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立花宗茂の甲冑を、表も裏も細部まで知りたいときは?

2025/6/5

現存する立花宗茂の甲冑は「 鉄皺革包月輪文最上胴具足」と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」の2領

どちらも立花家史料館が所蔵しています。



この2領について、表も裏も細部まで知りたい方にオススメするのが ⇒

立花家史料館オンラインLIVEツアー
第1回【立花宗茂の甲冑大解剖】 伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足

立花家史料館オンラインLIVEツアー
第2回 【立花宗茂の甲冑大解剖Ⅱ】鉄皺革包月輪文最上胴具足



しかし、第1回 2023年1月27日・第2回 2023年6月2日 の配信後は、ご覧いただける機会がありませんでした。



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アーカイブ映像は、配信映像に適宜解説字幕とインサート映像が追加されていますので、配信時より分かりやすくなっています。



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これまで見逃してしまった方も、
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では、第1回・第2回【立花宗茂の甲冑大解剖】をプレイバック

まずは予習がわりにコチラ ⇒




2023年1月27日は1時間、第2回 2023年6月2日は2時間弱の配信でしたが、どちらも当館の植野館長が、 表も裏も、微に入り細に入り、 解説しています。
ここまで丁寧に観察したり説明されたりする機会は、 学芸員でさえ滅多に経験することはありません。

私事ですが、立花家史料館の学芸員という立場にあって良かったなぁと、配信を見ながらしみじみ思いました。とてもとても勉強になりました。



2冊合わせて全40ページをフルに使い、宗茂の甲冑2領だけを徹底解説するB6判オールカラーの冊子は、 オンラインツアーがなければ、当館でも制作には踏み切れなかったほどの濃い内容となっています。

だからこそ、この2冊を一読するだけでも、甲冑への観察眼が磨かれ、他の博物館で見る他の武将の甲冑がより一層面白く感じられるようになっているはずです。

もちろん、さらにオンラインLIVEツアーのアーカイブを見れば、 甲冑鑑賞がもっと楽しく、もっともっと深いものになるでしょう。



今回の販売は、第10回開催記念の特別な企画ですので、次回は……
ぜひこの機会をお見逃しなきよう、心よりお願い申し上げます。

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立花宗茂の遺愛の備前刀って?

2025/6/2

「立花宗茂の遺愛の備前刀」について知りたい方にオススメしたいのが ⇒

立花家史料館オンラインLIVEツアー
第8回【立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力】

しかし、 2024年11月30日の配信後は、ご覧いただける機会がありませんでした。

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では、第8回【立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力】をプレイバック

まずは予習がわりにコチラ ⇒


名物「波游兼光 」よりも「 兼光 無銘 2尺4寸5分 御刀 」 こそが立花家の重宝だという話



コチラの動画内では 「剣 銘長光」【重文】に肉薄して鑑賞することができます。

文化財多言語解説動画『重要文化財 剣 銘 長光 』[ 3:54 ] 立花家史料館




2024年11月30日の配信では、望月規史氏(九州国立博物館 主任研究員)と杉原賢治氏(備前長船刀剣博物館 学芸員)というスペシャリストが、当館所蔵の「剣 銘長光」「刀 無銘伝兼光」を中心に、「備前刀」について解説されました。

B6判オールカラー48頁の解説冊子では、当館所蔵の「備前刀」だけではなく、長船派の系譜や備前刀各派の主な作刀地まで紹介されています。

岡山県瀬戸内市にある「備前おさふね刀剣の里 備前長船刀剣博物館」と、福岡県柳川市にある「立花家史料館」との二元中継で配信された、およそ1時間半のオンラインLIVEツアー。
杉原さんが兼光屋敷跡に立って解説されたり、望月さんが「刀 無銘 兼光」 を鞘から抜き出して解説されたり、ライブ感あふれる場面は必見です。






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初代柳川藩主・立花宗茂はいつから“西国無双”となったのか

2025/2/6
立花宗茂[1567~1642]
LINEスタンプやってます

近年、“西国無双”という誉め言葉とともに紹介される場面がとても増えた、 初代柳川藩主・立花宗茂。










“西国無双” =「西日本に並ぶものがないほどすぐれている」と褒められているのでしょうが、戦国ご当地大名たちは「みんなちがって、みんないい」(by 金子みすゞ) という意味では、誰もが “無双” なのではないでしょうか。

なぜ殊更、立花宗茂が “西国無双” なのでしょう?




いまのところ、立花宗茂が “西国無双” とはじめて称されたのは、修史家の岡谷繁実が192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』[明治2年(1869)初版刊行]だと推測されます。

 該当箇所を引用します。

(天正)十八年二月朔日、諸大名伺候シケル時、[豊臣]秀吉[徳川]家康ニ問テ曰、今度ノ上京ニ本多平八[本多忠勝]ヲ召具セラレタルヤト云 折節今日是ニまかりあり候とて、御前ニ召出サル、秀吉[立花]宗茂ヲ召シ、彼レこそ東国ニ隠レ無キ本多平八ト云者なり、宗茂ハ西国無双ノ誉レ有レハ向後心ヲ通シテ、宗茂ハ西国ニ守護シテ、いよいよ忠を尽クシ、平八ハ家康ヲたすケテ東国ノ守護スベシ、東西ニ於テ無双ノ者ナレハ、我前ニ於テ対面ヲ許スト云ハレケレハ……

