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立花宗茂、下り汽車で柳川へ帰る

2024/11/4

明治36年(1903)から昭和53年(1978)まで柳川で発行されていた新聞『柳河新報』

大正14年(1925)9月19日の3面にこんな記事が。

宗茂公の御遺骨帰る 
代々の藩主のも臣下のも共々菩提寺福厳寺に帰葬

山門郡柳河旧藩主立花宗茂公 二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 及家臣の遺骨二十七個 其他 各遺物数個は既報の通り 東京都下谷区広徳寺住職福富龍瑞師 及並に安東家扶の随供にて去十四日午前九時四十分の下り列車にて矢部川駅着

同駅には吉田 大村 両家扶を始め 各家従 其他 有志多数の出迎へ 各遺骨は二台の自動車に乗せ 出迎への一同は数台の自動車に分乗し 沿道は伝習館、女学校、盲学校 其他 各小学校 一般有志の参列者 柳河町より城内へ数丁に亘り 同午前十時五十分 立花家菩提所城内村福嚴寺に到着 立花寛治伯 同夫人 令嗣鑑徳氏 夫人 及御家族の出迎にて福嚴寺御堂に入り厳粛なる帰葬を執行し 龍岡同寺住職 以下各宗僧侶数十名の読経 導師の香語に次で 立花伯爵夫妻を始め一門の人々の焼香参詣し 午後一時頃終了したが 会葬式者は 城内村軍人分会員、同村青年団会、處女会員、柳河婦人会員及び一般有志 五百余名に上つた



初代柳川藩主・立花宗茂が柳川に帰ってきました!

大正14年9月14日午前9時40分矢部川駅(現 JR九州鹿児島本線瀬高駅)着の下り列車にて、初代柳川藩主・立花宗茂をはじめ広徳寺や宗雲院に埋葬されていた御遺骨が福岡県柳川へ帰ってきました。

東京からの下り列車に乗って!

宗茂にとっては、島原の乱が終結した寛永15年(1638)3月頃、江戸へ戻る前に柳川城に立ち寄って以来、およそ240年ぶりの柳川入りです。


大勢の出迎えの人々が、柳河町から城内への数丁の沿道に並んでいたようです。

おそらくはこんな感じで。

こちらは、宗茂の帰郷から10年後に撮影された動画です。
昭和10年(1935) 4月立花伯爵家の一人娘・文子が、元帥島村速雄の次男・和雄と結婚、披露宴のため柳川に帰郷しました。動画冒頭では、矢部川駅から立花邸までの道沿いに並ぶ、出迎えの人々が映されています。



午前10時50分、車は柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺(現 柳川市奥州町)に到着、子孫の立花伯爵家家族に出迎えられました。福嚴寺でも僧侶数十名により読経と500余名の焼香参詣をうけるほどの歓迎ぶりでした。

立花伯爵家の経営庶務を担当する家扶・家令が残した記録「立花家令扶日記」からは、新聞記事の内容に加えて、一般参拝者に茶菓が配られたこと、広徳寺住職は大和屋に宿泊、翌日に立花伯爵と晩餐を共にしたこと等もわかります。

「立花家令扶日記」では、大正14年12月19日に「大円院様御始メノ御遺骨福嚴寺ヘ御合葬」、12月26日に「御合葬御改葬ノ諸霊ノタメ福嚴寺ニ於テ御供養」と記されているので、東京からの改葬の一件は12月まで続いたようです。



他の一族も帰ってきました。

翌大正15年(1926)7月17日の『柳河新報』の見出しはこちら。

「祖先の御遺骨 東京谷中の寺院より福厳寺へ御改葬」

このときは「東京谷中の本誓寺及霊岸寺御墓所へ御埋葬の玉樹院様、瑞松院様、長寿院様始め十七霊の御遺骨」が「去十六日午後三時十分の矢部川駅着の列車」で帰ってきました。
ひと月のうちに各々が良清寺や瑞松院などに改葬され、供養されています。



柳川藩主立花家の遺骨が柳川の福嚴寺に集められた契機は、大正 12 年(1923)9月1日の関東大震災だと推測されます。東京市内の多くの寺院が大火災により焼失、復興にともなって境内地や墓地の区画整理がおこなわれました。

例えば広徳寺は、都市復興計画に従って郊外移転が促進され、大正14年3月下練馬村(現 東京都練馬区)に約1万坪の土地を購入、5ヶ年計画で下谷区(現 東京都台東区)から移転しています。
移転計画準備中に数度調査に出かけたという墓蹟研究家・磯ケ谷紫江は「当時の墓石は二千六十四基で、そのうち一千二百十六基が有縁であった。改葬の際には無縁の一片の骨も残らぬよう堀かへし、打ちかへして拾い出しては練馬の新墓地に埋葬したと云う。」(磯ケ谷紫江 『廣徳寺共葬墓所考』1959.11.15 紫香会)と回顧しているので、広徳寺の墓所が掘りかえされるなら、国元の柳川へ帰そうと考えられたのでしょうか。

磯ケ谷紫江 編『広徳寺共葬墓所考』,紫香会,1959.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕



しかし、関東大震災より以前に、東京から柳川へ帰ってきてる方もいます。

大正14年(1925)9月19日 『柳川新報』の記事には「立花宗茂公同二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 」とありますが、実は忠茂さんは同行していません。
東京小石川徳雲寺に葬られていた忠茂と正室・法雲院の遺骨は、大正13年秋頃にすでに移され、忠茂は福嚴寺に、法雲院は法雲寺(現 福岡県大牟田市倉永)に改葬されています。このときは何があったのでしょうか。


辿ってきた経緯はそれぞれですが、 立花宗茂や忠茂はじめ旧柳川藩主立花家一族たちの多くの方が、今は福嚴寺で眠られています。静穏な菩提寺が後世まで守られ続けることを願ってやみません。




