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フレキシブルな「大広間」床の間[後半]

2023/2/22

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の西側の床の間「西床」を復原しました。




参考としたのは、一枚の古写真と柱や梁に残された痕跡です。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

河上建築事務所による入念な調査の末に、復原のための設計がなされました。

理想としては、元の「西床」の木材を再利用したいところですが、関係者一同、誰も心当たりがありません。
ステージの改造は、およそ半世紀前。
当時は文化財であるという意識も薄かったので仕方ないと諦めて、新造する設計になりました。

修復工事がはじまった頃、わたしは倉庫で丸太につまずきました。
年に5回ほどしか来ない倉庫なので、毎回忘れて、毎回つまずくのです。

なぜここに 丸太が 転がっているのだろう?
長くて重くてすごく邪魔……と思った瞬間、ハッとひらめきました。

これって「西床」の木材じゃない?!

きちんと見ると、長さ12尺(3.6m)ほどの鉄刀木 タガヤサンで、ホゾ穴があき、加工されています。東南アジア産の鉄刀木は、漢字のとおり非常に硬くて重い高級木材であり、よく床柱として使われる材です。

急いで設計監理の河上先生に報告すると、フレキシブルに設計が変更され、「西床」の床柱として組み込まれることになりました。



きれいに洗われて、今では立派な床柱によみがえっています。




見るたびに、これぞ適材適所としみじみ思います。


修復工事後に、戦前から立花家・御花に勤めていた番頭さん(故人)が「大広間の床柱と仏間廊下のケヤキ板を床下に入れた」と仰っていたという証言を聞きました。
現時点では床下ではなく倉庫ですが、ケヤキ板もちゃんと保管されていますので、ここに記しておきます。



よみがえった「西床」の床柱は鉄刀木の面皮柱です。
「東床」はどうでしょうか?



2017年8月のGoogle撮影時は床框 トコカマチ(床の間の前端の化粧横木)に保護カバーが被せられていますので、こちらもご覧ください。

大広間「東床」修復後
ちなみに修復前の「東床」

お分かりいただけますでしょうか?

「東床」の床柱は杉の角材です。
数寄でも侘びでもなく、まったく面白みはありません。

しかし、この柱は「四方柾 シホウマサ」
四面すべてを細めで均一な柾目 マサメ(まっすぐな木目)にするために、数倍の大きさの丸太から贅沢に切り出された最高級品です。

また、縦の床柱と横の長押 ナゲシ との接点(釘隠 クギカクシ のある所)での、長押が裏までまわりこむ取付き「枕捌 マクラサバキ」や、床框の黒漆蝋色塗 ロイロヌリ での仕上げなど、すべてに手間がかけられています。

つまり「東床」は、最も格式が高い床の間としてつくられているのです。

ちなみに「西床」は、長押が床柱の正面でとまる「雛留 ヒナドメ」という取付き、床框は拭き漆仕上げとなっていて、一段階ほど格が下がります。

それでも、床の間の畳「畳床」にはサイズ(東床は約390×120cm、西床は約242×95cm)に合わせた大きな特注品(一般的な畳のサイズは約182×91cm)が使われるなど、シンプルですが贅沢です。



修復工事では、「東床」の床框も塗り直しました。

「東床」の蝋色塗仕上げも、 「西床」の拭き漆仕上げも、どちらも丹念な手仕事です。とくに「西床」は、 参考資料が白黒写真しかなかったため、色合わせに苦心しました。

木地に油分を含まない漆を塗り、木炭で研ぎ出し、さらに磨いて光沢を出す「蝋色塗仕上げ」の工程は、古研ぎ→錆繕い・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り鏡面仕上げ。
木地に透けた漆を塗り、余分な漆を拭き取る「拭き漆仕上げ 」の工程は、生漆固め・研ぎ→ 錆下地付・研ぎ→中塗・研ぎ×2回→上塗り。
どちらも下塗り3回に上塗り1回という工程を重ねています。


この艶めき、キズひとつ付けてはならぬ!と心に誓いました。


実際の「大広間」では、どうか、お手を触れずにご鑑賞ください。



【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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フレキシブルな「大広間」床の間[前半]

2023/2/13

明治43年(1910)築の立花伯爵邸「大広間」が誇る、 “明るさと軽やかさと新しさ” 、その “新しさ” のアピールポイントは、まだあります。




再び、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、 『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手にまた選んでみました。

「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

しかし、今回は床の間の向かい側をくらべます。
お手数ですが、3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』「大広間」(Matterport)にて、ふりかえってみてください。

*実際にふりかえると、畳廊下をはさんで「使者之間」があります。つまり、「大広間」からは出てしまいます*



では、立花伯爵邸「大広間」は? 

