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写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式

2024/8/2

立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……



わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。

明治7年(1874)12月29日、鑑寛は当時17歳の息子に家督を譲ります。さらに明治11年(1878)には東京を離れ、柳川に戻ってきました。
現在の国指定名勝「立花氏庭園」内に建てた屋敷にて、和歌や能などの趣味に邁進していたようです。



亡くなったのは明治42年(1909)2月24日、享年80でした。

葬儀は3月3日、立花家の菩提寺である福厳寺(福岡県柳川市)で厳かにとりおこなわれました。
残っている記録をみると、式場用の椅子机を借り入れたり、大導師以下各参列寺院の席次や受付などの役割を決めたりと、大がかりだったことが分かります。


115年前に撮影された、最後の柳川藩主のお葬式。

まず気になるのは、仮設の屋根。
今でも野外の行事に欠かせない仮設テントが、当たり前ですが藁葺きです。
祭壇は本堂を背にする位置に、南側の天王殿に相対して設えられています。
何よりも、すべて屋外でおこなわれるようです。



鑑寛の長男・寛治とその妻・鍈子が、それぞれ焼香をすませました。

寛治さんは洋装の礼服を着ているように見えます。
鍈子さんは和装の喪服でしょうか?白い喪服‼

「同令夫人御焼香済御復席」 拡大 白い喪服姿の令夫人

中央に鎮座する屋根付の六角柱は、鑑寛さんの棺でしょうか?



12代藩主 鑑寛については、この葬儀以外の写真は確認されていません。
肖像画も伝来していないので、オンラインツアーでじっくりとご覧いただく「徳川将軍参内式列画巻」の中に描かれている姿が、おそらく唯一の鑑寛像です。

実は、この絵巻を開いて見たことがある人は、ほんの少数。

立花家史料館蔵「徳川将軍参内式列画巻」

わたしも未見ですので、ワクワクしながらオンラインツアーを待っています。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。


◆◇◆ 立花家伝来史料モノガタリ ◆◇◆
立花家伝来史料として、現在まで大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語ってくれる歴史を、ゆっくり読み解いていきます。

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