岡谷繁実 『名将言行録』巻之27 「立花宗茂」1869 玉山堂

※旧字体は新字体に、難読漢字の読みは平仮名に変換しました。

岡谷繁実『名将言行録』巻之27・28,玉山堂,明2(1869)  /「立花宗茂」3-32コマ
国立国会図書館デジタルコレクション〔 公開範囲:ログインなしで閲覧可能 〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります



『名将言行録』 のこの場面は、天正18年(1590)2月1日と明記されています。
実際は、豊臣秀吉による後北条氏攻めの先鋒が出陣した日らしいのですが、諸大名が一堂に会する場面はなかったのではないでしょうか。


立花宗茂と本多忠勝とが「無双」と称せられる場面は、真田増誉が集録した『明良洪範』にも描かれていますが、すこし様子が異なります。
徳川氏と関連のある武将や家臣の事績を中心に収録される『明良洪範』の成立は、『名将言行録』より150年ほど遡るとみられているので、こちらが元となるのでしょう。

○ [豊臣] 秀吉公島津を征伐有て帰陣の後 立花宗茂を殊の外賞美せられ 若年なれども武勇は西国にて一人也と度々申出さる 神君[徳川家康] 御上京有し時 本多忠勝を召連られしやと有しに 御供の由申させ給へば 則召出され立花と引合せられ 両人東西にて無双の勇士天下の能固め也と賞せらる……

真田増誉『明良洪範』続篇巻之五 1912 国書刊行会

真田増誉『明良洪範 : 25巻 続篇15巻』,国書刊行会,1912.
国立国会図書館デジタルコレクション〔 公開範囲:ログインなしで閲覧可能 〕



実は、豊臣秀吉が立花宗茂を「武勇は西国にて一人也」的に褒める話は、現存する史料で確認できます。

オンラインLIVEツアー「戦国を駆け抜けた勇将 立花宗茂」解説冊子より



しかし、この書状での誉め言葉は「九州之一物」。
わたしたちは史料に則した「九州之一物」をアピールしていきたいのですが、「西国無双」のキャッチ―さに負けている感は否めません。



ところで、「九州の一物」のくだりは『名将言行録』にも書かれています。
岡谷繁実が参考文献として『立花戦功録』を挙げているので、そちらが反映されたのでしょうか。
▶️ 『名将言行録 巻之1』「名将言行録引用書目」
▶️ 安東省菴著『立花戦功録』 ▶️ 筑波大学附属図書館蔵「立花戦功録/附高麗記」国文学研究資料館 国書データベースより)

(天正十四年八月)二十五日高鳥井ノ城ニ押寄セ、半時ばかリカ内ニ攻破リ、星野兄弟ヲ打取リタリ、秀吉書ヲ賜ハリ其功ヲ賞セラル、又黒田宮木安国寺ヘ賜ハリシ書ニハ、立花ハ九州第一ノ者トソ仰下サル……

岡谷繁実 『名将言行録』巻之27 「立花宗茂」1869 玉山堂  7コマ

※旧字体は新字体に、難読漢字の読みは平仮名に変換しました。



ここまで『名将言行録』や『明良洪範』のエピソードを拾ってきましたが、描かれている宗茂はどこまで実像に近いのでしょうか?
そして、現時点での”立花宗茂”研究では、どのくらいのことが判明しているのでしょうか?


そんな疑問を抱いた貴方に朗報です‼

2月9日に開催するオンラインLIVEツアー【戦国を駆け抜けた勇将 立花宗茂】は、”立花宗茂”研究を代表するお二人、中野 等氏(福岡市博物館 総館長)と白石直樹氏(柳川古文書館 学芸員)をお迎えして、特別拡大版でお送りします。【終了しました】

◎当日のオンラインツアー内ではチャットにて直接質問ができます!
◎アーカイブ視聴のみの方をふくめ、事前にメールにてご質問を承ります‼ ⇒申込時に登録したアドレスからお送りください。
◎いただいたご質問は、時間がゆるす限りはオンラインツアー内にて回答しますが、時間内に対応できない質問は書面にて回答の上、全参加者の皆さまへお送りします。ご興味のある方は
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今回のオンラインLIVEツアー【戦国を駆け抜けた勇将 立花宗茂】は、“西国無双” のオンラインLIVEツアーだと言っても過言ではないと自負しています。


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立花家史料館オンラインLIVEツアー全10回

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【立花家伝来史料モノガタリ】
立花家伝来史料として大切に伝えられてきた”モノ”たちが、今を生きる私たちに語る歴史を、学芸員と読み解いていきます。
⇒これまでの話一覧  ⇒●ブログ目次●

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肖像画に描かれた初代柳川藩主・立花宗茂の“もみあげ”ふたたび

2025/1/30

令和7年1月15日「立花宗茂公祥月命日 大般若転読祈願法要」が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されました。



この法要は、福嚴寺ご所蔵の初代柳川藩主・立花宗茂の肖像画に見守られていました。

前回お話した立花家史料館所蔵の肖像画とも、京都の大徳寺大慈院ご所蔵の肖像画とも異なる画風ですが、立花家史料館所蔵の肖像画と同じく、印象的な長めの“もみあげ”はしっかりと描かれています。

