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高橋紹運が立花宗茂へ譲った「剣 銘長光」【重文】[後半]

2024/12/1

天正9年(1581)、戸次道雪の養嗣子となる日に、15歳の立花宗茂が、父の高橋紹運から譲られたという逸話をもつ「剣 銘長光」【重要文化財】
その5年後の天正14年7月27日、紹運は九州を北上する島津氏大軍に岩屋城で徹底抗戦の末に敗死。本剣は、宗茂にとって唯一ともいえる父の形見となってしまいました。





「剣 銘長光」【重要文化財】 立花家史料館所蔵


なぜ高橋紹運〔1549~86〕は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町長船地区)で作られた「剣 銘長光」を所有していたのでしょうか?

寺社仏閣が似合うようなイメージがある剣と、戦国時代の勇猛なる武将であった紹運との関係が気にかかりますが、調べようがありませんでした。



そんな折の2015年7月、立花宗茂イラストコンテストへのご協力をお願いするために豊後高田市の教育委員会をお訪ねした際、重要な知見をいただきました。

2015/8/10 の記事ですので、現在はイラストを募集しておりません。




高橋紹運は、豊後国武蔵郷吉弘(現 大分県国東市武蔵町吉弘)を本拠とする吉弘氏の出身であり、その吉弘氏は、室町時代中期には大友氏から都甲地域(現 大分県豊後高田市)に配置されていました。

都甲地域の歴史を知るには、 2014年に豊後高田市教育委員会が作成された『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』

豊後高田市HP/https://www.city.bungotakada.oita.jp/文化財室 > 「小冊子『都甲谷の歴史』について」から、PDF版をダウンロードできます。



そのうちに吉弘氏は長安寺の高い役職を歴任するようになり、鑑理・鎮信・統幸はみな六郷山別当や執行といった地位を手に入れていきます。これらの役職は、権威・権力共に非常に強いもので、都甲地域だけでなく、国東市の両子寺や香々地の霊仙寺など、六郷山寺院に広く影響力を持っていたと考えられます。

『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 36頁

紹運は吉弘鑑理の子で、高橋と名乗る前は吉弘鎮理※1という名前で登場します。紹運は都甲地域で生まれたとされており、「六郷山年代記」※2によれば、元亀三年(一五七二)には吉弘氏当主のように六郷山執行を勤めています。

『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 46頁

※1 永禄12年(1569)大友氏に謀反をおこした高橋鑑種にかわり、吉弘鎮理が岩屋城・宝満城(現 福岡県太宰府市)を本拠とする高橋家名跡を継ぎ、高橋鎮種、後に紹運と名乗る。
※2 長安寺所蔵 の「六郷山年代記」は慶長12年(1607)に長安寺僧の長老格であった豪意が六郷山の歴史を記したと伝わる。(『六郷満山寺院群詳細調査報告書』2016 豊後高田市教育委員会⇒PDFダウンロード



大友家の加判衆をつとめ、戸次鑑連、臼杵鑑速とともに「三老」と称された吉弘鑑理〔?~1571〕は紹運の父、大友軍と島津軍とが激突した高城・耳川合戦で戦死した吉弘鎮信〔1544~78〕 は紹運の兄、豊臣秀吉から改易された旧主の大友義統に従って石垣原合戦で黒田軍(関ケ原合戦東軍)を苦しめて戦死した吉弘統幸 〔1564~1600〕は紹運の甥と、吉弘氏はそろって忠義に厚く壮烈だったようです。

この吉弘氏が、天台宗の金剛山長安寺【大分県指定史跡】の主要な役職であった「六郷山別当職」「執行職」を占有し国東半島の寺院群に強い影響力をもっていたこと、紹運自身が「六郷山執行」という役職にあったことは、「剣 銘長光」の来歴を考える手がかりとなりそうです。



しかし残念ながら、現時点でわたしがお話できるのはここまで。
室町時代後期の吉弘氏の実状がさらに明らかにされるのを、期して待っています。




先の豊後高田市訪問の際には、高橋紹運ゆかりの地「筧城跡伝承地」「長安寺」などをご案内いただきました。 筧城は立花宗茂が生誕した地でもあります。

豊後高田市HP>  文化財 > 豊後高田市の先人たち > 【統幸公ゆかりの地・其の二】筧城(吉弘氏館)跡 伝承地 【統幸公ゆかりの地・其の三】長安寺【統幸公ゆかりの地・其の四】屋山城跡

近年「筧城跡伝承地」を案内する石碑が寄贈され、わかりやすくなっているようです。



ご案内いただいたなかで、とくに感慨深かったのは、国の重要文化的景観に選定されている「田染 タシブ荘小崎の農村景観」。中世から変わらない土地利用を現代に伝え、宇佐神宮の荘園であった「田染荘」の風景が残されています。



YouTubeチャンネル「 豊後高田市公式チャンネル 」より


永禄12年(1569)に福岡へ引っ越す前の高橋紹運(当時21歳)や立花宗茂(当時3歳)が眺めたであろう風景を、今まさに自分も見ているという浪漫に心がふるえました。



ゆかりの品がほとんど現存していない高橋紹運ですが、息子の宗茂へ譲った「剣 銘長光」 と「田染荘小崎の農村景観」が、現代のわたしたちに遺されています。



参考文献
豊後高田市教育委員会 編集 『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 2014.11 豊後高田市教育委員会、ぶんごたかだ文化財ライブラリーVol.1『 豊後高田の城跡 』2019.3.31 豊後高田市教育委員会文化財室⇒PDFダウンロード長安寺(大分県豊後高田市加礼川635) HP

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普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
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