〚館長が語る5〛立花宗茂、柳川藩主への復活
2024/8/1宗茂は、関ケ原合戦で敗軍の将となり、慶長6年(1601)に浪人の身となりました。
5年の月日が流れ、慶長11年(1606)9月ようやく2代将軍秀忠に拝謁が叶いました。長年の浪牢生活を終え、奥州南郷(現在の福島県棚倉町付近)に1万石の領知を与えられ、大名という身分に復帰することができたのです※。
※ 徳川将軍の家臣のうち、知行高1万石以上からが「大 名」となり、1万石未満のものは「直参 ジキサン」と呼ばれます。
さらに慶長15年(1610)、宗茂は加増を受け、領地高は3万石となります。
実は、これまで煩雑さを避けるため、立花宗茂という名に統一して書き進めていますが、正式に「宗茂」と名乗るのは、この年からなのです。
旧家臣に送った加増を知らせる書状に「かたじけなき仕合せ、御推量あるべし」と書いているように、このめでたい加増を喜んだ宗茂は、この機に改名したことが想像されます。
これまで、波乱に満ちた人生の運気を切り開こうとするが如く、統虎 ムネトラ、宗虎 ムネトラ、正成 マサナリ、親成 チカナリ、政高 マサタカ、尚政 ナオマサ、俊正 トシマサ、と次々と名を変えてきましたが、「宗茂」となってからは生涯この名を使い続けます。
南郷に領知を得た後も、将軍の側近く仕えるため江戸を離れることがあまりなかった宗茂に代わって、家臣の由布 ユフ 惟次 コレツグ、斎藤統安 ムネヤス、十時 トトキ 惟昌 コレマサ、因幡宗糺 ソウキュウらが在地で支配に当たっていました。
この頃の宗茂は、秀忠の警護や江戸城の守衛としての役にあったようです。
慶長19年(1614)の大坂の陣では将軍の軍事的相談役を務めたと言われるように、武人として高い信頼を得ていたことが想像されます。
関ケ原合戦ののち、筑後国は田中吉政の領地となりましたが、2代忠政は跡継ぎがないまま没してしまったため田中家は改易されることになり、宗茂は欠国となった筑後の柳川へ再封の決定が下されることになったのです。
この再封がなぜ実現したのか、ひと言では説明できませんが、宗茂のそれまでの実直な生き方と彼を支えた人々との絆がこの奇跡の復活に導いてくれたものと思います。
慶長5年(1600)の柳川城開城からちょうど20年後、再び大名として 柳川城へ入城したのです。
宗茂54歳の早春、激動の時代をくぐり抜け、静かに力強く柳川藩10万9千石の大名家当主として新しい時代が始まったと言えるでしょう。
これまでに開催された立花宗茂をメインテーマにすえた特別展は3回。
上記節目のほか、宗茂生誕450年を記念した「立花宗茂と柳川の武士たち」[ 2017.12.9~2018.2.4]が、柳川古文書館と立花家史料館とで共催されました。
このとき当館が作成したDVD版電子図録が、現在入手可能な唯一の展覧会図録となります。本図録では、両館の学芸員による詳しい解説とともに、宗茂と立花家家臣団の足跡をたどる文書資料と武具甲冑などの美術工芸品とを、デジタルならではの高精細画像で楽しめます。
特別展『立花宗茂と柳川の武士たち』DVD電子図録を販売中
文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/
「立花宗茂と誾千代」NHK大河ドラマ招致委員会では、二人を主人公とした大河ドラマ招致活動の輪を拡げていくため、応援する会を発足し、相互交流、情報発信をしています。
入会金や年会費などは必要ありません。
ぜひ、一緒に招致活動を盛り上げていきましょう。