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立花伯爵邸「家政局」七変化

2023/9/24

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。

まずは前回の、「大広間」修復工事のビフォーアフターをご確認ください。





そして、「家政局」のビフォーアフターは、こうなりました。

どうして…どうして…




安心してください。

取り戻したかった、100年前の「家政局」の姿は、こちらなのです。

おそらく昭和40年代(1965~75)の「家政局」



ただし、この写真は昭和40年代(1965~75)に撮影されたと推測されるもので、厳密には100年前の姿とは言えません。
実は、「家政局」の昔の写真は、あまり残されていないのです。



明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸は、西洋館・大広間・御居間・御子様御部屋・仏間・御宝蔵・女中部屋などの多くの棟が連なり、廊下で繋がれていました。

立花伯爵邸全域の航空写真 1930~1937年



「家政局」棟は、木造2階建。1階に家政局の事務所と職員の控室が、2階には会議室2部屋と客間1部屋が設けられていました。
もともと家政局とは、伯爵立花家の財産管理などを担う家政機関の名称です。
当時「御役所」と呼ばれていたオフィス棟を、今は「家政局」と呼んでいます。

現在、伯爵邸時代に撮影された「家政局」の外観写真は、撮影日が不明の、この2点しか確認できていません。伯爵立花家の家族が生活する場所ではなかったので、立花家のアルバムに写真が残されなかったのです。



立花家のアルバムに残る「家政局」っぽい室内写真は、今のところコレだけ。
上の2点の外観写真の、高欄の形などから推測しました。

伯爵邸時代の「家政局」?の室内写真
「家政局」は昭和62年(1987)頃にサッシ窓に替えられました。

イヌ、かわいい。


ですが、伯爵邸時代の「家政局」については、また別のおはなしで。

オンラインツアー「時空を越える旅ー立花伯爵邸オンライン探訪ー」 (2023.11.28開催)では、名勝「立花氏庭園」内に現存する文化財建築のルームツアーをしながら、近代和風建築の見どころや立花伯爵邸の秘話などを解説します。◆解説ブックレット(A5版フルカラー 32頁)付




時代はとんで昭和20年(1925)、第二次世界大戦の終結後。
戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なったため、立花家は収入源を確保しようと、 料亭・旅館業をはじめます。

昭和25年(1950)5月、立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。
立花家が伯爵ではなくなると、家政機関は不要となり、「家政局」は役割を失います。


立花家17代目の想い出話では、16代当主・和雄は、空きスペースとなった「家政局」を赤の他人に気前よく貸し出し、そのあげく「家政局」でダンスホールが営業されていた時もあったようです。 *これもまた別のおはなしで。



現時点で最も古い、撮影日が確かな「家政局」の写真は、昭和45年(1970)10月30日、「焼肉とイタリアンスナック 御花 一番館」オープン時のものです。

当時「家政局」は60歳、外観を一変して再出発がはかられました。
墨漆喰の黒壁を、なまこ壁風白壁に変えたところに、当時の流行を感じます。
ただし、骨組は変えていません。



昭和39年(1964)の東京オリンピックと昭和45年(1970)の大阪万博を画期として全国的に整備された交通網が牽引し、マイカーの大衆化や高速道路網の発展が推し進めた観光ブームは、柳川にも波及しました。

はじめは伯爵時代の建物・食器・布団などを贅沢に流用して料亭旅館を営んでいた立花家も、昭和46年(1966)に株式会社 御花となり、観光ブームに乗り遅れないよう設備の充実をはかるようになります。
「家政局」の改装も、その一環でした。



「御花」を訪れる観光客はドンドン増え続け、昭和49年(1974)には10万人、昭和56年(1981)は20万人を突破します。



観光地として大賑わいをみせる「御花」では、ホテル棟やレストラン棟が新築され、代わりに「焼肉とイタリアンスナック御花 一番館」は閉店します。

今度は「御花」の来園受付兼土産物店となった「家政局」。
当時は団体旅行で来園した大勢の旅行客がひっきりなしに出入りして、芋の子を洗うような混雑も見られたようです。

