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〚館長が語る〛柳川城主となった立花宗茂

2024/6/1
立花宗茂[1567~1642]

豊臣秀吉にその武功を高く評価され、大友家の家臣から豊臣大名となり、柳川に領知を得た立花宗茂は、妻誾千代を伴って柳川城へ移ることになりました。
天正15年(1587)6月のことです。












間もなく宗茂は、隣国の肥後で勃発した国衆の一揆※討伐に加わります。
宗茂にとって豊臣大名となって初めての戦となったわけですが、そこでの戦功が際立っていたことが秀吉の朱印状に記されています。

※肥後国衆一揆…天正15年、秀吉に肥後を与えられた佐々成政は検知を行うが、それを拒否した隈府城の隈部親永に肥後の国人衆が加担して大規模な一揆に拡大した。秀吉は小早川秀包を総大将とし、筑後、肥前の諸将を討伐に向かわせた。



宗茂はその後、誾千代と共に初の上洛を果たし、若き豊臣大名として大坂と柳川を頻繁に行き来しながら柳川の統治を進めることになります。宗茂22歳のときでした。



そして文禄元年(1592)、秀吉の「唐入り」にあたり、宗茂は小早川隆景を主将とする第六軍配属され朝鮮半島へ渡ります。


小早川隆景 [1533~1597]

隆景は、すでに実父と養父を亡くしていた宗茂にとって第三の父とも言える人物です。
若い宗茂に大きな影響を与えた武将であり、これまでの活躍から宗茂に対して高い信頼を置いていたようです。









その期待に応える働きをした宗茂は加藤清正や島津義弘をはじめとする西国大名と固い信頼関係を築くことになります。








誾千代[1569~1602]

一方、誾千代は柳川城の南にある宮永という地に館を建て、城を出て別居することになりますが、その時期は、文禄4年(1595)と慶長4年(1599)の二つの説があります。









いずれも、2度にわたる宗茂の朝鮮出陣直後のことですので、この大きな戦の間に二人の関係に何かがあったのではないかでしょうか。

資料が残っていないため想像の域は出ませんが、初代道雪の娘であり元城主であった誾千代と、婿でありながら秀吉に見いだされて一大名へ出世を果たした宗茂には、それぞれに強い忠節を抱く家臣がおり、そのバランスの危うさも別居の背景にあったのではないかと考えられています。



豊臣秀吉 [1537~1598]

慶長3年(1598)、豊臣秀吉死去の後に朝鮮から帰国した宗茂は、その1年7か月後に天下分け目と言われる関ケ原合戦において、西軍に加担します。









ここに至る経緯については資料が乏しく不明ですが、島津義弘が遺した文書によると「秀頼様に対したてまつるご忠節のため、御軍役の人衆過上の由」と記されているように、軍役の規定を大きく上回る大軍を派兵したとされ、強い決意をもって西軍に投じたことがわかります。



しかしながら、大津城を攻略していた宗茂の軍は関ケ原合戦の本戦には間に合わず、そのまま敗軍の将として無念の思いを抱きつつ九州へ帰還することになりました。



この戦の後、宗茂の人生は大きな試練の時を迎えることになります。





文: 植野かおり(公益財団法人立花財団 立花家史料館 館長)
イラスト:大久保ヤマト(漫画家・イラストレーター)
ホームページ「猛将妄想録」http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/

大久保ヤマト氏イラストの【 宗茂と誾千代キャラクターズバッジ】 をお手元に





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