⬆️ 京都の大徳寺大慈院ご所蔵の「立花宗茂肖像画」の話



過去には当館展示室にて、 福嚴寺ご所蔵の肖像画と当館所蔵の肖像画が並んだこともありました。

柳川古文書館と共催した立花宗茂柳川再封400年記念特別展
「復活の大名 立花宗茂」2020.1214~2021.2.7



宗茂が亡くなったのは、 寛永19年11月25日 。
カシオ計算機株式会社「生活や実務に役立つ高精度計算サイトkeisan」を利用して西暦に変換すると1643年1月15日です。

福嚴寺ご所蔵の「立花宗茂肖像画」は、 宗茂の没後半年がすぎた寛永20年(1643)5月25日に、家老の十時惟保(惟昌)が宗茂の「真影」を写させ、梅岳寺に寄進したものと伝えられます。以来、梅岳寺から福嚴寺と寺名を変えても肖像画は大切に受け継がれ、宗茂公法要の際に掲げられてきました。

描かれているのは、四位以上の正式な礼服である黒い束帯姿に、袈裟を簡略化した牡丹唐草文絡子をかけた、老年の威厳ある宗茂の姿です。
まさに国元の重臣が抱いていた宗茂の「真影」であると感じられます。



現存する幾つかの「立花宗茂肖像画」を見るだけでも、初代柳川藩主・立花宗茂の人物像が多面的であったことが想像されます。

では、現代のわたしたちは、宗茂の人物像にどこまで近づけるのでしょうか?



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今回のオンラインLIVEツアーは、1月8日のNHK『歴史探偵』「戦国ご当地大名シリーズ・立花宗茂」に出演した3名が一堂に会する希少な機会です。
『歴史探偵』放映後に不完全燃焼な想いを抱かれた方々に、 オンラインLIVEツアー【戦国を駆け抜けた勇将 立花宗茂】を強くオススメいたします。


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肖像画に描かれた初代柳川藩主・立花宗茂の“もみあげ”

2025/1/8

新商品「宗茂の顔デイリーバッグ」はじめました。

「宗茂の顔デイリーバッグ」 ⬇️ で購入できます








あらわされているのは、柳川藩初代藩主・立花宗茂の“顔”です。
立花家史料館が所蔵する肖像画をもとにデザインされました。

立花家史料館所蔵「立花宗茂肖像画」

肖像画が描かれたのは、宗茂の13回忌にあたる承応3年(1654)。
礼服である黒い束帯をまとう壮年の宗茂が描かれています。

印象的な長めの“もみあげ”は、実際の宗茂に似せたのでしょうか?

「立花宗茂」が全国的に有名になるとともに、この肖像画のメディア露出も年々増えつつあります。
しかし、実は近年までの約300年間、この当館所蔵の宗茂肖像画は誰にも知られていませんでした。



宗茂の13回忌から30余年が過ぎた、貞享5年(1688)。
宗茂の孫にあたる3代藩主・鑑虎は、新たに理想化された顔立ちの宗茂を描いた肖像画を作らせました。

このときの経緯については、20年前に立花家17代当主が語っていますので、是非ご一読ください。

立花家17代当主が語っているとおり、新しい肖像画は京都の大徳寺大慈院で大切に伝えられてきました。
廃棄予定だった元の肖像画は、ひっそりと柳川の立花家に伝来していたようですが、その存在は忘れ去られていました。


時はめぐり昭和62年(1987)、立花家の蔵(福岡県柳川市)で行われた本格的な学術調査で、元の肖像画は傷んだ状態で発見されます。
そして今から10年前、2015年「大関ヶ原展」での全国デビュー前に、補絹や剥落止めがほどこされ、大名の肖像画にふさわしい表具に改装されました。

10年前の修復の話

つまり、印象的な長めの“もみあげ”が描かれた当館所蔵の宗茂肖像画は、はからずも封印されてきたのです。



修復された当館所蔵の宗茂肖像画を見た、立花家17代の兄弟も、

「大慈院さん御所蔵の肖像画は、お参りのときに見せていただいていたけれど、これは今はじめて知った。随分ふっくらしているね。」

「もみあげが長い人だね。俺なんてもみあげがないから。」

と、“もみあげ”に注目していました。



そして今、封印が解かれた印象的な長めの“もみあげ” がお洒落にデザインされ、スタイリッシュなデイリーバッグとなりました。


あなたの暮らしに、宗茂の“もみあげ” を‼️




オマケ:立花家18代目が語る「立花宗茂の肖像画」

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高橋紹運が立花宗茂へ譲った「剣 銘長光」【重文】[後半]

2024/12/1

天正9年(1581)、戸次道雪の養嗣子となる日に、15歳の立花宗茂が、父の高橋紹運から譲られたという逸話をもつ「剣 銘長光」【重要文化財】
その5年後の天正14年7月27日、紹運は九州を北上する島津氏大軍に岩屋城で徹底抗戦の末に敗死。本剣は、宗茂にとって唯一ともいえる父の形見となってしまいました。





「剣 銘長光」【重要文化財】 立花家史料館所蔵


なぜ高橋紹運〔1549~86〕は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町長船地区)で作られた「剣 銘長光」を所有していたのでしょうか?