残念ながら、当時の写真はありませんが、修復工事の直前の「家政局」のそこここにも、往時の名残が感じられます。



平成6年(1994)に、ショップ「お花小路」を併設した史料館棟が新築、受付の機能が他に移されたため、再びお役御免に。その後は、株式会社御花の事務所として使われるようになりました。

しかし、現代オフィスには必須の、電気設備も空調設備もネット回線も想定されていない旧「家政局」は使い勝手が悪く、すきま風に煩わされない現代建築への大改装を望む声が日に日に大きくなっていきます。


ちなみに、家政局の別の一区画では、すでに昭和26年(1651)頃から柳川藩主立花家に伝来した美術工芸品が展示されていました。

「立花家史料室」 1970年代の「御花のしおり」掲載写真

史料館棟の新築後は、民具を展示していた時期もあります。



ところが、にわかに「家政局」は見直されます。

福岡県西方沖地震(2005.3.20発生)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)を機にご縁ができた、建築の専門家の方々が、「家政局」の歴史的価値を一目で見抜いたのです。
立花家をはじめとする関係者一同は思いもよらず、大改装も考えていた時でした。

奇跡的に生き残り、築100年にならんとする「家政局」。

全国的にみても、旧大名家の家政機関であった建物は残されておらず、いつの間にか希少な一例となっていました。よそのお宅の「家政局」は、役割を失った際にダンスホールにはならず、すぐに更地にされたのでしょう。



そして平成23年(2011)年、もともと旧立花伯爵邸の敷地【下図青色範囲】は、昭和53年(1978)に「松濤園」の名で国の名勝に指定されていましたが、指定範囲が追加され【下図赤色範囲】、名称も「立花氏庭園」と改められました。

ついに「家政局」も、名勝の重要な構成要素として、文化財に!

たちまち、河上建築事務所の綿密な調査により、「家政局」棟の骨組の大部分が建築当初のまま維持されていることが確認され、改造前の姿に戻す「復原」兼、修復工事が計画されました。


また、工事準備にあたり、昭和末期から「家政局」内で営まれていた社員食堂をふくむ、すべての事務所機能がホテル棟へ移されました。



伯爵邸時代から現在まで、一貫して人が集う場所でありつづけた「大広間」と、それとはまさに対照的に、めまぐるしく役割を変えてきた「家政局」。
それぞれ異なる問題を抱えていましたが、様々なハードルを乗り越え、平成の大修復工事が実施されたのです。



100年前の姿を取り戻した「家政局」。
白い「西洋館」との組合せが映える、クラシカルな美しさをご覧ください。

「家政局」修復および外観復元後 2019年4月

「家政局」の過去を知っていると、実際の3倍ほどステキに見えてきませんか?

わたしは、ここに書ききれなかった伯爵時代からの七変化の詳細を知っているので、実際の7倍ほどステキに見えています。


「家政局」を7倍ステキに見たい方は、是非ともオンラインツアーへ。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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知らなかったよ、屋根がこんなに重いとは。

2023/9/14

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」修復工事(2016-17) では、雨漏り被害が年々拡大していた屋根を全面的に改修して、約1万3千枚の瓦をすべて葺き替えました。

修復工事前 2014年7月

修復工事前の瓦の話はこちら。




現在、全国の瓦の多くは、限定された製産地でつくられた機械製品です。

しかし、昭和初期頃までは、各地の身近な土で焼かれた手づくりの瓦がつかわれていました。筑後地方でも、大正7年頃までの瓦生産は、手作業でした。
「大広間」の瓦は、刻印から、地元柳川でつくられたことがわかります。

