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柳川藩主立花家に伝来した刀「雷切丸」

2024/1/30

脇指 無銘「雷切丸」は、その名のとおり戸次道雪が雷を切った刀として、柳川藩主立花家に伝来しました。

脇指 無銘 雷切丸 鎌倉時代~室町時代 刃長58.5㎝ 立花家史料館所蔵



まずは、戸次道雪[1513~1585] ってどんな人?

戸次 ベッキ 道雪ドウセツ は、戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪です。

豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。


江戸時代を通じて柳川藩11万石を治めた近世大名立花家の初代として数えられています。




「雷切丸」の由来について、立花家に残る文書のなかで、現時点で確認できる最古の記録は、明和4年(1767)10月にまとめられた「御腰物由来覚」です。

この「御腰物由来覚」は、立花家で代々大切に受け継がれてきた刀の由来を、今までのような口伝えでなく、きちんとした記録として残そうと、担当係(御腰物方)で相談し、寛永年間(1624~44)から当時までの所蔵刀剣について吟味の上、作成されました。

この 「御腰物由来覚」の 翻刻 が、『柳川の美術Ⅱ』に掲載されているので、「雷切丸」の項を全文引用してみます。

柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』(柳川市 2007.3.22発行、2020.3.31第二刷)409頁掲載の翻刻を引用。ただし読みやすいように、異体字、合字、変体仮名を通用の文字に改めています。

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「御腰物由来覚」の 「雷切丸」の項を読んでみましょう。

一 雷切丸 無銘 壱尺六寸七分半 御脇差

右は道雪様御差也、雷切と申訳は、鑑連公未豊後国南郡藤北之御館に被成御坐候節、炎天之比 大木之下に御涼所御しつらい、此所へ或時 被遊御昼寝候節 雷落けり、御枕元へ御立て被置候千鳥とゆふ御太刀を被遊御祓合セ、雷を御切被成、早速御涼所を御立退被成候、夫より以来御足御痛被成、御出陣にも御乗輿ニて被遊御出候、然とも御勇力御勝レ被成たるゆへ、常躰之者之達者より御丈夫ニ被成御坐候、且又比御太刀最初は千鳥と御附被成候得ども、雷御斬被成候以後其印御太刀有之故、夫より此御太刀雷切と御改名被成候、

この刀は道雪様の所用刀である。雷切という名の由来は次のとおり。
鑑連公がまだ豊後国藤北館(現在の豊後大野市)にいたとき、炎天のころ大木の下に涼所を設けていた。

あるとき、そこで昼寝をしていたら、突然の落雷。枕元の刀を抜いて雷を切り、すばやく涼所から立ち退いた。

それ以来、足が痛み、出陣に輿を使用するほどであったが、勇力に勝れていたので、並の武者よりも活躍した。最初「千鳥」と付けられていた太刀は、雷を斬った印があるため、「雷切」と改名された。

ここまでが、道雪が雷を切った場面です。

このくだりは、「御腰物由来覚」から100年程さかのぼった、寛永12年(1635)の自序がある『大友興廃記』にも描かれています。

戸次鑑連いまた南郡藤北に居住のとき、炎天のころ、大木の下にすゝみ所をこしらへ、ひるねして有りし、おりから雷鳴落、まくらもとにたてをきたる千鳥といふ太刀を抜あわせ、雷をきりてすゝみ所をとひさりぬ、それより以来足かたハにして、出陣も輿ならてハ不叶されとも、勇力のすくれたるに依て、常の者達者成にハまされり、扨千鳥と云太刀雷にあたりたるしるしあり、それより此太刀を雷斬と号せられたり
『大友興廃記』巻六「鑑連雷を斬事』

大友氏の興亡を大友義鎮、義統の2代を中心に描いた軍記『大友興廃記』の作者は、豊後国佐伯の領主に仕えた杉谷宗重とみられています。昭和初期にはじめて活字化されるまでは、写本で存在が知られていました。

「御腰物由来覚」と共通する表現が多いので関連はありそうですが、現時点では何とも言えません。ただ、江戸時代初期には、道雪が雷を切った刀のことは、知る人ぞ知る話であったようです。