参考文献
福富以清『廣徳寺誌』1956.12.1 廣徳会

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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂③

2024/10/26

義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまった2代柳川藩主・立花忠茂[1612~75]
実は、義祖父・道雪の法名を由来とする寺の宗派と名前も変えているのです。






天正3年(1575)立花山麓(現 福岡県新宮町)にある曹洞宗の花谷山神宮寺に、戸次道雪[1513~85]の継母・養孝院が葬られ、元中2年(1385)からの寺号が立花山養孝院と改められました。つづいて、天正13年(1585)に道雪も葬られ、法名「福厳寺殿梅岳道雪大居士」にちなんだ寺号「立花山梅岳寺」に改められます。


天正15年(1587)宗茂が柳川城主となると、梅岳寺も立花家の香華所として柳川の地へ移されますが、養孝院と道雪の墓はそのまま立花城下に残されました。

改易された宗茂が、柳川から離れていた間の梅岳寺の状況はわかっていません。


元和6年(1620)宗茂が初代柳川藩主として戻ってくると、曹洞宗梅岳寺は柳川城内の中核に復興されます。
ちなみに福嚴寺所蔵の戸次道雪肖像画の賛は梅岳寺3世・大機全雄、立花宗茂肖像画の賛は4世・賢鐵彦良によるものです。


寛文9年(1669)3代柳川藩主・鑑虎[1645~1702]により、梅岳寺は臨済宗黄檗派に転ぜられ、寺号が「梅岳山福厳寺」と改められます。
臨済宗黄檗派は、中国の僧・隠元隆琦[1592~1673]が開いた黄檗山萬福寺(現 京都府宇治市)を本山とします。明治9年(1876)に臨済宗から独立して黄檗宗となりました。
日本でいう「禅宗」は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗ですが、黄檗宗は、経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している点で、他の二宗と大きく異なります。


え!3代柳川藩主・鑑虎? 忠茂の話ではなかったの?


安心してください!

臨済宗黄檗派の梅岳山福厳寺が開かれたのは、2代柳川藩主・忠茂の意向でした。


承応3年(1654)中国・明の高僧である隠元が、招請により弟子たちと来日【忠茂43歳】
寛文元年(1661)徳川幕府のすすめを受け、隠元が中国の自坊と同じ名の「黄檗山萬福寺」を開く【忠茂50歳】
京都の萬福寺には、戒律を重んじる正統な中国臨済宗と厳格な仏教儀礼がそのまま移され、最新の中国生活文化が持ちこまれました。鎖国体制にあった当時、明僧と黄檗寺院は、日本人が接触できる数少ない異文化への窓口となったのです。


寛文5年(1665)前年隠居した忠茂【54歳】は、隠元の高弟・木庵性瑫[1611~84]と、江戸ではじめて面会します。隠元を追って来日した木庵は、この前年に法席を継ぎ、萬福寺2世住持となっていました。面会を機に忠茂は木庵と禅要の問答をくりかえし、延宝3年(1675)には木庵から嗣法するまでに至っています。同年、忠茂は自らの菩提のため、萬福寺に塔頭別峰院(開山は鉄文)を建立しました。

寛文9年(1669)3月 忠茂【58歳】と3代藩主・鑑虎【25歳】は、木庵と木庵の法弟・鉄文道智[1634~88]を江戸屋敷に招き、立花家の菩提寺である曹洞宗梅岳寺を黄檗派に転じて梅岳山福厳寺という新寺を開きたいこと、柳川藩出身の鉄文を開山に迎えたいことを願います。
当時、キリスト教禁制を目的に幕府が寺檀制度を確立させ、新寺の建立を禁止していたので、黄檗寺院の新設には転派や再興という名目が必要でした。

寛文9年(1669)8月求めに応じた鉄文は柳川に入り、福厳寺を開きました。

延宝2年(1674)10月1日 鑑虎による伽藍整備が進み、大雄宝殿、選仏場(禅堂)、禅悦堂(食堂)、方丈などの諸堂と釈迦三尊像、四天王像などの諸仏が開堂開光されました。
鉄文は藩内に次々と黄檗寺院を創建し、後継者たちも福厳寺の末寺を増やしていきます。黄檗寺院創建の波は柳川藩に限らず、日本全国に拡がっていました。



隠元の来日直後から、渡来中国僧との交流を求める大名や上流武士たちが少なくなく、彼らの援助により、およそ90年間で千寺以上の黄檗寺院が建立される勢いがありました。
しかし、後進のため檀家を得ることが難しく、中国僧の来日が途絶えた江戸時代中期には、無住に戻った寺もありました。さらに明治維新や廃仏毀釈により黄檗寺院は半減しますが、柳川藩領の黄檗寺院は明治5年(1872)時でも40ヶ寺を数え、他藩よりも格段に黄檗文化が根付いていたことがうかがえます。



黄檗文化!?

隠元さんが隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚、明朝体、原稿用紙などを持ち込み、日本の文化全般に影響を及ぼしたことは、歴史の教科書で読みました。
実際に、萬福寺や長崎興福寺などを拝観して、中国明朝様式の建造物に圧倒された思い出もあります。
ですが、長い歴史を誇るほかの禅宗をこえて当時の人々を魅了する力が、黄檗文化にあったのでしょうか?