修復前の旧瓦は、土の耐火度が低いために焼成が十分ではありませんでした。
そして、100年以上にわたり風雨にさらされ続けてきました。

修理の時点で、ほとんどの瓦は、 瓦に滲みた水分が凍結と融解を繰り返す「凍害」により、割れ・欠け等の破損がありました。


新しく葺く瓦は、日本三大瓦の産地といわれる愛知県三河地方の「三州瓦」をつかいます。

耐久性があり、かつ明治期の瓦となじむ色味に調整できる瓦を探しました。良質の粘土を高温で焼き締めた均質な瓦は、明治期の瓦よりもグンと長持ちするはずです。




はい!
では、これから、 約1万3千枚の瓦を葺き替えていきたいと思います!


まず「大広間」を素屋根で覆います。




2016年7月

それでは、瓦をはずしていきましょう。

2016年8月



これは……土、でしょうか?



まごうかたなく土ですね!



ご覧ください!
こんな大量の土が、「大広間」の屋根に隠されていました……



「大広間」は壁の少ない構造の上に、瓦や土を積んだ重く大きな屋根が架けられた「頭でっかち」だとは聞いていましたが、想像をはるかに超えていました。
これでは非常に重いはずです。

屋根全面に敷きつめた土(粘土に川砂や石灰を混ぜたもの)に、瓦をのせて安定させる工法を、「土葺き」といいます。 昭和20年代までは、この工法が主流でした。これだけの量の土なら、断熱効果も高そうです。
屋根の板の上に杉の皮などの下葺き材を敷き、その上に粘土をのせ、粘土の接着力で瓦を固定するそうですが、こんなに石がゴロゴロあって大丈夫だったのでしょうか。

現在は、葺き土を使用しない 「空葺き」工法が一般的です。


文化財の修復は、本物としての価値を損なわないため、現状維持を原則としますが、今回の修復工事では、「土葺き」を「空葺き」に替え、瓦も旧瓦よりも軽い「三州瓦」をつかいます。

屋根をできるかぎり軽量化して、耐震性を高めるためです。
「大広間」内に出入りする見学者の安全確保を、何よりも優先して決めました。





それでは、こちらのバキューム車で、土を取り除いていきましょう!









「大広間」屋根の土の除去作業
【注意:掃除機に似た音がします】

観光客に配慮して、砂埃が舞わないようバキュームで吸い込みました。土というより礫に近く、手作業で砕かないと吸い込めません。吸引力を高めると、野地板の上に敷かれている杉皮まで吸い込むので、加減が難しかったそうです。

想定以上の大量の土を、なんとかバキュームで吸いあげました。



無事、土もなくなりました!
これからは倍速でお見せしていきます !


細い木で押さえれられていた杉皮が撤去され、野地板 ノジイタ (屋根の下地板)があらわになりました。 さらに野地板もはずしていきます。



垂木 タルキ(棟から軒にかけた斜材)は、なるべく元の木材を残しながら、腐朽した部分を修理しました。



あわせて950枚ほどの野地板を新しく張った上に、「改質ゴムアスファルトルーフィング」(合成樹脂を混合したアスファルトを浸透させた防水紙)を敷いていきます。



ルーフィング(防水紙)の上に縦横に桟木 サンギを打ち付け、針金や釘で瓦を桟木に固定します。



最後にかわいくデコっていきましょう!

立花家の家紋「祇園守紋」があらわされた鬼瓦は、旧瓦と寸分たがわぬよう、焼成後の収縮率を計算した上で、手彫りでつくられました。




はい!完成です!!