「御腰物由来覚」の「雷切丸」の項はまだ続きます。

好雪様御代大膳様へ被進之候、然処 大膳様御逝去被成候節、御道具皆御払に相成よし、此□此御太刀も御払相成可申之処、矢嶋石見殿御聞付被成、此太刀者払抔へ差出候物ニて無之、大切之御重宝ニて有之候間、御取被成候由、夫より矢島采女家ニ持伝居申候処、 鑑通公御代宝暦九年卯之 御発駕前、矢嶋周防進上之、但白鞘ニて差上ル、三原之由承伝之処、同年六月御拭之節、本阿弥熊次郎へ見セ申候処、相州物之由申候、宝暦十辰十二月右雷切差上候為代リ大和守安定御小サ刀被下之、但白鞘、
 雷御切被成候年号不相知、追て吟味之上書載之事

その後この刀は、初代藩主・宗茂から2代藩主・忠茂へと渡り、さらに忠茂から息子の大膳(茂辰、吉弘氏を名乗るが20代で早世)へと渡る。

大膳の没後、この刀も遺品分与の対象となっていたが、弟の矢嶋石見(行和/立花茂堅)が聞いて、この刀は分与するものでなく「大切の御重宝」であるとして、矢嶋家にて伝えることにした。

7代藩主・ 鑑通の代になり、宝暦9年(1759) に江戸へ出立する前、矢嶋周防がこの刀を白鞘におさめて鑑通へと進上した。それまで三原の刀だといわれていたが、同年6月に刀剣鑑定を家業とする本阿弥家の一門の熊次郎が、相模国(現在の神奈川県)の刀工の作と判断した。

宝暦10年(1760)12月に、この雷切の代替として、白鞘におさめた大和守安定の小サ刀(脇指)が矢嶋家へと下賜された。

雷を切った年号は現時点ではわからないので、あとで調べて書くことにする。


結局、追記はなく、雷を切った年号は不明なまま「雷切丸」の項は終わります。

しかし、時代は下がりますが、天保年間(1830~44)頃に立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、戸次道雪の重要な経歴が書き上げられているなかに、

天文十六年丁未六月五日 雷斬ル 時年三十五歳

と記されています。
西暦に換算すると1547年6月22日……この年月日の根拠は全くわかりませんが、雷を切ったことが特筆すべき業績とされているのが、非常に興味深いです。



実は、道雪の40代以前の経歴はあまり分かっていません。
道雪は天文19年(1550)に戸次家の家督を甥の鎮連に譲りますが、この頃から政治・軍事的な活動が本格化していきます。一人娘の誾千代が生まれたのは、永禄12年(1569)56歳の時です。
現時点では、道雪の足が不自由であったかどうかも、一次資料では確認できていないのです。


また、「雷切丸」の刀身が短くされ、太刀から脇差となった経緯もよく分かっていません。本阿弥家により「相州物」と鑑定されていますが、大磨上無銘となる現状の刀身からは、相州伝と確定するのは困難です。



ただ確実なのは、道雪が雷を切った刀として「雷切丸」が立花家の血筋に伝えられて来たこと、当館で雷切丸を展示できるのは矢嶋家のオカゲだということです。

そして今、「雷切丸」は私たちも驚くほどの知名度を誇り、多くの方々に愛されています。

矢嶋さん、本当にありがとう。



「雷切丸」や「短刀 銘吉光」【国宝】、「大友家文書」【重要文化財】や「立花家文書」【重要文化財】のことを解説するオンラインツアーを開催します。
道雪のことをもっと詳しく知りたい方にも、おススメです。【終了しました】






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【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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河上信行氏と国指定名勝「立花氏庭園」

2024/1/11

わたしのブログ初投稿から、ちょうど1年が経過しました。


当初は、美術工芸品を専門とする学芸員として、当館所蔵品を次々と紹介しようと考えていましたが、ふりかえると、自分勝手に【立花伯爵邸たてもの内緒話】と銘打った、 国指定名勝「立花氏庭園」内の建物の話がメインとなってしまっています。

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の建物・庭園の、内緒にしている訳ではないのにどなたもご存知ない、本当は声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
また、(株)御花 が取り組んでいる文化財活用の一環である、平成28~31年(2016-2019)の修復工事の記録や裏話もあわせてお伝えします。