幸いなことに、忠茂、鑑虎、木庵、鉄文がかかわって開かれた梅岳山福厳寺は、現在も立花家の菩提寺として、黄檗宗の法式による供養を続けられています。

江戸時代の大名280家余のうち、藩主が黄檗寺院に埋葬された家は20家ほどですが、一代限りの例がほとんどで、黄檗寺院を歴代の菩提寺とした家は多くありません。なかには明治時代に宗旨を神道に替えた家もあるので、菩提寺として旧大名家とのつながりを保ち続けている黄檗寺院は珍しいのです。
したがって、旧大名家の菩提寺で黄檗宗の法式による供養に参列する機会は、ものすごく希少だと言えます。

たまたま立花家の法要を覗き見する用件がなければ、わたしは今も「経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している」実態を知らないままでした。
この時はじめて、黄檗文化に傾倒した忠茂さんたちの気持ちを理解できました。






未知の文化に出逢った衝撃! このトキメキは見らんとわからん!

忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



戦国の世が過ぎ、体制が安定する手前の、落ち着かない時代を生きた忠茂さん。
宗茂の祖業を懸命に継ぎながら、時に福嚴寺を開いたり雷切丸を譲ったりと大胆さをみせるギャップが、大変興味深いです。



参考文献
錦織亮介「第4項 黄檗文化への傾倒」86-98頁(柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』2007.3.22 柳川市)、穴井綾香「黄檗禅への帰依」44-45頁(  柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市)

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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂②

2024/10/23

来月11月6日に350回忌をむかえる前に、前回の “立花忠茂[1612~75]ってどんな人?” をもっとフカボリしてみます。






あらためて、「第1章 宗茂と忠茂」(『図説柳川家記』34-57頁)や「藩主忠茂の時代」(『柳川の歴史4 近世大名立花家』314-343頁)を参考に、忠茂の人生をライフステージごとに見ていきましょう。

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慶長17年(1612)7月7日 立花宗茂の5歳下の弟・高橋直次〔1572~1617〕の4男として誕生。即日宗茂〔46歳〕 の養嗣子「千熊丸」に【忠茂1歳】
慶長19年(1614)忠茂実父・直次 〔43歳〕常陸国柿岡(現 茨木県石岡市)5千石の旗本となり「立花」と改名、宗茂〔48歳〕と大坂冬の陣、翌年夏の陣に徳川方で出陣 【3歳】
元和6年(1620)11月27日 義父・宗茂〔54歳〕が筑後国柳川11万石に再封決定【9歳】
元和8年(1622)12月27日元服 「左近将監」に。実名は2代将軍・秀忠の偏諱をうけ「忠之」に。後に「忠茂」「忠貞」と改名、ふたたび「忠茂」を名乗る【11歳】


忠茂は、当時では祖父と孫ほどの年齢差にあたる46歳の立花宗茂の養嗣子となります。
ちなみに宗茂と義父・道雪とは54歳差、実父・紹運とは18歳差でした。

忠茂の誕生時には、すでに戸次道雪[1513~85]が雷を切ってから65年、高橋紹運〔1549~86〕が岩屋城で討死してから26年、誾千代〔1569~1602〕が腹赤村で没してから10年、宗茂[1567~1642] が柳川城(現 福岡県柳川市)を離れてから12年、奥州南郷(現 福島県棚倉町)に領地を与えられてから6年が過ぎていました。

おそらく江戸生まれの忠茂は、立花家の江戸屋敷で宗茂の継室・瑞松院〔1568~1624〕に大切に育てられたようです。忠茂が物心つく頃に戦乱は終結、そのまま東北の3万石を継ぐはずでしたが、9歳で九州の11万石大名の世継ぎとなります。江戸からの距離は、筑後柳川が奥州南郷の6倍余も遠いため、忠茂本人には戸惑いがあったかもしれません。

11歳の忠茂は、2代将軍・徳川秀忠の前で元服しました。通常、将軍の偏諱は、国持大名や「松平」名字を与えられた家にしか与えられないので、忠茂が「忠」の字を拝領したのは異例だといえます。宗茂が秀忠に近侍していたからでしょうか。


寛永6年(1629) 義父・宗茂[63歳]が「内儀」の隠居【18歳】
寛永7年(1630)12月頃 2代将軍・秀忠の意向のもと永井尚政の娘・玉樹院と祝言、4年後の寛永11年12月死別 、二人の子も早世【19歳】
寛永13年(1636)5月立花家什書を譲られる【25歳】
寛永14年(1637)12月~翌2月末島原の乱に参陣【26歳】追って宗茂[72歳]も出陣
寛永16年(1639)4月3日家督を相続、2代柳川藩主に【28歳】
寛永19年(1642)11月25日 宗茂[76歳]が 江戸にて没、広徳寺に葬られる【31歳】
正保元年(1644)4月頃 3代将軍・家光の意向のもと伊達忠宗の娘・法雲院と祝言【33歳】


60歳をこえた宗茂が「内儀」の隠居をすると、代わりに忠茂が江戸と国元・柳川を行き来し、家臣との主従関係を深めていきます。忠茂が経験した唯一の戦「島原の乱」では、72歳の宗茂も出向き、父子で戦いました。宗茂の老後は長かったので、忠茂を自分の後継とするべく、丁寧に育成したようにみえます。
江戸に住む宗茂の指示を仰ぎつつ、領国支配を進めていた忠茂は、宗茂の危篤を受け柳川を出立しますが、臨終に間に合えず大坂で引き返しました。

宗茂が没した翌年、忠茂は3代将軍・家光から法雲院〔1623~80 〕との縁談を命じられます。この縁組もいろいろと異例でしたが 、二人の間には、後の3代柳川藩主・鑑虎忠茂から「雷切丸」をもらった茂辰、早世した兄から「雷切丸」を引き継いだ茂堅 、ほか5男2女(一説には6男2女)が生まれました。