寺社仏閣が似合うようなイメージがある剣と、戦国時代の勇猛なる武将であった紹運との関係が気にかかりますが、調べようがありませんでした。



そんな折の2015年7月、立花宗茂イラストコンテストへのご協力をお願いするために豊後高田市の教育委員会をお訪ねした際、重要な知見をいただきました。

2015/8/10 の記事ですので、現在はイラストを募集しておりません。




高橋紹運は、豊後国武蔵郷吉弘(現 大分県国東市武蔵町吉弘)を本拠とする吉弘氏の出身であり、その吉弘氏は、室町時代中期には大友氏から都甲地域(現 大分県豊後高田市)に配置されていました。

都甲地域の歴史を知るには、 2014年に豊後高田市教育委員会が作成された『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』

豊後高田市HP/https://www.city.bungotakada.oita.jp/文化財室 > 「小冊子『都甲谷の歴史』について」から、PDF版をダウンロードできます。



そのうちに吉弘氏は長安寺の高い役職を歴任するようになり、鑑理・鎮信・統幸はみな六郷山別当や執行といった地位を手に入れていきます。これらの役職は、権威・権力共に非常に強いもので、都甲地域だけでなく、国東市の両子寺や香々地の霊仙寺など、六郷山寺院に広く影響力を持っていたと考えられます。

『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 36頁

紹運は吉弘鑑理の子で、高橋と名乗る前は吉弘鎮理※1という名前で登場します。紹運は都甲地域で生まれたとされており、「六郷山年代記」※2によれば、元亀三年(一五七二)には吉弘氏当主のように六郷山執行を勤めています。

『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 46頁

※1 永禄12年(1569)大友氏に謀反をおこした高橋鑑種にかわり、吉弘鎮理が岩屋城・宝満城(現 福岡県太宰府市)を本拠とする高橋家名跡を継ぎ、高橋鎮種、後に紹運と名乗る。
※2 長安寺所蔵 の「六郷山年代記」は慶長12年(1607)に長安寺僧の長老格であった豪意が六郷山の歴史を記したと伝わる。(『六郷満山寺院群詳細調査報告書』2016 豊後高田市教育委員会 ➡️ PDFダウンロード



大友家の加判衆をつとめ、戸次鑑連、臼杵鑑速とともに「三老」と称された吉弘鑑理〔?~1571〕は紹運の父、大友軍と島津軍とが激突した高城・耳川合戦で戦死した吉弘鎮信〔1544~78〕 は紹運の兄、豊臣秀吉から改易された旧主の大友義統に従って石垣原合戦で黒田軍(関ケ原合戦東軍)を苦しめて戦死した吉弘統幸 〔1564~1600〕は紹運の甥と、吉弘氏はそろって忠義に厚く壮烈だったようです。

この吉弘氏が、天台宗の金剛山長安寺【大分県指定史跡】の主要な役職であった「六郷山別当職」や「執行職」を占有し国東半島の寺院群に強い影響力をもっていたこと、紹運自身が「六郷山執行」という役職にあったことは、「剣 銘長光」の来歴を考える手がかりとなりそうです。



しかし残念ながら、現時点でわたしがお話できるのはここまで。
室町時代後期の吉弘氏の実状がさらに明らかにされるのを、期して待っています。




先の豊後高田市訪問の際には、高橋紹運ゆかりの地「筧城跡伝承地」「長安寺」などをご案内いただきました。 筧城は立花宗茂が生誕した地でもあります。

豊後高田市HP ▶️ 文化財 ▶️ 豊後高田市の先人たち ▶️ 【統幸公ゆかりの地・其の二】筧城(吉弘氏館)跡 伝承地 【統幸公ゆかりの地・其の三】長安寺【統幸公ゆかりの地・其の四】屋山城跡

近年「筧城跡伝承地」を案内する石碑が寄贈され、わかりやすくなっているようです。



ご案内いただいたなかで、とくに感慨深かったのは、国の重要文化的景観に選定されている「田染 タシブ荘小崎の農村景観」。中世から変わらない土地利用を現代に伝え、宇佐神宮の荘園であった「田染荘」の風景が残されています。 🔽



YouTubeチャンネル「 豊後高田市公式チャンネル 」より


永禄12年(1569)に福岡へ引っ越す前の高橋紹運(当時21歳)や立花宗茂(当時3歳)が眺めたであろう風景を、今まさに自分も見ているという浪漫に心がふるえました。



ゆかりの品がほとんど現存していない高橋紹運ですが、息子の宗茂へ譲った「剣 銘長光」 と「田染荘小崎の農村景観」が、現代のわたしたちに遺されています。


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参考文献
豊後高田市教育委員会 編集 『都甲谷の歴史-六郷満山と吉弘氏-』 2014.11 豊後高田市教育委員会、ぶんごたかだ文化財ライブラリーVol.1『 豊後高田の城跡 』2019.3.31 豊後高田市教育委員会文化財室⇒PDFダウンロード長安寺(大分県豊後高田市加礼川635) HP

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高橋紹運が立花宗茂へ譲った「剣 銘長光」【重文】[前半]

2024/11/22

江戸時代の柳川藩主立花家は、大名の家格にふさわしい刀剣を多数所持していたはずですが、当館が所蔵する伝来の刀剣は20口にもおよびません。
逆にいえば、立花家において重要な意味をもつからこそ、これらの刀剣は様々な事情を越えて残されてきたのです。
実際、それぞれの刀にまつわる逸話には、立花家の歴史が映し出されています。


柳川藩主立花家にて代々大切に受け継がれてきた刀の由来を記録して残そうと、明和4年(1767)に担当係の「御腰物方」が吟味の上まとめた「御腰物由来覚」 には、133口の刀剣が記載されています。
その筆頭には、徳川将軍家から歴代の柳川藩主が拝領した「刀 無銘 左文字」「短刀 粟田口則国」「刀 備前正恒」「刀 無銘 延寿」「刀 無銘 了戒」「小脇指 筑州左文字」の6口が列記されますが、すべて立花家から離れてしまいました。