2017年8月



ビフォーアフターは、こんな感じ。

なんということでしょう!
ただ瓦が新しくなっただけに見えます。


大量の土が失われ、屋根の重さが激減したことに、いったい誰が気づくでしょうか?(反語)


わたしと吉村さん(現場代理人)と河上先生(設計監理)と、バキューム作業に携わった少人数しか知りえない事実をわかちあった貴方に、ひとつお願いがあります。




立花伯爵邸「大広間」が超重い屋根に耐えてきた100年間を、どうか忘れないであげてください。   



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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かりそめの素敵な素屋根

2023/9/8

工事中の建物を風雨から守るために覆う仮屋根を、「素屋根」といいます。

文化財建築物の修復工事の現場では、各々の事情に合わせ「素屋根」が設営されますが、すべて工事後には解体され、その姿をとどめることはありません。


現在(2023年9月)、Googleマップ航空写真に見る「立花氏庭園」は、「大広間」修復工事中(2016-17) に撮影されていたようです。

国指定名勝の全貌が見えないのは残念ですが、今にいたるまで素屋根の姿が残されていて、わたしはとても嬉しいです。

工事終了後の全貌 は、Googleアースの航空写真で見られます。



現場代理人・吉村さんの頼れる背中

立花伯爵邸の「大広間」「家政局」を100年前の姿に!を目的とした、平成28~31年(2016-2019)の大修復工事は、株式会社 河上建築事務所の設計・監理のもと、株式会社 田中建設により施工されました。


「大広間」工事の現場代理人は、吉村さん。
センス・知恵・経験が豊富で、ものすごく頼りがいがありました。







「大広間」工事の素屋根には、吉村さんの英知がこめられています。



作業足場と素屋根の設営は、修復工事のはじめの一歩。
しかし、その前に大きなハードルがありました。


修復工事と観光の両立です。

民有の文化財である国指定名勝「立花氏庭園」の修復工事は、国・福岡県・柳川市からの補助をうけながら、所有者の株式会社 御花が主体となって実施します。

文化財保護のためには、「安かろう悪かろう」工事は許されません。
民間企業としては、文化財を活用して蓄えた資金を文化財の修復に費やすという運用をストップできないので、営業を続けていかねばなりません。


「大広間」はおよそ110歳、大規模な修復工事は今回が初めてです。

順次建てられた新築時とは異なり、北は「西洋館」、東は「御居間」、南は「松濤園」と密接しています。四方を文化財で囲まれた「大広間」まわりの狭さは、航空写真をみると一目瞭然でしょう。


修復工事中も平常とかわらず観光客を迎えるなか、文化財を傷つけずに工事作業をすすめるため、有識者による「名勝立花氏庭園整備委員会」でも議論が重ねられましたが、観光客の多少の不便は仕方ないという雰囲気でした。しかし、所有者の希望は、お客様ファーストです。


どうする吉村さん!

わたしは今も鮮やかに思い出せます。
工事の落札直後、吉村さんが「素屋根の改良案があるのですが」と言い出された瞬間を。



そして、「松濤園」展望デッキが組み込まれた「素屋根」が設営されたのです。

CNES/Airbus、Maxar Technologies、地図データ ©2023を加工

「工事後も展望デッキは残してほしい」と本末転倒な声があがるほど、大好評を博した展望デッキは、予定を超過して、素屋根を解体するギリギリまで活用され続けました。



素屋根足場に凝らされた吉村さんの工夫は、これだけではありません。


限られたスペースを効率的につかい、台風にも負けない強度となるよう、ブレース構造(筋交い)の枠組を多用したり、防炎シートをスムーズに張れるよう、屋根部分をフラットにしたりと、計算を重ねてています。
天井に半透明部分をスリット状に入れて、採光を確保。全体を覆うのは、内部に熱や湿気がこもらない通気性のシートです。


屋根材としては、トタン板(亜鉛鉄板)やタキロン(硬質塩化ビニール波板)などの候補もありましたが、手間・工期・費用・強度・勾配を総合的に判断して防炎シートに決めたと、吉村さんから聞きました。シートは継ぎ目ができないため、屋根の勾配を緩くできるそうです。


たとえば、福岡県西方沖地震(2005.3.20発生、柳川市は震度5弱)の災害復旧をめざした、立花伯爵邸「御居間」修復工事(2005-06)の「素屋根」と見比べると、屋根の形やつくり等の差違がわかります。