立花伯爵邸のGoogleストリートビュー「大広間」 にて、ふりかえってみてください。

お分かりいただけますでしょうか?

ふりかえると見えるのは、こちらの床の間です。

立花伯爵邸「大広間」西床 修復後

そうです、
立花伯爵邸「大広間」には、床の間(床・棚・付書院)が2つあるのです。

『高山陣屋』のような近世の書院造では、一方向の軸性が強調されます。

他方、立花伯爵邸「大広間」は、南側の庭園「松濤園」を隅々まで見わたせるような部屋の配置で、東西に床の間があるため、横の広がりを感じさせます。

東の床の間が主であり、西の床の間は、広間を分割して使用する際につかわれたのでしょう。
このフレキシブルさが、近代ならではの新しさだといえます。



実は、今ご覧いただいている西の床の間「西床」は、平成28~31年(2016-2019)の修復工事によって復原されたものです。

修理前はステージが設けられ、貸会場として「大広間」を利用される際には大活躍していました。

立花伯爵邸「大広間」西側ステージ 修復前

もちろん、明治43年(1910)の建築当初は、写真のような床の間でした。

立花伯爵邸「大広間」西床 現存する唯一の古写真

昭和42年(1967)ころには、ステージへと改造されたようです。

床の間 → ステージ → 床の間復原 という変遷なら、をみると、ステージの時代は不要だったと思われるかもしれません。
しかし、フレキシブルに姿を変えてきた「西床」は、立花伯爵邸の歴史をそのまま反映しているのです。



昭和25年(1950)に立花伯爵邸の一部は、立花家が経営する料亭旅館「御花」となりました。

戦後改革により華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なった状況で、収入源を確保するため、立花家は料亭・旅館業をはじめます。

「大広間」は、宴会場として地元の人々に頻繁に利用されるようになりました。
宴会には余興が欠かせません。
需要にこたえて「西床」が解かれ、ステージが設けられたのです。

時代に即したフレキシブルに 改装などにより、料亭旅館「御花」は創業70年をこえる老舗となり、立花伯爵邸は失われることなく、新築時からの姿を大きく変えずに残されました。


築50年は珍しくはありませんが、築100年をすぎると文化財として扱われるようになります。現に、旧大名家の明治期の住宅が良好に保存されている例は全国的に見ても希少であり、立花伯爵邸をふくめた「立花氏庭園」は、国の名勝に指定されています。



文化財となると、今度は「変わらない」努力が求められます。

文化庁の指導に基づき、国・福岡県・柳川市のご協力を賜りながら、適切な維持管理に努めるなかで、「大広間」の修復工事が計画され、そこに「西床」の復原も組み込まれたのです。
文化財建造物の修理の際に、改造前の姿に戻すことを「復原」と言います。


それでは、一枚の古写真と、柱や梁に残された痕跡をもとに、「西床」はどのように復原されたのでしょうか?




参考文献
高山陣屋HP(岐阜県)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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「大広間」のヒミツ-明るさと軽やかさと新しさ

2023/2/6

立花伯爵邸「大広間」の明るさと軽やかさのヒミツは、修復前の写真にも写っています。

お分かりいただけますでしょうか?