将軍からの拝領刀の次に並ぶ7番目の刀剣が、現在も立花家史料館が所蔵している「剣 銘長光」【重要文化財】です。

「剣 銘長光」【重要文化財】 立花家史料館所蔵

「御腰物由来覚」の「一 長光 銘有 八寸壱分 御剣」の項を3行にまとめるとこんな感じ。

…柳川藩士が著した『浅川聞書』には、戸次道雪の養嗣子となる日に、15歳の立花宗茂が父の高橋紹運から本剣を譲られたという逸話がある。初代柳川藩主・宗茂の秘蔵であったが、2代・忠茂の代に立花家を離れ、後に再び戻された。…

〚CM〛11月30日(土) 15時~ オンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」【終了しました】の解説冊子(B6判カラー52頁) では、この逸話を詳しく解説! コチラで購入できます⇒

これまでのオンラインLIVEツアー解説冊子も購入できます








つまり、天正9年(1581) に宗茂へ譲るまで、「剣 銘長光」【重要文化財】の所有者は高橋紹運〔1549~86〕 でした。
紹運のゆかりの品はほとんど現存していないので、彼の形見としても貴重な1口です。


実はこの剣について、気になっている点が2つあります。


1つは、「剣 銘長光」の名刀たる所以です。

もちろん私は、端正な姿と澄んだ地鉄に映える沸づいた乱刃調の刃文とが絶妙に調和した本剣を、誇りに思っています。ただ、本剣は長光としてはイレギュラーな作例なのです。


長光は、鎌倉時代中期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町長船地区)で活動していた刀工です。名工として技量が高かったといわれます。
文化庁「国指定文化財等データベース」を利用して数えると、現在、国宝・重要文化財に指定されている長光の刀剣は34口。剣2口、薙刀2口のほかはすべて太刀(金象嵌銘と無銘の刀を含めます)です。この傾向は、国宝・重文指定の13口のうち、薙刀直シ刀1口、剣2口以外はすべて短刀という吉光と対照的ではないでしょうか。


当館所蔵の【国宝】短刀 銘吉光は、ほかの作例と比べた上で優品だと断言できます。

しかし、長光の他の剣を実見できてない私に、本剣をほめたたえる資格があるのでしょうか。
「それってあなたの感想ですよね」って言われたらどうしよう。


そんな私に朗報が!

望月規史氏(九州国立博物館 主任研究員)と杉原賢治氏(備前長船刀剣博物館 学芸員)というスペシャリストが、当館所蔵の「剣 銘長光」「刀 無銘伝兼光」を中心に「備前刀」を 解説するオンラインLIVEツアー「立花宗茂遺愛の刀剣と備前刀の魅力」が開催されます!【終了しました】


〚CM〛LIVEツアー は、展示室では見られないアングルで撮影した映像と専門家の解説、チャット機能を利用した質問対応と臨場感も楽しめます。アーカイブ視聴期間は約1ヶ月間、別途撮影した「剣 銘長光」の映像も追加予定です。ご興味のある方は⇒ 【終了しました】



本剣についての忌憚のない評価がうかがいたいと、今回のオンラインツアーを心待ちにしています。


ところで、さきほど国宝・重要文化財に指定されている長光作と吉光作の刀剣を数えましたが、あわせて4口の剣のうち、3口は神社の所有となっています。
偏見ではありますが、剣には寺社仏閣が似合うようなイメージがあります。

高橋紹運は、なぜ「備前刀」の剣の優品を所有していたのでしょうか?

この気がかりについては、後半で考えてみます。






オンラインツアーの前にコチラのブログもどうぞ


2025年6月22日までの期間限定!

立花家史料館オンラインLIVEツアー全10回

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(視聴期間~2025年8月31日)



アーカイブ映像は、配信映像に適宜解説字幕とインサート映像が追加されていますので、配信時より分かりやすくなっています。

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立花宗茂、下り汽車で柳川へ帰る

2024/11/4

明治36年(1903)から昭和53年(1978)まで柳川で発行されていた新聞『柳河新報』 ➡️

大正14年(1925)9月19日の3面にこんな記事が。

宗茂公の御遺骨帰る 
代々の藩主のも臣下のも共々菩提寺福厳寺に帰葬

山門郡柳河旧藩主立花宗茂公 二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 及家臣の遺骨二十七個 其他 各遺物数個は既報の通り 東京都下谷区広徳寺住職福富龍瑞師 及並に安東家扶の随供にて去十四日午前九時四十分の下り列車にて矢部川駅着

同駅には吉田 大村 両家扶を始め 各家従 其他 有志多数の出迎へ 各遺骨は二台の自動車に乗せ 出迎への一同は数台の自動車に分乗し 沿道は伝習館、女学校、盲学校 其他 各小学校 一般有志の参列者 柳河町より城内へ数丁に亘り 同午前十時五十分 立花家菩提所城内村福嚴寺に到着 立花寛治伯 同夫人 令嗣鑑徳氏 夫人 及御家族の出迎にて福嚴寺御堂に入り厳粛なる帰葬を執行し 龍岡同寺住職 以下各宗僧侶数十名の読経 導師の香語に次で 立花伯爵夫妻を始め一門の人々の焼香参詣し 午後一時頃終了したが 会葬式者は 城内村軍人分会員、同村青年団会、處女会員、柳河婦人会員及び一般有志 五百余名に上つた



初代柳川藩主・立花宗茂が柳川に帰ってきました!