万治2年(1659)「左近将監」から「飛騨守」に。【48歳】
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、同11月20日剃髪し「好雪」と号す。あわせて「忠茂 チュウモ」と名乗る。晩年は「忠巌」に。【53歳】
延宝3年(1675)9月19日江戸にて没、小石川徳雲寺(現 東京都文京区)に葬られる。享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」
延宝8年(1680)2月2日忠茂継室が江戸にて没、小石川徳雲寺に葬られる。享年58、法名「法雲院殿龍珠貞照大夫人 」

「飛騨守」に任ぜられた頃から身体に不調をきたしていた忠茂は、隠居後も病に悩まされましたが、和歌や茶などの趣味に傾倒したようです。




以上をふまえて、 “立花忠茂[1612~75]ってどんな人?” に私見でこたえると、

幸運の星の下に生まれ【実父が無役の時に大名家養嗣子に/義父・宗茂が柳川に復帰/伊達政宗の孫娘と再婚】、宗茂の七光りに照らされ【徳川将軍2代・秀忠と3代・家光による厚遇】、子宝に恵まれた【徳川家康の玄孫を後継とする】、柳川藩11万石の2代目藩主




となるのですが、なぜか素直に忠茂さんを羨めません。
幸運と七光りの裏に、絶妙な苦労が見え隠れしているからでしょうか?

忠茂さんの苦労話は参考図書で読めます






そんな忠茂さんですが、わたしが非常に共感を覚えるポイントがあります。
350回忌を機に、この共感を皆さまとも分かち合いたいと思います。







2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji



参考文献
柳川市史編集委員会 編 『図説柳川家記』2010.3.31 柳川市、 中野等・穴井綾香 『柳川の歴史4 近世大名立花家』2012.3.31 柳川市

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柳川藩主立花家が所蔵していた「兼光」の刀

2024/10/22

柳川藩主立花家が所蔵していた刀剣類について、台帳形式で現時点で確認できる最古の記録は、明和4年(1767)10月にまとめられた「御腰物由来覚」です。

この「御腰物由来覚」は、立花家で代々大切に受け継がれてきた刀の由来を、今までのような口伝えでなく、きちんとした記録として残そうと、担当係「御腰物方」で相談し、寛永年間(1624~44)から当時までの所蔵刀剣について吟味の上、作成されました。



この 「御腰物由来覚」に記載されている133口のうち、「兼光」の刀は6口。
『柳川の美術Ⅱ』 の翻刻を引用して、記載順で紹介します。
ただし、記述は当時の立花家での理解によるものなので、内容の正確性は担保されないことをご了承ください。

柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』(柳川市 2007.3.22発行、2020.3.31第二刷)401-419頁掲載の翻刻を引用。読みやすさを優先して、旧字、異体字、合字、変体仮名を通用の文字に、漢数字を算用数字に改めています。また敬意をあらわす欠字も省略しています。

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一 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 ◉立花家史料館所蔵
右は道雪様【宗茂義父・戸次道雪】御定差、宗茂公【初代藩主・立花宗茂】へ御譲、御合戦度毎に宗茂公被成御差候由、御代々御譲にて御座候処、鑑茂公【3代藩主・鑑虎】御代貞享2年丑(1685)12月原尻老之丞へ被下之候、其後宝永元年申(1704)9月28日立花源左衛門宅へ鑑常公【4代藩主・鑑任】御光儀之節進上之、唯今御拵等無之
※追記「此御刀天明4申年(1784)6月28日 梅岳御霊社へ従若殿様御奉納ニ相成ル」

一 備前兼光 銘有 8寸7分半  御小脇指   
右は寛永年中(1624-44)御求ニ相成候由 御帳に有之候、其後於石様【3代藩主・鑑虎娘 石】為御守御脇差被進之候処、延宝3年卯(1675)2月28日戸次勝左衛門手前より役方へ相渡、請取候段御帳有之候

一 兼光 無銘 2尺9分  大御脇差 
右は英山様【3代藩主・鑑虎】御代より御持伝之御道具、以前御刀之由延宝年中(1673-81)之御帳面ニ有之、当時御野差相成居申候

一 兼光 無銘 2尺6寸分半  御刀    
右は延宝元年丑(1673)11月被為 召之候、其後源五郎様【2代藩主・忠茂息子 貞晟】へ被進之、以後御譲之御道具、当時御定差

一 兼光 銘有 2尺9分 御刀    
右は天和3年(1683)鑑常公【4代藩主・鑑任】 御誕生之節、本多隠岐守様【4代近江膳所藩主・本多康慶、鑑任実母の兄弟】より被進之候道具と相見へ申候、併猶又吟味之事、元文4未年(1739)貞則公【6代藩主】就御出府御差料之御拵出来、寛保3年亥(1743)4月鑑通公【7代藩主】御花畠へ被成御座候節被進之候

一 波游兼光 金ニて入銘波游未代之劍兼光也/羽柴岡山中納言秀信所持ト有リ 2尺1寸4分半 御刀 
 折紙金五拾枚
右は往古上杉謙信秘蔵之道具之由、上杉家にては小豆兼光と申、重宝ニて有之候処、景勝【初代米沢藩主・上杉景勝】時代羽柴岡山中納言【小早川秀秋】依所望彼家ニ相渡り、波游と改名有之候由、其後年数経、払物ニて被為召候由、享保年中(1716-36) 有徳院様【8代将軍・徳川吉宗】御代上杉家兼光御僉儀[=詮議]之処、此方様御家に有之候段、本阿弥家より達上聞候処、可被遊上覧之由沙汰有之段、本阿弥家より為御知申上候ニ付、早速御硎[=研ぐ] 等被仰付之、其御用意有之候得共、入上覧不申候て相済申候

羽柴岡山中納言秀信とは、小早川秀秋が関ケ原合戦後に改名した「秀詮」の書き間違いでしょうか。



現在、立花家史料館が所蔵しているのは「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」のみです。他の刀剣類は様々な理由により、いつしか立花家から出ていってしまいました。