2016年7月 修復工事の直前

現代を生きる私たちは、明るくて広い室内空間に慣れすぎているため、驚きなく「大広間」を受け入れてしまいます。

よく畳の数を質問されますが、わたしが宣伝したいのは軽やかな開放感です。

ただし、「大広間」は襖で3室に区切られますが、近年はすべての襖をはずしているので、より開放感が増しております。

蛇足ですが、平成28~31年(2016-2019)の修復工事 で新調全交換した「大広間」の畳の数は、97枚+半畳2枚+本床2枚です


立花伯爵邸「大広間」は、室町時代にはじまる住宅建築の様式「書院造」をきちんと踏襲し、旧大名家にふさわしい格式を備えています。

書院造 →わかりやすい動画解説「書院造」(『NHK for School』)

本来は呼称のとおりの書斎でした。
 例:『吉水神社書院』【重要文化財】、『慈照寺東求堂【国宝】

時代が下がると、接客や儀礼の場として使われるようになり、大規模な書院もつくられました。
 例:『二条城 二の丸御殿【国宝】、『本願寺書院(対面所及び白書院)【国宝】、『名古屋城 本丸御殿(復元)』

※画像が見られる例を選びましたので、ぜひ各サイトもご覧ください。とくに名古屋城本丸御殿は、3Dバーチャルツアー (Matterport) 『本名古屋城丸御殿(表書院をスタート地点に設定)』も楽しめます。



しかし、明治41年(1908)築の立花伯爵邸「大広間」には、近代ならではの新しさもあります。


新しさを実感できるよう、近世の書院造とくらべてみましょう!

見くらべる相手として、立花伯爵邸「大広間」とだいたい同規模で、使われ方も似てるような気がする、『高山陣屋』【国史跡】(岐阜県高山市)の「大広間」を、勝手に選んでみました。

岐阜県高山市「高山陣屋」https://jinya.gifu.jp/ フォトギャラリーより

立花伯爵邸「大広間」修理後の写真ですが、見くらべやすいので

このように並べると、よくわかるのではないでしょうか?

立花伯爵邸「大広間」の柱の数が少ないのは、一目瞭然です。

3Dバーチャルツアー 『高山陣屋』(Matterport)では測定もできます。
ためしに比べると〔 高山陣屋/立花伯爵邸 〕、 柱と柱の間は1.7m/5.88m と、立花伯爵邸「大広間」が3倍も広くなっています。ちなみに 柱の高さ2.83m/3.64m 、柱の太さ12cm/15cm でした。

2017年6月 障子の張り替え


また、障子・ガラス障子・欄間障子がはめられていて見過ごしがちですが、とにかく壁面がありません。
加えて天井も高いので、とても明るく軽やかで開放感がある室内空間となっています。






2017年7月 細い柱と長押しかありません



この開放感ある室内空間は、建築当時の新技術によって実現できました。
明治時代に日本へもたらされた技術の1つ、トラス構造で屋根を支えているのです。

立花伯爵邸「西洋館」「大広間」断面図  トラス構造「洋小屋」

従来の屋根の構造、いわゆる「和小屋」では、屋根を支える力を下へと流します。他方、三角形のトラス構造「洋小屋」は、力を外に分散させるので剛性が高くなり、各部材をより細く、柱と柱の間をより広くすることができます。

木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」
(明治36、7年頃)東京都立図書館蔵


例えば、同時代の設計例の木子幸三郎「渡辺伯爵邸日本館書院矩計図 」(明治36、7年頃 東京都立図書館蔵)は、斜めの筋交いはありますが、屋根の重量を1本の梁材にもたせる「和小屋」です。








東京都立図書館「木子文庫」
内裏の作事に関わる大工であった木子家に伝わる建築関係資料群。 明治期以降、帝国大学の建築学の講師や教授を勤めた木子清敬、幸三郎関係の建築図面や建築写真など約29,000点があり、明治宮殿をはじめ近代の宮殿建築の主要なものをほぼ網羅する。
*「立花伯爵邸」と同時代の建築図面や建築写真が多数公開されています*


現在も「和小屋」と「洋小屋」は使い分けられているので、新技術だからといって、日本の屋根の構造が一変した訳ではありません。

実際、立花伯爵邸「御居間」棟の屋根は「和小屋」です。必要な室内空間の広さにあわせて使い分けたのでしょう。

「大広間」の屋根を、並列する「西洋館」と同じトラス構造としたのは、近世にはなかった、明るく軽やかな広い空間が求められたからではないでしょうか。



また、立花家のお歴々は、とても「新しモノ好き」だったようです。



立花伯爵邸の新築から現在まで、およそ110年が過ぎました。
その間、めまぐるしく産業技術は更新され、最新技術がすぐに古びてしまいます。
現代において、はじめて伯爵邸がお披露目されたときの、人々の新鮮な驚きを追体験するのはとても難しい……