大正14年9月14日午前9時40分矢部川駅(現 JR九州鹿児島本線瀬高駅)着の下り列車にて、初代柳川藩主・立花宗茂をはじめ広徳寺や宗雲院に埋葬されていた御遺骨が福岡県柳川へ帰ってきました。

東京からの下り列車に乗って。

宗茂にとっては、島原の乱が終結した寛永15年(1638)3月頃、江戸へ戻る前に柳川城に立ち寄って以来、およそ240年ぶりの柳川入りです。


大勢の出迎えの人々が、柳河町から城内への数丁の沿道に並んでいたようです。

おそらくはこんな感じだったのではないでしょうか。

こちらは、宗茂の帰郷から10年後に撮影された動画です。
昭和10年(1935) 4月立花伯爵家の一人娘・文子が、元帥島村速雄の次男・和雄と結婚、披露宴のため柳川に帰郷しました。動画冒頭では、矢部川駅から立花邸までの道沿いに並ぶ、出迎えの人々が映されています。



午前10時50分、車は柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺(現 柳川市奥州町)に到着、子孫の立花伯爵家家族に出迎えられました。福嚴寺でも僧侶数十名により読経と500余名の焼香参詣をうけるほどの歓迎ぶりでした。

立花伯爵家の経営庶務を担当する家扶・家令が残した記録「立花家令扶日記」からは、新聞記事の内容に加えて、一般参拝者に茶菓が配られたこと、広徳寺住職は大和屋に宿泊、翌日に立花伯爵と晩餐を共にしたこと等もわかります。

「立花家令扶日記」では、大正14年12月19日に「大円院様御始メノ御遺骨福嚴寺ヘ御合葬」、12月26日に「御合葬御改葬ノ諸霊ノタメ福嚴寺ニ於テ御供養」と記されているので、東京からの改葬の一件は12月まで続いたようです。



他の一族たちも帰ってきました。

翌大正15年(1926)7月17日の『柳河新報』の見出しはこちら。

「祖先の御遺骨 東京谷中の寺院より福厳寺へ御改葬」

このときは「東京谷中の本誓寺及霊岸寺御墓所へ御埋葬の玉樹院様、瑞松院様、長寿院様始め十七霊の御遺骨」が「去十六日午後三時十分の矢部川駅着の列車」で帰ってきました。
ひと月のうちに各々が良清寺や瑞松院などに改葬され、供養されています。



柳川藩主立花家の遺骨が柳川の福嚴寺に集められた契機は、大正 12 年(1923)9月1日の関東大震災だと推測されます。東京市内の多くの寺院が大火災により焼失、復興にともなって境内地や墓地の区画整理がおこなわれました。

例えば広徳寺は、都市復興計画に従って郊外移転が促進され、大正14年3月下練馬村(現 東京都練馬区)に約1万坪の土地を購入、5ヶ年計画で下谷区(現 東京都台東区)から移転しています。
移転計画準備中に数度調査に出かけたという墓蹟研究家・磯ケ谷紫江は「当時の墓石は二千六十四基で、そのうち一千二百十六基が有縁であった。改葬の際には無縁の一片の骨も残らぬよう堀かへし、打ちかへして拾い出しては練馬の新墓地に埋葬したと云う。」(磯ケ谷紫江 『廣徳寺共葬墓所考』1959.11.15 紫香会)と回顧しているので、広徳寺の墓所が掘りかえされるなら、国元の柳川へ帰そうと考えられたのでしょうか。

磯ケ谷紫江 編『広徳寺共葬墓所考』,紫香会,1959.
国立国会図書館デジタルコレクション 〔 公開範囲:送信サービスで閲覧可能〕

国立国会図書館デジタルコレクション を活用すると資料へのアクセスが驚異的にスムーズです。利用者登録をすればネット上で閲覧できる範囲がとても広がります



しかし、関東大震災より以前に、東京から柳川へ帰ってきてる方もいます。

大正14年(1925)9月19日 『柳川新報』の記事には「立花宗茂公同二代忠茂公 以下遺族の遺骨二十九個 」とありますが、実は忠茂さんは同行していません。
東京小石川徳雲寺に葬られていた忠茂と正室・法雲院の遺骨は、大正13年秋頃にすでに移され、忠茂は福嚴寺に、法雲院は法雲寺(現 福岡県大牟田市倉永)に改葬されています。このときは何があったのでしょうか。


辿ってきた経緯はそれぞれですが、 立花宗茂や忠茂はじめ旧柳川藩主立花家一族たちの多くの方が、今は福嚴寺で眠られています。静穏な菩提寺が後世まで守られ続けることを願ってやみません。 🔗福嚴寺 ホームページ

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参考文献
福富以清『廣徳寺誌』1956.12.1 廣徳会

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立花も伊達も毛利も池田もハマった?黄檗文化インパクト!