「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」は、戸次道雪から立花宗茂へと譲られ、宗茂自身も合戦のたびに指料として腰に差したと伝えられます。
一般的な評価では名物「波游兼光 」とは比べようもありませんが、柳川藩主立花家においては、この「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」 こそが家の重宝であり、必ず残すべき刀であったのです。


11月30日15時~開催のオンラインツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」では、この「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」 が主役となります。

ロマンあふれる伝来とともに、刀身そのものの美しさや見どころをカメラで直接撮影しながら 、備前刀のスペシャリストである望月規史氏(九州国立博物館 主任研究員)と杉原賢治氏(備前長船刀剣博物館 学芸員)が解説されます。ものすごく楽しみです。

当日参加が出来ない場合でも、後日アーカイブでご視聴いただけますので、ぜひお気軽にご参加ください。

詳細はコチラ


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「骨喰藤四郎」の御礼状[大友家文書]を高精細画像で見る

2024/10/4

2024年9月30日に、所蔵者の立花家史料館と寄託先の柳川市(柳川古文書館)そして東京大学史料編纂所の三者で連携協定が結ばれ、大友家文書・旧柳川藩主立花家文書(立花家史料館所蔵分)の高精細デジタル画像がWEB公開されました。

実現に至るまでの経緯やWEB公開の意義などは、いずれくどくどと語るつもりです。


ともあれ、さっそく活用してみましょう!

わたしのイチオシ「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]。

天正13年(1585)9月27日に 豊臣秀吉が大友左兵衛督/義統に宛てた手紙です。
秀吉が「吉光骨啄刀(骨喰藤四郎)」を所望したところ、義統がすぐに進上したので、大変満足である
と述べられています。

包紙や裏面の画像もあって惑わされますが、本紙表は00000491です。



せっかくなので、先に本紙裏 00000490も見てみましょう!
「切封 キリフウ」の形と〆の墨跡がよくわかります。「切封」とは下図のとおり、手紙を奥から袖に向かって折りたたみ、切った端を帯にして結わえ、その上に封締を印す封式のこと。

東大史料編纂所 Hi-CAT Plusの高精細デジタル画像じゃなきゃ見逃しちゃうところです。


あらためて書状の文面 00000491 を見てみましょう!

本文一行目冒頭にたっぷりとした墨で書かれた「吉光骨啄刀」が目に入ってきますが、続く文章を読み進められそうにありません。

でも、安心してください!

さすが東京大学史料編纂所。
明治34年(1901)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集『大日本史料』のデータベースをWeb公開しているので、活字化された翻刻文をすぐに確認できます。

東京大学史料編纂所HP》→《データベース検索》→《大日本史料総合データベース》→東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第11編之20』1997 東京大学394-7頁

天正13年9月27日 大友義統、骨啄刀を秀吉に進む、是日、秀吉、之を謝す、

頁をめくると、「骨喰藤四郎」についての参考文献も紹介してくれています。

『大友興廃記』(東京大学図書館所蔵)巻二十二「骨啄刀の事」

『大友興廃記』‼️

『大友興廃記』で語られる 「雷切丸」の話(巻六「鑑連雷を斬事」)はコチラ


『大友興廃記』によると、「骨喰藤四郎」は大友家重代の宝刀でしたが、九州に下向した足利尊氏に献上され、足利将軍家の「御物」となったようです。いつしか松永久秀の元に渡っていたところ、大友宗麟/義鎮(義統の父)が先祖の重宝だと望み、永禄8年(1565)229年ぶりに大友家に帰ってきたと語られていますが、真偽は定かではありません。

「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]こそが、年紀がはっきりした一次史料なのです。
少なくとも、天正13年(1585)に大友義統から豊臣秀吉に「骨喰藤四郎」が進上されたのは確かなことでしょう。



ちなみに、当館所蔵の【国宝】短刀 銘吉光は、建武3年(1336)に足利尊氏から拝領したと伝わるので、『大友興廃記』のとおりなら「骨喰藤四郎」とは入れ違いになったとみられます。

せわしなく天下人の元を移った「骨喰藤四郎」とは対照的に、立花家にて秘蔵され続けた【国宝】短刀 銘吉光についてはコチラ



「豊臣秀吉書状」[大友家文書・書簡12-2]は、柳川古文書館の特別展『大友家文書の世界』(2017.10.11~12.6)で初めて展示されました。
わたしは【重要文化財】薙刀直シ刀 無銘伝粟田口吉光/名物骨喰藤四郎(豊国神社蔵) は何度も見に行っていたのに、当館が「骨喰藤四郎」の御礼状を所蔵しているとは思いもしませんでした……だって、近世大名立花家のことを調べるのに、よそのお宅の中世の文書である「大友家文書」を気にする必要がなかったから……



「大友家文書」は、豊臣秀吉により改易された大友家22代・義統が23代・義乗に譲ったあと、時期と理由はわかりませんが、 遅くとも延宝7年(1679)までには柳川藩主立花家の所有となっているようです。そのまま立花家に伝来し、そのうち290通が平成5年(1993)に国の重要文化財に指定されています。

大友家と立花家の関係が気になる方にオススメ
「雷切丸」「【国宝】短刀 銘吉光」の話もアリマス

◆販売中◆解説本『大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史 』500円(税込/送料別)西国大名の名門武家であった大友家と、近世大名家として唯一その歴史を受け継いだ立花家。両家の関係を重要文化財の「大友家文書」「立花家文書」や、大分県立先哲史料館所蔵文書を使って紐解く◎ A5判40頁オールカラー





