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高橋紹運が立花宗茂へ譲った「剣 銘長光」【重文】①

2024/11/22

江戸時代の柳川藩主立花家は、大名の家格にふさわしい刀剣を多数所持していたはずですが、当館が所蔵する伝来の刀剣は20口にもおよびません。
逆にいえば、立花家において重要な意味をもつからこそ、これらの刀剣は様々な事情を越えて残されてきたのです。
実際、それぞれの刀にまつわる逸話には、立花家の歴史が映し出されています。


柳川藩主立花家にて代々大切に受け継がれてきた刀の由来を記録して残そうと、明和4年(1767)に担当係の「御腰物方」が吟味の上まとめた「御腰物由来覚」 には、133口の刀剣が記載されています。
その筆頭には、徳川将軍家から歴代の柳川藩主が拝領した「刀 無銘 左文字」「短刀 粟田口則国」「刀 備前正恒」「刀 無銘 延寿」「刀 無銘 了戒」「小脇指 筑州左文字」の6口が列記されますが、すべて立花家から離れてしまいました。


将軍からの拝領刀の次、7番目の刀剣が、立花家史料館が所蔵する「剣 銘長光」【重要文化財】です。

「剣 銘長光」【重要文化財】 立花家史料館所蔵

「御腰物由来覚」の「一 長光 銘有 八寸壱分 御剣」の項を3行にまとめるとこんな感じ。

柳川藩士が著した『浅川聞書』には、戸次道雪の養嗣子となる日に、15歳の立花宗茂が父の高橋紹運から本剣を譲られたという逸話がある。初代柳川藩主・宗茂の秘蔵であったが、2代・忠茂の代に立花家を離れ、後に矢島家から戻された。

〚CM〛11月30日(土) 15時~ オンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」の解説冊子(B6カラー52頁) では、この逸話を詳しく解説! ご興味のある方は⇒



つまり、天正9年(1581) に宗茂へ譲るまで、「剣 銘長光」【重要文化財】の所有者は高橋紹運〔1549~86〕 でした。
紹運のゆかりの品はほとんど現存していないので、彼の形見としても貴重な1口です。


実はこの剣について、気がかりな点が2つあります。


1つは、「剣 銘長光」の名刀たる所以です。

もちろん私は、端正な姿と澄んだ地鉄に映える沸づいた乱刃調の刃文とが絶妙に調和した本剣を、誇りに思っています。ただ、本剣は長光としてはイレギュラーな作例なのです。


長光は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町長船地区)で活動していた刀工です。名工として技量が高かったといわれます。
現在、34口が国宝・重要文化財に指定されていますが、剣2口、薙刀2口のほかはすべて太刀(金象嵌銘と無銘の刀を含む)です。この傾向は、指定されている13口のうち、薙刀直シ刀1口、剣2口のほかはすべて短刀という吉光と対照的ではないでしょうか。


当館所蔵の【国宝】短刀 銘吉光は、ほかの作例と比べた上で優品だと断言できます。

しかし、長光の他の剣を実見できてない私に、本剣をほめたたえる資格があるのでしょうか。
「それってあなたの感想ですよね」って言われたらどうしよう。


そんな私に朗報です!

望月規史氏(九州国立博物館 主任研究員)と杉原賢治氏(備前長船刀剣博物館 学芸員)というスペシャリストが、当館所蔵の「剣 銘長光」「刀 無銘伝兼光」を中心に「備前刀」を 解説するオンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」が開催されます!

〚CM〛LIVEツアー は、展示室では見られないアングルで撮影した映像と専門家の解説、チャット機能を利用した質問対応と臨場感も楽しめます。アーカイブ視聴期間は約1ヶ月間、別途撮影した「剣 銘長光」の映像も追加予定です。 ご興味のある方は⇒



本剣についての忌憚のない評価がうかがいたいと、今回のオンラインツアーを心待ちにしています。


ところで、さきほど国宝・重要文化財に指定されている長光作と吉光作の刀剣を数えましたが、あわせて4口の剣のうち、3口は神社の所有となっています。
偏見ではありますが、剣には寺社仏閣が似合うようなイメージがあります。

高橋紹運は、なぜ「備前刀」の剣の優品を所有していたのでしょうか?

この気がかりについては、次回考えてみます。




オンラインツアーの前にコチラのブログもどうぞ

【ココまで知ればサラに面白い】
普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
⇒これまでの話一覧   ⇒●ブログ目次●



 

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立花宗茂、下り汽車で柳川へ帰る

2024/11/4

明治36年(1903)から昭和53年(1978)まで柳川で発行されていた新聞『柳河新報』

大正14年(1925)9月19日の3面にこんな記事が。

宗茂公の御遺骨帰る 
代々の藩主のも臣下のも共々菩提寺福厳寺に帰葬

山門郡柳河旧藩主立花宗茂公 二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 及家臣の遺骨二十七個 其他 各遺物数個は既報の通り 東京都下谷区広徳寺住職福富龍瑞師 及並に安東家扶の随供にて去十四日午前九時四十分の下り列車にて矢部川駅着

