらった茂辰、早世した兄から「雷切丸」を引き継いだ茂堅、縁起を担いで養子に出された、旗本として分家を立てた貞晟、福岡藩主黒田家に嫁いだ呂久と、5男2女〔一説には6男2女〕が生まれました。

脇指「雷切丸」の話はコチラ



江戸時代、大名の正室には跡継ぎの確保が期待されました。

幸運にも鍋姫は、実子の鑑虎(1645-1702)が無事に成人して3代柳川藩主となりましたが、その鑑虎が、両親の供養のためにつくらせた位牌もまた異例でした。

忠茂と鍋姫それぞれの位牌が、一つの厨子の中におさめられています。
厨子には、立花家の家紋「祇園守紋」と、伊達家の家紋と思しき「竹に雀紋」があしらわれているのが、かろうじて見て取れます。
夫婦の位牌をまとめて厨子におさめた例は、意外にも少ないのです。


同じ永禄10年(1567)に生まれた立花宗茂と伊達政宗。
勇将として名高い二人の没後に奇しくも結ばれた、養嗣子と孫の縁組。
徳川家康・高橋紹運・池田輝政・伊達政宗の血を継ぐサラブレッド鑑虎の誕生。
今にいたるまで立花家の仏間で祀られてきた、両家の家紋があしらわれた厨子。

なんか、すごくエモくない?

現代から立花家の歴史をふりかえると、2代藩主・忠茂の最大の功績は鍋姫との逆玉婚と言いたくなります。

実際、鍋姫は自らの血縁を活かして、立花家と伊達家との仲介をつとめたり、江戸城大奥を通じた「奥向」の交渉ルートをつかったりと、誰にもできない役割を果たしました。
そして、その威光は実子たちにも及び、彼女の没後も輝き続けるのです。

近世大名家の女性達の名と活躍は、歴史の表舞台に出ることはあまりありませんでしたが、立花家の婚姻を紐解き、彼女たちの生涯を追ってゆくと、歴史の節目にいかに大きな役割を果たしたのかが見えてきます。




6月4日(火)開催のオンラインLIVEツアーでは、 江戸時代の大名家間で行われた婚姻について、遺された豊富な婚礼調度や文書資料を使って実像に迫ります。
立花家から黒田家・毛利家・蜂須賀家へ嫁いだ姫たちもまた、鍋姫にまさるとも劣らぬ物語を紡いでいるので、是非ご参加ください。【終了しました】

オンラインLIVEツアー「華麗なる縁-柳川藩主立花家の婚礼」 (2024.6.4 19時~開催) 立花家の婚姻物語や大名家の婚姻の儀式を紹介、生配信カメラで伝来の婚礼調度に肉迫して解説します。 ◆解説ブックレットA5版カラー・オリジナル紅茶と焼き菓子のセット 付



立花家の歴史に多大な影響を与えた鍋姫の法名は、「法雲院殿龍珠貞照大夫人」。
本来ならば「法雲院さま」と敬称すべきで、「仙台奥様」「仙台奥さん」と気安く呼ぶような感じではないのですが……






参考文献
『寛政重脩諸家譜』1917 榮進舍出版部、作並清亮『伊達略系』(仙台文庫叢書第1集)1905、柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市 【正室鍋姫 50~53頁】、中野等・穴井綾香『柳川の歴史4近世大名立花家』2012.3.31 柳川市 【伊達家との婚姻 330~332頁】、柳川市史編集委員会 編 『柳川文化資料集成第3集-3 柳川の美術Ⅲ』2013.5.24 柳川市 【立花家仏間の位牌 218~233頁】、角田市文化財調査報告書第55集『牟宇姫への手紙3 後水尾天皇女房帥局ほか女性編』2022.3.28 角田市郷土資料館

【ココまで知ればサラに面白い】
普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
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