専門外のわたしが、なんとか建物を解説できているのは、修復工事などの庶務を担当するなかで、河上先生から薫陶を賜ってきたからです。



河上信行氏[株式会社河上建築事務所 所長] は、平成17年(2005)3月に発生した福岡県西方沖地震による災害復旧工事の設計監理を皮切りに、国指定名勝「立花氏庭園」内の文化財建造物と真摯に向きあい続けてくださいました。
本当に、令和3年(2021)1月11日に他界されるまで、ずっと。


河上先生による徹底的な調査と、それを基とした設計図面の作成をもって、平成28年度(2016)に「名勝立花氏庭園大広間・家政局修理工事」がはじまります。

しかし、その着工直前の平成28年(2016) 4月に熊本地震が発生。

予定を変更することなく修理工事を進める一方で、熊本地震で受けた被害状況の調査から修理まで請け負ってくださいました。本当に心強かったです。



床下から天井裏まで、「立花氏庭園」の文化財建造物のなかで、河上先生が知らない柱は1本もないといっても過言ではありません。


庶務をつとめはじめた頃のわたしは、「縦の棒が柱で、横の棒が梁」レベルの知識しかなく、専門用語の多い早口な河上先生のお話を、2割くらいしか理解できない不甲斐なさでした。

そのわたしが今、多少なりとも建築について書けているのは、未熟者を見捨てず、慌ただしい現場でトンチンカンな質問してもご教示くださった河上先生のオカゲであり、先生が残してくださった2冊の報告書『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』と『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』 のオカゲです。



令和2年(2020)3月に、河上建築事務所 編集『名勝立花氏庭園 大廣間・家政局他保存修理工事 石積護岸災害復旧工事報告書』が無事に発行された後、河上先生は、お手元に蓄積されていた「立花氏庭園」関連のすべての膨大なデータ、 調査で撮影した写真や自身が作成した図面、工事関連の事務書類などを、丁寧に整理してまとめた上で、譲り渡してくださいました。

「自由に使ってください」
「え~いいんですか?大変大変ありがたいです。有難うございます。じゃあ、必ず先生の名前を出しますね」
「いりません、名前なんか出さなくて結構です」

というやりとりの末、とても心苦しいのですが、河上先生のこだわりの美意識を尊重しています。
逐一明記はしてきませんでしたが、図面はもちろん、写真についても河上先生の助けを大いにお借りすることで、 【立花伯爵邸たてもの内緒話】 は成立できているのです。



河上先生に頼りきりながら 【立花伯爵邸たてもの内緒話】を書き続けている根源には、河上先生の言葉があります。

「立花家が苦労して維持してきた御花は、柳川の個性であり、歴史です。ここまで残されてきたのは、立花家のみならず柳川の人々が愛情を持っていたからだといえます。心の拠り所にしてきたからこそ、子孫のために残したいと思う。文化財はその地域の人々に愛されてこそ守られていくのです」

建築への興味が薄かったわたしが、建築の知識や修復工事の苦労話など、知れば知るほど立花伯爵邸への愛情を増やしてきたように、ブログを読んだ方が「立花氏庭園」に関心を抱き、もっと知りたい、実際に行ってみたいと思ってもらえれば、とても嬉しいです。



『OHANA Story』2006年夏号 (株)御花作成 より

「歴史の蓄積を感じさせる、品格のある建物」

・江戸時代からの流れを継ぐ大名屋敷でありながら、内部には明治期以降の近代和風建築技術が随所に見られ、そのバランスこそが正統な品格を醸し出している。

・文化財的価値として特筆すべきは、接客空間である西洋館と大広間だけでなく、立花家家族たちの寝室であった小部屋棟、事務方が使っていた御役間という内向きの建物が残っていること。明治期の大名屋敷が、機能別に残っているのは稀。

河上先生による立花伯爵邸の評価



河上先生の理念は、常に一貫していました。

「文化財の宿命的な課題が、保存と活用です。こと、建物に限っていうと、活用されてこそ後世に受け継がれていくのではないでしょうか。」



河上先生から託されたバトンを、次へと渡していけるよう精一杯がんばります。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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上げ下げ窓を上げ下げする機構

2024/1/8

前回にて繰り返しご覧いただいたように、明治43年(1910)築の立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、とても軽やかに上げ下げできます。




立花伯爵邸西洋館の窓はどれも大きいのですが、その大きさに見合った重さを予想しながら窓を開けると、肩透かしを食らいます。

名勝松濤園修理事業委員会・河上信行建築事務所『名勝松濤園内御居間他修理工事報告書』より



どうしてこんなに軽いのでしょうか? タネやシカケはどこに?