「御居間」は文化財建物に挟まれてないので、「大広間」まわりより余裕がありました。何より、松濤園のマツの木々との距離にもゆとりがあります。



「大広間」の工事では、どのように工夫してもマツが邪魔してきます。
しかし、素屋根足場の障害物となるマツも、国指定名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素です。文化財の一部として、保護しなければなりません。



マツには少し退いていただくことになりました。


しかし、これを理由に100年かけて育ってきたマツが衰弱したら、困ります。
前年に根回し(根の周囲を切って細根の発生を促す準備)をした上で、 2016年2月に仮移植しました。
「松濤園」には重機が入らないので、すべてが人力作業。とてつもない大仕事でした。

もちろん、工事終了後は、元の位置にきちんと戻っていただきます。

植木職人さんから「戻さなくても良いのでは?」と尋ねられました。
わたしも気持ちが傾きかけましたが、「名勝」とは「眺め」を文化財として指定されているので、指定時の「眺め」から変更することは許されません。
ふたたびの重労働の末、マツは工事前の位置に戻されました。




マツに退いてもらっても、作業スペースは確保できません。


解決策として、「大広間」と「西洋館」の間の中庭、ソテツの上空に作業用ステージを設けました。ここで素屋根のパーツも組み立てています。



しかし、ソテツも名勝「立花氏庭園」の重要な構成要素
枯らさないため、 日照と雨水を確保できるよう配慮しました。



台風襲来!
嵐が来るぞ、”帆”をたため!!

「計算上どんな台風でも全く問題ありません」という吉村さんの言葉は非常に頼もしかったのですが、台風接近予報のたびに、”帆”をたたみ、ブルーシートで覆う手間はとても大変そうでした。




ふりかえってみると、現場代理人・吉村さんと、設計監理・河上先生と、素敵な「素屋根」とともにあった「大広間」修復工事の日々。



あの素晴らしい「素屋根」をもう一度……とは全く思いません。

2017年3月 
2016年4月発生の熊本地震による災害復旧工事も同時進行していました



かりそめがゆえの美しい想い出。


【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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必見!激アツ怪異譚!「芸州武太夫物語絵巻」【ネタバレ配慮】

2023/9/1

柳川藩主立花家に伝来した「芸州武太夫物語絵巻」は、全3巻の長さを合わせると、およそ34.5メートルにおよびます。

「芸州武太夫物語絵巻」 江戸時代後期 立花家史料館所蔵

江戸時代に備後国三次(今の広島県三次市)に住んでいた稲生武太夫 イノウ ブダユウ(1734-1803) が、まだ平太郎という幼名を名乗っていた寛延2年(1749)7月に体験した、怪異現象が描かれた絵巻です。



こどもも大人も楽しめる展示のため、立花家に伝来した諸々の美術工芸品を物色していたところ、館長から「オバケの絵巻があるよ」と推薦されました。

描かれているのは、こんなオバケ。


え、超ワクワクするんですけど……


え、予想外の衝撃のラストを迎えるんですけど……


この面白さと驚きを、こどもたちに体験してもらいたいけど、どうしよう?


この絵巻は実録レポです。
旧暦の7月1日から1カ月、全30日間の事件が描かれているからこそ、ラストの衝撃が際立つのですが、長い文章は最後まで読み進んでもらえない可能性があります。

ちょっと、冒頭をみてみましょう。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵)の冒頭

「 彼の武太夫、化物に逢し起りは、十二三歳の頃よりして、勇気なる余りにや…… 」………………。



小学1年生を想定して、伝わりやすい表現に言いかえてみます。
主人公の名前は、「武太夫」より幼名の「平太郎」が良さそうです。

勇気なる余りにや、勇気いっぱい、勇気凜々……勇気りんりん
そうだ!
アンパンマンの絵本をイメージしつつ、絵巻の文章から逸脱しないよう苦心しながら翻案しました。


そして、翻案したテキストを映像化したものが、こちら!