大友家文書・旧柳川藩主立花家文書は当館の所蔵ではありますが、寄託先の柳川古文書館で長年にわたって整理・研究が進められ、丁寧に目録化されていたからこそ、今回の公開へとつながりました。東京大学史料編纂所の高精細なデジタルアーカイブズで簡単に検索できるので、当館学芸員が誰よりも喜んでいます。

優秀な研究者の方々の尽力により公開が実現したデジタルアーカイブズ「立花家史料館所蔵史料」を、お気軽にどんどん活用いただけましたら幸いです。


【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂①

2024/9/30

2024年11月6日(水)、柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。

福嚴寺さんの文化財修復をめざすクラウドファンディング
「戸次道雪・立花宗茂の眠る福嚴寺 聖観音を後世に。復活にご支援を」https://readyfor.jp/projects/fukugonji


忠茂が亡くなったのは、延宝3年9月19日。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1675年 11月6日です。
349年後の祥月命日に営なまれる重々しい節目の法要ですが、福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。



それでは、立花忠茂[1612~75]ってどんな人?

慶長17年(1612)7月7日 
立花宗茂の弟・直次の4男として誕生。即日、宗茂の養嗣子に。
元和8年(1622)12月27日 元服寛永7年(1630)永井尚政の娘・玉樹院と祝言、同11年12月死別
寛永14年(1637)12月~翌2月末
島原の乱に参陣 ⇒註1

寛永16年(1639)4月3日
家督を相続、2代柳川藩主に。
正保元年(1644)伊達忠宗の娘・ 法雲院と祝言⇒註2
寛文4年(1664)閏5月7日隠居、11月20日剃髪し「好雪」と号す。
延宝3年(1675)9月19日没 享年64、法名「別峰院忠巌好雪大居士」



註1:忠茂が島原の乱に持参したと伝わる甲冑の話はコチラ

島原の乱は、忠茂が生涯で参陣した唯一の戦となりました。



註2:いろいろあった忠茂の結婚事情の話はコチラ



そして、忠茂と「雷切丸」の話。
実は忠茂は、義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまったのです。

とは言うものの、渡した相手は吉弘家を継ぐことになった息子の茂辰。
藩主になれない息子に、祖父・道雪ゆかりの「雷切丸」を譲った忠茂の心情は理解できます。
しかし茂辰は早世。遺品分与されそうになった「雷切丸」は、弟の茂堅が「大切の御重宝」として、自らが継いだ矢嶋家にて伝えることにしました。
そして宝暦9年(1759)、「雷切丸」は矢嶋家から7代藩主・ 鑑通へ進上され、再び柳川藩主立花家に戻ってきます。

「雷切丸」が離れていた期間は、およそ100年くらいでしょうか。
帰ってきた「雷切丸」の存在価値は、偉大なる祖父の愛刀として扱っていた忠茂の頃よりも、ずっとずっと増していました。
以来、「雷切丸」は立花家で大切に伝えられ、現在は立花家史料館が所蔵しています。



その「雷切丸」は今、雷を切った因縁の地「大分県」へ出張中。

2024年11月10日(日)から臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!~義を貫いた武将、戸次道雪・高橋紹運・立花宗茂~」展にて展示される予定です。(~12月22日)


臼杵市歴史資料館「立花家史料館がやってきた!」
2024.9.29-12.22 チラシ


2代柳川藩主・忠茂のエピソードを紹介してきましたが、まだまったく語り尽くせていません。
次回こそが本題となりますので、乞うご期待!




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能へのラブは横綱級?最後の柳川藩主・鑑寛の趣味

2024/8/14

「写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式」から来た方は Skip


立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……




わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。



明治7年(1874)12月29日に17歳の息子に家督を譲った鑑寛は、同11年(1878)7月に東京を離れて帰郷します。5代藩主 貞俶が御花畠屋敷を造営して以来、柳川藩主のくつろぎの場所であった、現在の国指定名勝「立花氏庭園」の地に戻ってきたのです。

9月25日には、3月から普請が進められていた「御隠亭」に移りました。

茅葺の「御隠亭」の東には「能舞台」が、南には庭園「松濤園」がありました。鑑寛は、能舞台で能を演じたり、庭園に亭を設けて和歌を詠んだりと、49歳からの隠居生活を楽しんでいたようです。



ただし、彼の趣味にささげる情熱は、われらの想像を超えていきます。

柳川に戻った翌年の明治12年(1879)から亡くなる前年の41年(1908)までの29年間、鑑寛が謡、囃子、仕舞、能の演能にかなりの時間を割いていたことが、記録から読み取れます。
とくに明治18年~31年の期間は、さかんに能を主催していました。

演者は、息子や娘たちに、旧柳川藩士および立花伯爵家職員たち、そして旧柳川藩お抱えの能役者たち。もちろん、自らも演じました。



こちらは、相撲番付になぞらえたランキング「春秋御能相撲」 です。

明治17年~27年の10年間に御花畑(=御隠亭) 能舞台で上演した能番組をもとに、シテ(=主役の演者)の名前と『安宅』『海人』『當麻』『湯谷』『弦上』『小原御幸』などの演目を、順位付けしたものです。 演目の表記から、シテ方の流派は喜多流だとわかります。

ちなみに当時の相撲番付の最高位は、「横綱」ではなく「大関」でした。

能番付「春秋御能相撲」

東西の大関、関脇、小結というトップ3を独占する勢いなのが「大殿様」、すなわち鑑寛です。

ほかの名前はそれぞれ、鑑寛の三男・寛正と四男・寛篤、親族で鑑寛の養子となった十時、旧柳川藩士の野波八蔵 、宮川、問註所康光、立花伯爵家職員の与田庄三郎、佐伯 、岡田修理 、旧柳川藩お抱えの御役者であった喜多流シテ方・勝浦吉十郎と能役者・与田喜三太、名前しかわからない松尾球吉
あわせて12名です。