わたしには何の変哲もない木造の窓枠しか見えません。



株式会社 御花は、平成25年から27年(2013~15)の3ヵ年にわたり、外壁のペンキの塗り替えを主とする、西洋館のメンテナンス工事を実施しました。災害復旧にくらべると急を要しないため、閑散期である夏季に集中して施工されました。



外壁だけでなく、窓の状態もかなり悪化していたので、西洋館のすべての窓を取り外して、点検・修理をしていきます。

メンテナンス工事前 左下隅のガラスが抜けています

窓を取り外している現場では、予期せぬ”力技”に驚きました。

※5倍速



作業のお邪魔にならないよう注意して、もう少し近寄ってみます。
(手ブレがひどく、ピントがズレている点はご容赦ください)

※音声注意

あらこんなところに、紐と錘と……滑車?



タネとシカケがここに‼



立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓は、「分銅式」の錘 オモリ を用いた機構により、上下の窓がどちらも自在に動かせる「両上げ下げ窓」です。
窓と同じ重さの分銅がバランスをとることで、小さな力での開閉や、開閉状態の固定が可能になっています。窓枠に仕組まれた分銅は、窓枠上部に取り付けられた滑車を介して、窓の両側とロープで繋がり、窓が分銅で吊るされたような形になっているのです。エレベーターと同様の仕組でもあります。

実際、メンテナンス工事の際に錘を量ると、およそ4.5kgほどでした。つまり、窓1枚の重さは4.5×2=9kgとなります。

ちなみに「上げ下げ窓」は、「引き窓」と比べると、戸車がないため気密性が高まる一方、上下に開口部をつくれるため換気効率も上がります。構造上外から開けにくいため、防犯面も安心です。



立花伯爵邸西洋館の各窓枠には、上下2枚の窓と、ロープでつながる4つの分銅が収まっていますが、100年が経過するなかで、木製建具がゆがんだり、ロープが切れたり、滑車が回らなくなったり、分銅が腐食したりと、様々な不具合が生じていました。

メンテナンス工事では明らかな不具合は修理しましたが、建築当初の素材や機構をできる限り後世に伝えたいと、切れずに残っていたロープや分銅など、経年劣化が明らかな部品でも、なるべく現役で頑張ってもらっています。

ですので、

100歳を超えた木造建築に斟酌していただき、通常のご見学時には、窓の開閉はご遠慮ください。



その代わり、いつでもこちらで、宗茂さんと誾千代さんが上げ下げ窓を上げ下げしている様子を御覧いただけます。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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上げ下げ窓を上げ下げする

2024/1/2

2024年、令和六年 甲辰歳がはじまりました。



新年

あけましておめでとうございます。

※ぜひ音声付でご覧ください





このブログのため、柳川藩初代藩主・立花宗茂【立花家史料館公式キャラクター】に、明治43年(1910)に建てられた立花伯爵邸西洋館の窓を、開け閉めしてもらいました。




せっかくですので、宗茂の正室・誾千代姫 【立花家史料館公式キャラクター】 も。



お分かりいただけましたでしょうか?

宗茂さんも誾千代さんも、とても軽やかに窓を上げ下げしています。

*通常のご見学の際は、建物に手を触れないようお願いしていますので、特別な許可を得て、御二人に代行してもらいました*



ご覧のように、力を全く込めずとも、窓はスッと上がります。
閉めているときのギギギ音は、110歳を超える木造建築の音で、窓の重さには由来しません。

立花伯爵邸西洋館の窓はすべて「上げ下げ窓」、なかでも上下両方の窓が動かせる「両上げ下げ窓」です。文字通り、窓を上下にスライドさせて開閉します。

実は、軽やかに上げ下げさせる機構が、窓枠内部に仕込まれているのですが、それはまた別のおはなしで。




手を放しても、自然と上がっていく軽やかさを、もう一度ご覧ください。

この立花伯爵邸西洋館の上げ下げ窓のように、
本年が、軽やかで苦労がない一年となりますように。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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