同駅には吉田 大村 両家扶を始め 各家従 其他 有志多数の出迎へ 各遺骨は二台の自動車に乗せ 出迎への一同は数台の自動車に分乗し 沿道は伝習館、女学校、盲学校 其他 各小学校 一般有志の参列者 柳河町より城内へ数丁に亘り 同午前十時五十分 立花家菩提所城内村福嚴寺に到着 立花寛治伯 同夫人 令嗣鑑徳氏 夫人 及御家族の出迎にて福嚴寺御堂に入り厳粛なる帰葬を執行し 龍岡同寺住職 以下各宗僧侶数十名の読経 導師の香語に次で 立花伯爵夫妻を始め一門の人々の焼香参詣し 午後一時頃終了したが 会葬式者は 城内村軍人分会員、同村青年団会、處女会員、柳河婦人会員及び一般有志 五百余名に上つた



初代柳川藩主・立花宗茂が柳川に帰ってきました!

大正14年9月14日午前9時40分矢部川駅(現 JR九州鹿児島本線瀬高駅)着の下り列車にて、初代柳川藩主・立花宗茂をはじめ広徳寺や宗雲院に埋葬されていた御遺骨が福岡県柳川へ帰ってきました。

東京からの下り列車に乗って!

宗茂にとっては、島原の乱が終結した寛永15年(1638)3月頃、江戸へ戻る前に柳川城に立ち寄って以来、およそ240年ぶりの柳川入りです。


大勢の出迎えの人々が、柳河町から城内への数丁の沿道に並んでいたようです。

おそらくはこんな感じで。

こちらは、宗茂の帰郷から10年後に撮影された動画です。
昭和10年(1935) 4月立花伯爵家の一人娘・文子が、元帥島村速雄の次男・和雄と結婚、披露宴のため柳川に帰郷しました。動画冒頭では、矢部川駅から立花邸までの道沿いに並ぶ、出迎えの人々が映されています。



午前10時50分、車は柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺(現 柳川市奥州町)に到着、子孫の立花伯爵家家族に出迎えられました。福嚴寺でも僧侶数十名により読経と500余名の焼香参詣をうけるほどの歓迎ぶりでした。

立花伯爵家の経営庶務を担当する家扶・家令が残した記録「立花家令扶日記」からは、新聞記事の内容に加えて、一般参拝者に茶菓が配られたこと、広徳寺住職は大和屋に宿泊、翌日に立花伯爵と晩餐を共にしたこと等もわかります。

「立花家令扶日記」では、大正14年12月19日に「大円院様御始メノ御遺骨福嚴寺ヘ御合葬」、12月26日に「御合葬御改葬ノ諸霊ノタメ福嚴寺ニ於テ御供養」と記されているので、東京からの改葬の一件は12月まで続いたようです。



他の一族も帰ってきました。

翌大正15年(1926)7月17日の『柳河新報』の見出しはこちら。

「祖先の御遺骨 東京谷中の寺院より福厳寺へ御改葬」

このときは「東京谷中の本誓寺及霊岸寺御墓所へ御埋葬の玉樹院様、瑞松院様、長寿院様始め十七霊の御遺骨」が「去十六日午後三時十分の矢部川駅着の列車」で帰ってきました。
ひと月のうちに各々が良清寺や瑞松院などに改葬され、供養されています。



柳川藩主立花家の遺骨が柳川の福嚴寺に集められた契機は、大正 12 年(1923)9月1日の関東大震災だと推測されます。東京市内の多くの寺院が大火災により焼失、復興にともなって境内地や墓地の区画整理がおこなわれました。

例えば広徳寺は、都市復興計画に従って郊外移転が促進され、大正14年3月下練馬村(現 東京都練馬区)に約1万坪の土地を購入、5ヶ年計画で下谷区(現 東京都台東区)から移転しています。
移転計画準備中に数度調査に出かけたという墓蹟研究家・磯ケ谷紫江は「当時の墓石は二千六十四基で、そのうち一千二百十六基が有縁であった。改葬の際には無縁の一片の骨も残らぬよう堀かへし、打ちかへして拾い出しては練馬の新墓地に埋葬したと云う。」(磯ケ谷紫江 『廣徳寺共葬墓所考』1959.11.15 紫香会)と回顧しているので、広徳寺の墓所が掘りかえされるなら、国元の柳川へ帰そうと考えられたのでしょうか。

磯ケ谷紫江 編『広徳寺共葬墓所考』,紫香会,1959.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕



しかし、関東大震災より以前に、東京から柳川へ帰ってきてる方もいます。

大正14年(1925)9月19日 『柳川新報』の記事には「立花宗茂公同二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 」とありますが、実は忠茂さんは同行していません。
東京小石川徳雲寺に葬られていた忠茂と正室・法雲院の遺骨は、大正13年秋頃にすでに移され、忠茂は福嚴寺に、法雲院は法雲寺(現 福岡県大牟田市倉永)に改葬されています。このときは何があったのでしょうか。


辿ってきた経緯はそれぞれですが、 立花宗茂や忠茂はじめ旧柳川藩主立花家一族たちの多くの方が、今は福嚴寺で眠られています。静穏な菩提寺が後世まで守られ続けることを願ってやみません。




参考文献
福富以清『廣徳寺誌』1956.12.1 廣徳会

【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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