2024/10/29

2024年10月18日、黄檗宗大本山黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の三棟(法堂・大雄宝殿・天王殿)が文化史的意義の深いものとして評価され、重要文化財から格上げされて『国宝』へ指定されました。

隠元さんが来日した中国明時代末期頃の様式で造られた、ほかの日本の寺院では見かけることのない建築に圧倒されてしまいます。

YouTubeチャンネル「黄檗宗大本山萬福寺」より



この黄檗宗大本山萬福寺公式サイト内「黄檗宗末寺一覧」には、全国およそ460寺の黄檗寺院が紹介されています。


こちらを参考にわたしが数えたところ、黄檗寺院の所在はだいたい、西日本7.5割:東日本2.5割となっているようです。

とくに多いのが、京都、滋賀、福岡、大阪で、大本山萬福寺 がある近畿地方に4割以上が集中していますが、旧柳川藩領を擁する福岡も負けていません。東海地方も少なくなく、関東以北の寺院数は全体1割程度です。承応3年(1654)の来日以降、隠元さんが長崎と京都を往復したり江戸に赴いたりした街道に沿って、その影響が広がっているように感じられます。


これまで黄檗宗寺院とのご縁が薄かった方もいらっしゃるでしょうが、わたし自身は学生の頃に黄檗美術を学び、これまでいくつもの黄檗寺院を拝観してきたので、黄檗文化を知ってるつもりでいました。


しかし、黄檗宗の法式による旧柳川藩主立花家のお盆をのぞき見て、衝撃をうけました。

わが家も禅宗檀家ですが、知らない形のお供えです。
よそさまの宗教的な話題にふみ込むのは躊躇しましたが、法要を終えた立花家の方々に尋ねてみました。



「あれは何ですか?」「おしゃんこんさん たい!」
「もう一度お願いします」「あれは、おしゃんこんさん たい!」
「どんな漢字?」「おしゃんこんさんは、おしゃんこんさんやろうもん!」


旧柳川藩主立花家の菩提寺である福嚴寺さんへ伺うと、荘厳さを増した同じお供えがありました。

そっとインターネットで調べました。
⇒慧日山永明寺(滋賀県米原市) HP 「黄檗事典」http://www.biwa.ne.jp/~m-sumita/oubakujisyotop.html

むかって右から青 セイ・黄 オウ・油揚げ・赤 シャク・白 ビャク・黒 コクとならぶ六味の供物は、「上供」と書いて「シャンコン」
中国語です。昔公民館で習った現代中国語の知識が役立ちそうです。


え~

経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残していると聞いてはいましたが……
黄檗寺院の建築や美術工芸品に中国っぽさを感じてはいましたが……

え~


先に渡来した仏教宗派も、そのときどきの中国文化を運んできました。瓦屋根の寺院も、当時は異様だったはずですが、時を経るなかで日本に馴染んでしまいました。400年ほどの空白期間をおいて隠元さんが持ち込んだ、当時最新の仏教と中国文化は、忠茂さんたちに新鮮な驚きを与えたのでしょう。



福嚴寺さんがコチラで、2024年10月13日に厳修された「福嚴開山鉄文禅師の開山忌」についてご報告されています。https://readyfor.jp/projects/fukugonji/announcements/346046

どことなく異国情緒を感じる写真を拝見すると、不謹慎ですがワクワクします。
黄檗宗は経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残しているので、不心得にも法要に参列できるチャンスを虎視眈々と狙っていましたが、願ってもない機会です。


忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

この度は、旧柳川藩主立花家の法要で行われていた、古より伝わる貴重な経典 「八十八 パーシーパー 佛名経」を僧侶7~8名が読経するという特別な機会となります。黄檗宗の読経は梵唄 ボンバイといわれ、中国式の発音による独特の節のあるお経です。他宗派にはあまり見られない太鼓や引磬などの鳴り物が加わることで、音楽のように美しく調和します。深遠な響きが堂内を包み込み、歴史ある空間の中で黄檗宗独特の法要に直接ご参加いただけるまたとない機会です。

お席に余裕があるため、今も参加のお申込ができます。

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黄檗宗の読経「梵唄」 は、黄檗唐音とよばれる近世中国語(明代南京官話) の発音でおこなわれています。

例えば、多くの方が一度は耳にされる普回向「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」は、「願わくは此の功徳を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と訓読されます。そのまま漢文として読むと「がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう」です。

それが黄檗宗では「えんいつこんて ぷぎじいちえ ごてんいちょんせん きゃいこんちんふたう」となります。現代中国語の標準語(普通話)「Yuàn yǐ cǐ gōngdé  pǔjí yú yīqiè wǒ děng yǔ zhòngshēng jiē gòng chéngfó dào 」の発音に近く、知ってるはずの文言が、知らない響きで聞こえてきます。

この違和感を好む人もいれば、好まない人もいるでしょう。

おそらく忠茂さんは、わたしみたいに違和感を楽しむ方だったのでしょう。
目新しさへの興味を契機に、黄檗の禅や文化に傾倒したのではないかと推測されます。


黄檗文化にハマった柳川藩11万石の2代柳川藩主・忠茂と3代藩主・鑑虎。
同じようにハマった大名たちは、ほかにもいました。

多くの僧侶を排出して「黄檗三叢林」と称されたのは、仙台藩62万石藩主・伊達家の両足山大年寺(宮城県仙台市)、 萩藩36万石藩主・毛利家の護国山東光寺(山口県萩市)、鳥取藩32万石池田家の龍峯山興禅寺(鳥取県鳥取市)です。どの寺院も当時の藩主の熱い支援を受けて建立されました。