つまり、鑑寛と身近な同好者たち13名は、10年間でかわるがわるシテをつとめ、160曲を超える演目を御隠亭能舞台で上演しているのです。
彼らは、まったくのプライベートで、ご趣味でやってらっしゃいます……



能の上演のためには稽古しなければなりません。

例えば、明治19年(1886)4月7日の「御能」にむけて、1月20日 御謡合、2月8日 鳴物稽古、2月20日 御謡合、2月25日 鳴物稽古、3月1日 御謡合、3月5日 鳴物御稽古、3月14日 御謡合、3月20日 鳴物稽古、3月25日 鳴物稽古、4月1日 御能前御謡合、4月4日 御能大御習試と入念な稽古をかさねています。
そして本番当日は1日がかりで、7~8演目を上演するのです。


稽古して上演を繰り返すうちに早10年。
経緯は全くわかりませんが、 ” あの時の鑑寛様のステージが最高だったな?” “いや、あの演目も捨てがたい” という風な感じで、10年間の記憶を掘り起こしながらランキングを作成し、わざわざ印刷までしてしまいました。
印刷にかかる時間と労力と費用が、今よりもずっと大きかった時代にです。

しかし、彼らの能はここで終わりません。
この後も15年ちかくも続けられていきます。



現在のわたしたちには、鑑寛さんの能の巧拙を知る術はありません。
しかし、鑑寛さんの能への愛は、残された記録と能番付「春秋御能相撲」 から十二分に伝わってきて、その大きさに慄かされます。

鑑寛さんの趣味にかける勤勉さと、記録を残そうとする執念。
ここ、オンラインツアーでも出ます。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。

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写真でみる最後の柳川藩主・鑑寛のお葬式

2024/8/2

立花家13代当主となる鑑寛は、弘化3年(1846)6月22日から版籍奉還が勅許された明治2年(1869)6月17日までの23年間、柳川藩11万石の藩主の座にありました。


鑑寛は文政12年(1829)6月25日に柳川で生まれました。父は8代藩主 鑑寿の息子・寿淑、母は立花通厚の娘・つて、どちらも7代藩主 鑑通の孫になります。正室は、田安徳川家3代 斉匡の16女・純姫です。

該当する柳川藩主立花家系図



激動の幕末期に徳川一門の末席に連なった鑑寛の前半生は、当時の政治情勢と複雑に絡みあっているので、我が手にものすごく余ります。

でも、安心してください!

このあたりは、8月31日19時からのオンラインツアーにて、柳川古文書館館長の江島さんが詳しく解説されます。もちろん、わたしも真面目に履修します。アーカイブ配信があってよかった……【終了しました】



わたしが知っている鑑寛は、”和歌と能を極めた楽隠居”。

明治7年(1874)12月29日、鑑寛は当時17歳の息子に家督を譲ります。さらに明治11年(1878)には東京を離れ、柳川に戻ってきました。
現在の国指定名勝「立花氏庭園」内に建てた屋敷にて、和歌や能などの趣味に邁進していたようです。


亡くなったのは明治42年(1909)2月24日、享年80でした。

葬儀は3月3日、立花家の菩提寺である福厳寺(福岡県柳川市)で厳かにとりおこなわれました。
残っている記録をみると、式場用の椅子机を借り入れたり、大導師以下各参列寺院の席次や受付などの役割を決めたりと、大がかりだったことが分かります。


115年前に撮影された、最後の柳川藩主のお葬式。

まず気になるのは、仮設の屋根。
今でも野外の行事に欠かせない仮設テントが、当たり前ですが藁葺きです。
祭壇は本堂を背にする位置に、南側の天王殿に相対して設えられています。
何よりも、すべて屋外でおこなわれるようです。



鑑寛の長男・寛治とその妻・鍈子が、それぞれ焼香をすませました。

寛治さんは洋装の礼服を着ているように見えます。
鍈子さんは和装の喪服でしょうか?白い喪服‼

「同令夫人御焼香済御復席」 拡大 白い喪服姿の令夫人

中央に鎮座する屋根付の六角柱は、鑑寛さんの棺でしょうか?



12代藩主 鑑寛については、この葬儀以外の写真は確認されていません。
肖像画も伝来していないので、オンラインツアーでじっくりとご覧いただく「徳川将軍参内式列画巻」の中に描かれている姿が、おそらく唯一の鑑寛像です。

実は、この絵巻を開いて見たことがある人は、ほんの少数。

立花家史料館蔵「徳川将軍参内式列画巻」

わたしも未見ですので、ワクワクしながらオンラインツアーを待っています。



今回のオンラインツアーは、情報が詰めこまれた濃密な内容にならざるを得ません。

オンラインLIVEツアー「柳川藩の明治維新-最後の藩主立花鑑寛が見た歴史の転換点」(2024.8.31 19時~開催) 柳川古文書館と立花家史料館の両館長が、最後の柳川藩主・鑑寛が見た明治維新を紐解きます。リアルタイムで初公開資料をカメラで撮影、チャットの質問にお答えします。 ◆解説冊子A5版カラー、柳川有名店のレトルトカレーセット 付


オンラインツアーの予習となるよう、鑑寛さんのことをすこしずつ紹介していきます。


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〇〇藤四郎じゃない【国宝】短刀 銘吉光(立花家史料館蔵)

2024/2/13

当館が所蔵する「短刀 銘吉光」は、国宝に指定されています。




吉光は、鎌倉時代中期に京都粟田口(現在の京都市東山区)で作刀していた刀鍛冶の名前です。江戸時代には正宗、郷義弘とあわせて「天下三作」と評価され、短刀の名手として知られています。