『へっちゃらへいたろう(稲生物怪録)』
You Tube「立花家史料館公式チャンネル」で全巻公開中

*英語の字幕もあります*



絵巻は、畳に座った膝の前に置き、両手で開いて鑑賞します。
肩幅ほどの一場面を読み、読み終わったら巻き込んで、また肩幅ほどを開いて次の場面を読む、の繰り返しで読みすすめる、ひとりじめ形式の娯楽です。

立花家のお殿さまやお姫さまが、私的な空間でひそやかに楽しんでいた絵巻を、全世界に公開して、皆さまと一緒に楽しめる時代になりました。

時代をこえて伝えられた衝撃のラストを、ぜひネタバレ前にご堪能ください。




ここからはネタバレを含みます。




魔王・山本五郎左衛門が負けを認めた、平太郎の勇気。
オバケを倒すのではなく、怪異に惑わされない強さが評価される点が、とても興味深いです。

衝撃のラストで明かされる、勇気ある16歳と根競べして100人に勝つと「魔王のなかの魔王」(原文では「魔王の頭」)になれるという奇妙なシステムや、86人目という絶妙な数字など、この物語には民間伝承の怪異説話とは趣を異にする面白さを感じます。


物語の重要なポイントは、どんな怪異にも動じない平太郎の姿です。
ここを、小学1年生にもしっかり伝えたい。

平気、平気の平左、平気の平太郎……へっちゃら平太郎
響きもよく、強そうです。
脳内BGM「CHA-LA HEAD-CHA-LA」(アニメ「ドラゴンボールZ」主題歌)のおかげで、リズミカルな文章に仕上げられました。




しかし、いったい何故、広島在住の平太郎(16歳)の体験談が、福岡の柳川藩主立花家に伝来した絵巻に描かれているのでしょうか?


実は、「芸州武太夫物語」には原典があります。


平太郎の体験談はいつしか評判となり、平太郎本人が書き留めたり、知人が平太郎から聞き書きしたりと、後年には文書に起こされたようです。
そして、求めに応じて、次々と写本がつくられていきました。
その過程で、絵本や絵巻にも仕立てられ、 怪異の内容や出現順に差異がある異類本も派生していき、さまざまな題名で流布したとみられています。

江戸時代の国学者・平田篤胤(1776-1843)は、平太郎の体験談に強い関心をもち、門人らと諸本の校合整理をすすめ、集成本をまとめさせました。

ちなみに平田篤胤は、国学者として大成する一方、霊界研究にも勤しみ、天狗の仙境で暮らしたという寅吉を取材した『仙境異聞』や、前世の記憶をもつ勝五郎を取材した『勝五郎再生記聞』を著しています。


近代になっても、平太郎の体験談は、いろいろな文芸作品、ときには講談のモチーフとなり、 忘れ去られることなく、多くの人々に愛好され続けました。

今年は平太郎の没後から220年、平太郎の体験談は ≪稲生物怪録≫ と総称され、超長寿人気コンテンツとしてマルチメディア展開がなされる一方、 ≪稲生物怪録≫ を対象とした多角的な研究も深められています。


2019年4月には、≪稲生物怪録≫ の聖地である広島県三次市に、湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)が開館しました。

湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)HP
博物館について > 《稲生物怪録》- 三次の妖怪物語 – より




当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」も、多種多様な≪稲生物怪録≫ のなかの一例です。

ほかの≪稲生物怪録≫ と比べて論じてみたいところですが、登場人物の名前表記に注目するだけでも数系統があり、とても複雑です。



例えば上記映像では、魔王・山本五郎左衛門の名前を「ヤマモト」と読んでいます。
しかし、「サンモト」とルビが振られる例 ほかの≪稲生物怪録≫では、が多く、山本を「サンモト」と読むと魔王っぽさが強まる気がするので、わたしとしては「サンモト」と読んでほしかった……
ですが、当館の絵巻にはルビがないので、ほかの≪稲生物怪録≫ を知らない読み手ならそのまま「ヤマモト」と読む方が一般的です。