どうにか時代を遡って、立花伯爵邸「大広間」が誇る “明るさと軽やかさと新しさ” を実感してもらおうと、ここまで長々と書き連ねてきましたが、実はまだ終わりではありません。

この機会に声を大にして、とことんアピールしていきます。




参考文献
NHK for School国指定文化財等データベース(文化庁)吉水神社(奈良県)臨済宗相国寺派銀閣寺(京都府)元離宮二条城(京都府)西本願寺(京都府)名古屋城(愛知県)高山陣屋(岐阜県)木子文庫(東京都立図書館)

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
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金銀に輝く壁紙にひそむ新旧の技術

2023/1/31

平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、経年により変色した「大広間」の壁紙を、新旧の技術で再現して張り替えました。

作業はすべて、今では失われつつある、京都の職人さん【株式会社 丸二】の技によります。

旧壁紙のはぎとり

2016年8月
旧壁紙の内側(残念ながら重要な文書は出ませんでした)

旧壁紙の調査

蛍光X線分析を主とした調査の結果、 黒ずんでいた菱形文様は、真鍮(銅+亜鉛)による金色と銀の2色刷と判明しました。経年により、銀は黒色に、真鍮は銅が緑青化して緑がかった褐色に見えていたのです。

2016年9月 福岡市埋蔵文化センターにて

組子の修理

2017年3月

壁紙の下張り

可能なかぎり旧来の手法を踏襲しましたが、下張りは反故紙を利用せず、新たな和紙を、厚さや糊付けを変えて七重に貼り重ねた上に、本紙を上張りしました。

張り方によって糊の濃度も変えます

①骨縛り 
厚めの楮紙と濃いめの糊により、組子の暴れと型くずれを防ぐ
②胴張り
虫害や変色につよく、燃えにくい緑色の名塩和紙(雁皮に泥土をまぜた和紙)により、骨が透けて見えるのを防ぐ
③田の字簑
少し濃いめの糊を田の字につけ、緩衝となる空気層をつくる
④簑縛り
楮紙を押さえつけ、壁面化させる
⑤浮け
楮紙により通気のための層をつくり、下地の灰汁を通さない
⑥ 二重浮け
⑦浮け縛り
茶色の機械漉和紙(混入物がない、のびが少ない)により、下が透けず皺がでない

2017年4月 ①骨縛り
2017年5月 手前から白・②緑・⑦茶色の和紙が張られています

壁紙の本紙上張り

本紙は越前の手漉き和紙です。
和紙を漉くための枠「漉きぶね」も、「大広間」壁紙のサイズに合わせ、通常の襖のサイズよりも大きくなっています。

福井県越前市 やなせ和紙(http://washicco.jp)にて

金銀2色の文様はスクリーン印刷。
顔料は変色しにくい、雲母と酸化チタンからつくられる顔料を用いています。

福井県越前市 前田加工所にて
福井県越前市 前田加工所にて

丈夫な越前の手すき和紙に、新技術で刷られた輝きが、100年後まで変わらずに続いていくはずです。ただし、新しい技術なので、まだ100年の実績を誰も確かめてはいないのですが……



壁紙が張り替えられた「大広間」は、とても明るく軽やかで、修復前とは印象がガラリと変わりました。

2017年6月 畳を敷く前 四分一も見えますか?
100年前の輝きをとりもどした「大広間」

株)御花は、この「大広間」を結婚披露宴の会場としても活用しています。
金銀でおめでたく、華やかな宴にピッタリ。

会場設営の一例 御花ブライダルギャラリー」より


100年前の建築当初には予想もしなかったはずなのに、先見の明でしょうか……

しかし、明るさと軽やかさのヒミツは壁紙だけではありません。




【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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知られざる四分一