この吉光が作刀した刀のうち、現在(2024年2月)国宝に指定されているのは、 短刀3口と剣1口。当館所蔵の短刀をのぞいて、みな “あだ名” をもっています。

「厚藤四郎」に「後藤藤四郎」に「白山吉光」……いいなぁ……



ちなみに、「厚藤四郎」(東京国立博物館蔵)と「後藤藤四郎」(徳川美術館蔵)の “あだ名” は、徳川幕府8代将軍・吉宗の命で編纂された『享保名物帳』により定着した名物としての号です。
また、「剣 銘吉光」(白山比咩神社蔵)は、江戸時代の記録にて「白山吉光」と称されていることが確認できます。




立花家伝来の「短刀 銘吉光」 にも、 “あだ名” があったらいいのになぁ……

うちのコも、 現存する吉光作の短刀のなかでも傑作と評価され、国宝に指定された名刀なのに……
制作当初の姿のまま伝世してきた、ピチピチのカワイコちゃんなのに……

と、ずっと残念に思ってきました。

いっそ「立花藤四郎」(仮)とか “あだ名”をつけちゃおうかしら?と、浅はかにも考えたこともあります。



しかし今回、 オンラインツアー「大友と立花、歴史の絆ー九州の名門が紡ぐ戦国史」解説ブックレットで「短刀 銘吉光」について執筆するにあたり、改めて史料を見直しているうちに、目が覚めました。
立花家が所持しているから “あだ名” を「立花藤四郎」(仮)にしちゃえという考えは、全くの心得違いだったのです。



「短刀 銘吉光」について、立花家で私的にまとめられた系図『御内實御系譜下調』では、次のように記されています。

(前略)同九年[註:天正九年(1581)]辛巳 宗麟之命ニ因テ立花親善之嗣ト為リ立花ヲ以テ氏ト為三器之譲ヲ受ク。所謂三器ハ其一ハ軍旗。頼朝公自ラ八幡大菩薩ノ五字ヲ於軍旗ニ書テ之ヲ大友能直ニ賜フ。其二ハ軍扇。建武四年正月十日大友貞載結城親光ヲ楊梅東洞院ニ斬ル。首ヲ軍扇ニ載将軍尊氏之覧ニ具フ。之ヲ血付ノ扇ト謂フ。其三ハ短刀。貞載親光ヲ斬ル之功ニ因テ尊氏粟田口吉光短刀ヲ貞載ニ賜フ。(後略)

簡単に解説すると、

初代柳川藩主・立花宗茂の先代となる戸次道雪が、大友宗麟からの主命により、立花氏の名跡とともに「粟田口吉光短刀」をふくむ「三器」を譲り受けた

と記されています。



当時、前期立花氏7代・鑑載が大友家に謀反して撃退され、立花氏は断絶していました。なお、この翌年の天正10年(1582)11月18日に立花城にて「御旗御名字」の御祝がなされ、この時をもって宗茂が名字を戸次から立花に改めたと考えられます。 

つまり、「軍旗」「軍扇」「粟田口短刀吉光」の「三器」を所持するが故に、「立花」を名乗ることが許されているのです。

この「三器」を理解していただくには、 前期立花家のこと、戸次道雪を初代とする近世大名立花家のこと、立花家のルーツであり主家でもある大友家のことを説明しなければなりません。
話は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の時代にまでさかのぼり、途中で室町幕府初代将軍・足利尊氏もからんでくるので、とても複雑になってきます。



そこで朗報です!!

2月17日(土)に開催されるオンラインツアーでは、この複雑極まりない説明のすべてが、わかりやすく丁寧にひもとかれます。【終了しました】

当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に関心がある方にも、是非聞いていただきたいところです。

締切は明日2月15日(木)、定員になる前に!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。






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当館所蔵の 【国宝】「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないのは、立花家から外に出なかったので、 “あだ名” が付けられる機会がなかったということの証です。

わたしは今、「短刀 銘吉光」 に “あだ名” がないことを誇りに思っています。


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「立花道雪」の名前で出ています

2024/2/10

立花家史料館では、近世大名・立花家に伝来した美術工芸品を展示しています。

では、近世大名家・立花家とは?

この説明が、ものすごく複雑です。

まず、「近世大名・立花家の初代は、戸次道雪 ベッキドウセツ です」と説明をはじめるのですが、その時点で「立花家の初代なのに、戸次?」となります。
とくに、ゲーム等で「立花道雪」の名前をすでにご存知の場合、「戸次道雪」の名前に困惑されることがよくあります。

戸次道雪[1513~1585]

戦国時代の後半を戦いぬいた勇将。
子どもの時の名前は八幡丸 ハチマンマル 、大人になると鑑連 アキツラ と名乗り、出家後の名前が道雪 ドウセツです。
豊後国(現在の大分県)を中心に九州北部を治めていた大友家のために、17歳の初陣から、合戦に臨む陣中で没した73歳まで、数多の合戦で活躍しました。

道雪が雷を切ったとされる刀が「雷切丸」の名で立花家史料館に伝来しています。



わたしたち学芸員も、この説明に時間をとられて、なかなか立花宗茂や誾千代の話にまでたどりつけないことを、大変もどかしく思っていました。

そこで朗報です!!

どうしても話が複雑になる立花家初代のことや、「立花道雪」の名前で知られている「戸次道雪」のことを、立花家のルーツである大友家にからめて丁寧に解説するオンラインツアーが開催されます。【終了しました】

解説ブックレットのチラ見せ





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当館館長のツイートのとおり、理解すると、この複雑さがクセになります。

空前絶後の機会ですので、ご興味をもたれた方は是非!!
当日ご都合が合わなくても、アーカイブ配信をご覧いただけます。

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