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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂③

2024/10/26

義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまった2代柳川藩主・立花忠茂[1612~75]
実は、義祖父・道雪の法名を由来とする寺の宗派と名前も変えているのです。






天正3年(1575)立花山麓(現 福岡県新宮町)にある曹洞宗の花谷山神宮寺に、戸次道雪[1513~85]の継母・養孝院が葬られ、元中2年(1385)からの寺号が立花山養孝院と改められました。つづいて、天正13年(1585)に道雪も葬られ、法名「福厳寺殿梅岳道雪大居士」にちなんだ寺号「立花山梅岳寺」に改められます。


天正15年(1587)宗茂が柳川城主となると、梅岳寺も立花家の香華所として柳川の地へ移されますが、養孝院と道雪の墓はそのまま立花城下に残されました。

改易された宗茂が、柳川から離れていた間の梅岳寺の状況はわかっていません。


元和6年(1620)宗茂が初代柳川藩主として戻ってくると、曹洞宗梅岳寺は柳川城内の中核に復興されます。
ちなみに福嚴寺所蔵の戸次道雪肖像画の賛は梅岳寺3世・大機全雄、立花宗茂肖像画の賛は4世・賢鐵彦良によるものです。


寛文9年(1669)3代柳川藩主・鑑虎[1645~1702]により、梅岳寺は臨済宗黄檗派に転ぜられ、寺号が「梅岳山福厳寺」と改められます。
臨済宗黄檗派は、中国の僧・隠元隆琦[1592~1673]が開いた黄檗山萬福寺(現 京都府宇治市)を本山とします。明治9年(1876)に臨済宗から独立して黄檗宗となりました。
日本でいう「禅宗」は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗ですが、黄檗宗は、経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している点で、他の二宗と大きく異なります。


え!3代柳川藩主・鑑虎? 忠茂の話ではなかったの?


安心してください!

臨済宗黄檗派の梅岳山福厳寺が開かれたのは、2代柳川藩主・忠茂の意向でした。


承応3年(1654)中国・明の高僧である隠元が、招請により弟子たちと来日【忠茂43歳】
寛文元年(1661)徳川幕府のすすめを受け、隠元が中国の自坊と同じ名の「黄檗山萬福寺」を開く【忠茂50歳】
京都の萬福寺には、戒律を重んじる正統な中国臨済宗と厳格な仏教儀礼がそのまま移され、最新の中国生活文化が持ちこまれました。鎖国体制にあった当時、明僧と黄檗寺院は、日本人が接触できる数少ない異文化への窓口となったのです。


寛文5年(1665)前年隠居した忠茂【54歳】は、隠元の高弟・木庵性瑫[1611~84]と、江戸ではじめて面会します。隠元を追って来日した木庵は、この前年に法席を継ぎ、萬福寺2世住持となっていました。面会を機に忠茂は木庵と禅要の問答をくりかえし、延宝3年(1675)には木庵から嗣法するまでに至っています。同年、忠茂は自らの菩提のため、萬福寺に塔頭別峰院(開山は鉄文)を建立しました。

寛文9年(1669)3月 忠茂【58歳】と3代藩主・鑑虎【25歳】は、木庵と木庵の法弟・鉄文道智[1634~88]を江戸屋敷に招き、立花家の菩提寺である曹洞宗梅岳寺を黄檗派に転じて梅岳山福厳寺という新寺を開きたいこと、柳川藩出身の鉄文を開山に迎えたいことを願います。
当時、キリスト教禁制を目的に幕府が寺檀制度を確立させ、新寺の建立を禁止していたので、黄檗寺院の新設には転派や再興という名目が必要でした。

寛文9年(1669)8月求めに応じた鉄文は柳川に入り、福厳寺を開きました。

延宝2年(1674)10月1日 鑑虎による伽藍整備が進み、大雄宝殿、選仏場(禅堂)、禅悦堂(食堂)、方丈などの諸堂と釈迦三尊像、四天王像などの諸仏が開堂開光されました。
鉄文は藩内に次々と黄檗寺院を創建し、後継者たちも福厳寺の末寺を増やしていきます。黄檗寺院創建の波は柳川藩に限らず、日本全国に拡がっていました。



隠元の来日直後から、渡来中国僧との交流を求める大名や上流武士たちが少なくなく、彼らの援助により、およそ90年間で千寺以上の黄檗寺院が建立される勢いがありました。
しかし、後進のため檀家を得ることが難しく、中国僧の来日が途絶えた江戸時代中期には、無住に戻った寺もありました。さらに明治維新や廃仏毀釈により黄檗寺院は半減しますが、柳川藩領の黄檗寺院は明治5年(1872)時でも40ヶ寺を数え、他藩よりも格段に黄檗文化が根付いていたことがうかがえます。



黄檗文化!?

隠元さんが隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚、明朝体、原稿用紙などを持ち込み、日本の文化全般に影響を及ぼしたことは、歴史の教科書で読みました。
実際に、萬福寺や長崎興福寺などを拝観して、中国明朝様式の建造物に圧倒された思い出もあります。
ですが、長い歴史を誇るほかの禅宗をこえて当時の人々を魅了する力が、黄檗文化にあったのでしょうか?



幸いなことに、忠茂、鑑虎、木庵、鉄文がかかわって開かれた梅岳山福厳寺は、現在も立花家の菩提寺として、黄檗宗の法式による供養を続けられています。

江戸時代の大名280家余のうち、藩主が黄檗寺院に埋葬された家は20家ほどですが、一代限りの例がほとんどで、黄檗寺院を歴代の菩提寺とした家は多くありません。なかには明治時代に宗旨を神道に替えた家もあるので、菩提寺として旧大名家とのつながりを保ち続けている黄檗寺院は珍しいのです。
したがって、旧大名家の菩提寺で黄檗宗の法式による供養に参列する機会は、ものすごく希少だと言えます。

たまたま立花家の法要を覗き見する用件がなければ、わたしは今も「経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している」実態を知らないままでした。
この時はじめて、黄檗文化に傾倒した忠茂さんたちの気持ちを理解できました。






未知の文化に出逢った衝撃! このトキメキは見らんとわからん!

忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



戦国の世が過ぎ、体制が安定する手前の、落ち着かない時代を生きた忠茂さん。
宗茂の祖業を懸命に継ぎながら、時に福嚴寺を開いたり雷切丸を譲ったりと大胆さをみせるギャップが、大変興味深いです。



参考文献
錦織亮介「第4項 黄檗文化への傾倒」86-98頁(柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』2007.3.22 柳川市)、穴井綾香「黄檗禅への帰依」44-45頁(  柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市)

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【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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