2023/1/26

四分一と書いて、シブイチと読みます。

辞書には、
  ①4分の1。四半分
  ② 銅3、銀1の割合で作った日本固有の合金。装飾用。朧銀。
  ③室内の貼付壁をとめるために周囲に取り付ける漆塗の細い木
と3項目の説明があります。 

※広辞苑・大辞林・大辞泉の記述を要約

今回の「四分一」は③のことです。

わたしは、合金の②は刀装具などでみて知っていましたが、建築用語の③は立花伯爵邸の修復工事を担当するまで知りませんでした。

しかし、立花伯爵邸「大広間」を見学された方はすべて、③の「四分一」を目にしているはずです。

立花伯爵邸「大広間」修復前

おわかりいただけたでしょうか?

この、黒漆塗の細長い木材です。

(残念なピントですが) 壁からはずされた四分一



「四分一」とは、4分×1寸、つまり断面が約12㎜×約30㎜であることに由来する呼称です。

壁や床などの境目を、美しく始末するための「見切り材」の一種であり、おもに紙や布を貼った貼り付け壁の縁に取り付けられています。

実際に見る方が断然わかりやすいのですが、写真を凝視すると、各区画の壁紙に額縁のように付けられているのが見えてきませんか?







平成28~31年(2016-2019)の修復工事では、立花伯爵邸「大広間」の壁紙をすべて貼り替えました。

壁紙を担当する株式会社 丸二 の職人さん達が下見に来た際に、わたしは初めて「四分一」を視認しました。何年も見続けてきた「大広間」なのに……

職人さん・設計監理・現場代理人の三者下見
2016年7月 

壁紙の貼り替えと同時に「四分一」も新調するのですが、いくつかの難点があげられました。

  1. 最近は紙の貼り付け壁が激減、さらに「四分一」の施工例は希少で、作業経験のある職人さんも少ない。
  2. 「大広間」の「四分一」は黒漆塗り仕上げであるが、細長い木材に漆を塗るにはコツが必要。あつかえる職人さんはごく少数のうえ、高齢化している。
  3. 「大広間」の「四分一」は最長で2メートルをこえるほど長く、必要本数も大量。漆塗りには体力を要し、高齢化された職人さんから避けられる可能性がある。


再利用しては?とうかがうと、「四分一」は釘付けされていて、古い壁紙とともに、むしりとるように撤去するしかないとのこと。

釘? どこ?

左:剥ぎとる前、右:剥ぎとり後 菱菊形釘隠ではなく四分一をご覧ください




1年後、実際の作業を見てはじめて理解できました。

四分一の取り付け【釘を隠すための工程】

埋込画像が出ないときは、再読み込み(リロード)してください

両端がとがった合釘 アイクギ を、「四分一」の内側に半分打ち込みます。
その合釘が仕込まれた「四分一」を、傷が付かないよう当て木をして、紙を張り終わった壁に打ち付けています。

2017年6月 新調四分一のサイズ合わせ


もちろん、ぴったりと納まるように、寸法は現場にて合わせられました。












壁紙の撤去は修復工事の序盤。
畳や瓦が次々に取り除かれ、「大広間」の内部構造があらわになっていきます。

「大広間」 壁紙・四分一撤去後 2016年9月
はぎとられた四分一
(全体のほんの一部です)


外された「四分一」の断面を見てはじめて、角をけずった「面取り」加工に気がつきました。

当然、「大広間」のすべての「四分一」が面取りされています。

















とても丁寧に工程が重ねられた贅沢さ。
これが、大名から伯爵となった立花家の、400年の歴史の重みです。

しかし、どれも派手なキラびやかさはなく、一見しただけでは分かりにくい……
立花家史料館の学芸員としては、是非とも皆さまに、微に入り細に入り延々と解説したいところです。



これから、明治43年(1910)に新築お披露目された「立花伯爵邸」の各所に隠されている贅沢さを、これまでの修復工事の記録や裏話とともに紹介していきます。

【立花伯爵邸たてもの内緒話】
明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸の、内緒にしている訳ではないのに知られていない、声を大にして宣伝したい見どころを紹介します。
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