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立花宗茂の生涯をスジャータでたどる

2011/8/11

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1567年 豊後国国東郡筧において誕生しました。幼名は千熊丸。
この年に生まれた武将は他に、伊達政宗・真田信繁(幸村)がいます。
ちなみにこの3人は、一部ファンの間で「67(ろくなな)トリオ」と呼ばれています。

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1569年 実父高橋紹運が高橋家を継ぎ、宗茂も筑前国御笠郡岩屋城に移ります。
高橋紹運は豊後大友氏の家臣です。
実家は吉弘家ですが、大友宗麟の命で高橋家を継いだのでした。

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1587年 豊臣秀吉から筑後三郡を与えられ、柳川を城地と定めます。
同じ大友配下である戸次道雪の養子となり、やがて立花家を継いだ宗茂は
島津攻めの働きにより、「九州の一物」と讃えられ
筑後国山門郡・三潴郡・下妻郡の領地を与えられます。

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1597年 慶長の役で島津義弘らと共に戦います。
宗茂は朝鮮に出兵し、他の諸将と共に戦いました。
やがて秀吉の死をきっかけに帰還命令が出ます。
このとき島津義弘・小西行長・宗義智ら諸将と会談し、撤退の段取りを決定しました。
撤退途中、小西行長が退路を断たれたときには、義弘らと共に救援に向かいました。

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1600年 関ヶ原の合戦で西軍に加担、大津城攻めで活躍。
秀吉への恩義から西軍についた宗茂は、京極高次の守る大津状を包囲しました。
9月15日に高次は降伏します。
しかし同日、主戦場である関ヶ原で西軍が敗れたため
宗茂は家来を従えて柳川へ帰ります。

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1600年 加藤清正に柳川城を明け渡す旨の使いを送ります。
柳川に戻った宗茂は、江上・八院で東軍勢と戦い多くの家来を失いました。
そうして柳川城を明け渡した宗茂は、大名としての地位を失い
清正の領内である肥後国高瀬に寓居します。

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1606年 徳川秀忠に大番頭役として召し出される。
1601年に高瀬を出た宗茂は京都で牢人生活を送っていました。
そしてやっと秀忠に会うことを許され、大番頭役として召し出されることとなったのです。
このときに奥州南郷に領地をもらっています。

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1620年 田中家の改易に伴い、柳川への再封が決定。
田中家は跡継ぎがなく断絶となってしまったため
宗茂に南筑後(10万9600石)が与えられました。
一度領地を失った大名が、再び元の領地の大名として復活するのは
非常に珍しいことです。

その後の宗茂は天草・島原の乱に参戦したり
将軍家光の側近くに仕えたりしていましたが
1642年、江戸で亡くなりました。76歳でした。

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