逆に、ライバルの真野悪五郎(原文では「真の」)には、わざわざ「まこと」とルビが振られ、原文のままだと「マコトノ」になりますが、 ほかの≪稲生物怪録≫ にならって「シンノ」と読んでいます。


さらに、主人公の名前も、原文は「武太夫」としか書かれていません。
ほかの≪稲生物怪録≫ に例があるので、「武太夫」に慣れ親しんでいたはずの立花家のお殿さまやお姫さまはには遠慮せず、幼名の「平太郎」をひっぱってきました。


※下の画像のピンク傍線箇所を参照。
オレンジ傍線箇所には「魔王」「魔王の頭」と実際に書かれているのでご確認ください。

「芸州武太夫物語」(立花家史料館所蔵) の該当部分



まだまだ注目すべきポイントはあるのですが、諸本を比較検証して≪稲生物怪録≫ の成立を探るような研究は然るべき方々におまかせして、当館所蔵の「芸州武太夫物語絵巻」を、絵巻という作品として見てみます。


この絵巻の第一印象は、大名家伝来品にしては質素だな、内容も期待できそうにないな、でした。


もともと、本紙に別紙1枚を裏打ちしただけのラフな表装ではありますが、繰り返し読まれたことを想像させるほど傷み、収納箱も失われてしまっています。
しかし、開いてみると、すっきりとした丁寧な文字に、上品な色彩で巧みに描かれた狩野派系の絵が添えられた、大名家にふさわしい上作で驚きました。


一巻目の前半を絵巻の形で見たい方はコチラ




ほかの≪稲生物怪録≫とくらべると、怪異現象だけを記述する系統になり、シンプルで分かりやすい文章で語られています。
しかし残念ながら、文字も絵も、作者名は記されていません。

巻末は、「武太夫が直接話したことを詳しく書きました」とあっさり終わり、立花家が絵巻を入手した経路も分かりません。


いまのところ、平太郎が仕えた広島藩主浅野家と婚姻を結んだ際に入手した可能性、もしくは、柳川藩士・西原晁樹が平田篤胤門下であったので、その縁で立花家に納められた可能性を考えていますが、どちらも裏付けはありません。


同じく浅野家と婚姻関係がある尾張徳川家にも、江戸時代に描かれた筆者不明の「武太夫物語絵巻」3巻(徳川美術館所蔵)が伝来しているようですが、文章に差違がみられます。

徳川美術館HP
企画展「怪々奇々―鬼・妖怪・化け物…―」(2020.7.18~2020.9.13開催) より


現時点の2例だけでは、検証も不十分です。
「うちにも≪稲生物怪録≫ の絵巻あるよ」という大名家関係者の方、いらっしゃいましたら是非ご教示ください。


難しいことはさておき、 柳川藩主立花家伝来の「芸州武太夫物語絵巻」に描かれたオバケたちは、どれもとてもカワイイ。

立花家史料館の総力をあげて作成した特製おばけカードは自慢の逸品です!


平太郎のHは、ヒーローのH。


参考文献
杉本好伸 編『稲生物怪録絵巻集成』2004.7.1 国書刊行会 、『改訂版 妖怪いま蘇る-《稲生物怪録》の研究-』20133.3.29 三次市教育委員会、杉本好伸 「 《稲生物怪録》資料紹介 徳川美術館所蔵『武太夫物語絵巻』について」(広島近世文学研究会編集『鯉城往来 17号 』2014.12.30 広島大学文学部)

【ココまで知ればサラに面白い】
普段の解説ではたどりつけない、ココまで知ればサラに面白くなるのにと学芸員が思うところまで、フカボリして熱弁します。
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