喜多元規筆 立花忠茂像 部分
立花家史料館所蔵

また、黄檗僧の肖像画「頂相 チンソウ」にならって、自らの肖像画を描かせた大名や旗本も出てきます。
斜め向きに描かれる肖像画に慣れ親しんでいた日本では、正面向きで陰影をつけてリアルに描かれる「頂相」のインパクトは大きかったと想像されます。忠茂も「頂相」 にならった肖像画を描かせていますが、これはまた別のお話で。









福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。
立花も伊達も毛利も池田もハマった黄檗文化インパクトを、体感してみませんか。

参考文献
服部祖承「黄檗宗独特のお経」(大法輪編集部編『禅宗で読むお経入門』1983.10.26 大法輪閣)

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「雷切丸」を受け継いだ2代柳川藩主・立花忠茂③

2024/10/26

義父・宗茂から受け継いだ「雷切丸」を、柳川藩主立花家から外へ出してしまった2代柳川藩主・立花忠茂[1612~75]
実は、義祖父・道雪の法名を由来とする寺の宗派と名前も変えているのです。






天正3年(1575)立花山麓(現 福岡県新宮町)にある曹洞宗の花谷山神宮寺に、戸次道雪[1513~85]の継母・養孝院が葬られ、元中2年(1385)からの寺号が立花山養孝院と改められました。つづいて、天正13年(1585)に道雪も葬られ、法名「福厳寺殿梅岳道雪大居士」にちなんだ寺号「立花山梅岳寺」に改められます。


天正15年(1587)宗茂が柳川城主となると、梅岳寺も立花家の香華所として柳川の地へ移されますが、養孝院と道雪の墓はそのまま立花城下に残されました。

改易された宗茂が、柳川から離れていた間の梅岳寺の状況はわかっていません。


元和6年(1620)宗茂が初代柳川藩主として戻ってくると、曹洞宗梅岳寺は柳川城内の中核に復興されます。
ちなみに福嚴寺所蔵の戸次道雪肖像画の賛は梅岳寺3世・大機全雄、立花宗茂肖像画の賛は4世・賢鐵彦良によるものです。


寛文9年(1669)3代柳川藩主・鑑虎[1645~1702]により、梅岳寺は臨済宗黄檗派に転ぜられ、寺号が「梅岳山福厳寺」と改められます。
臨済宗黄檗派は、中国の僧・隠元隆琦[1592~1673]が開いた黄檗山萬福寺(現 京都府宇治市)を本山とします。明治9年(1876)に臨済宗から独立して黄檗宗となりました。
日本でいう「禅宗」は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗ですが、黄檗宗は、経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している点で、他の二宗と大きく異なります。


え!3代柳川藩主・鑑虎? 忠茂の話ではなかったの?


安心してください!

臨済宗黄檗派の梅岳山福厳寺が開かれたのは、2代柳川藩主・忠茂の意向でした。


承応3年(1654)中国・明の高僧である隠元が、招請により弟子たちと来日【忠茂43歳】
寛文元年(1661)徳川幕府のすすめを受け、隠元が中国の自坊と同じ名の「黄檗山萬福寺」を開く【忠茂50歳】
京都の萬福寺には、戒律を重んじる正統な中国臨済宗と厳格な仏教儀礼がそのまま移され、最新の中国生活文化が持ちこまれました。鎖国体制にあった当時、明僧と黄檗寺院は、日本人が接触できる数少ない異文化への窓口となったのです。


寛文5年(1665)前年隠居した忠茂【54歳】は、隠元の高弟・木庵性瑫[1611~84]と、江戸ではじめて面会します。隠元を追って来日した木庵は、この前年に法席を継ぎ、萬福寺2世住持となっていました。面会を機に忠茂は木庵と禅要の問答をくりかえし、延宝3年(1675)には木庵から嗣法するまでに至っています。同年、忠茂は自らの菩提のため、萬福寺に塔頭別峰院(開山は鉄文)を建立しました。

寛文9年(1669)3月 忠茂【58歳】と3代藩主・鑑虎【25歳】は、木庵と木庵の法弟・鉄文道智[1634~88]を江戸屋敷に招き、立花家の菩提寺である曹洞宗梅岳寺を黄檗派に転じて梅岳山福厳寺という新寺を開きたいこと、柳川藩出身の鉄文を開山に迎えたいことを願います。
当時、キリスト教禁制を目的に幕府が寺檀制度を確立させ、新寺の建立を禁止していたので、黄檗寺院の新設には転派や再興という名目が必要でした。

寛文9年(1669)8月求めに応じた鉄文は柳川に入り、福厳寺を開きました。

延宝2年(1674)10月1日 鑑虎による伽藍整備が進み、大雄宝殿、選仏場(禅堂)、禅悦堂(食堂)、方丈などの諸堂と釈迦三尊像、四天王像などの諸仏が開堂開光されました。
鉄文は藩内に次々と黄檗寺院を創建し、後継者たちも福厳寺の末寺を増やしていきます。黄檗寺院創建の波は柳川藩に限らず、日本全国に拡がっていました。



隠元の来日直後から、渡来中国僧との交流を求める大名や上流武士たちが少なくなく、彼らの援助により、およそ90年間で千寺以上の黄檗寺院が建立される勢いがありました。
しかし、後進のため檀家を得ることが難しく、中国僧の来日が途絶えた江戸時代中期には、無住に戻った寺もありました。さらに明治維新や廃仏毀釈により黄檗寺院は半減しますが、柳川藩領の黄檗寺院は明治5年(1872)時でも40ヶ寺を数え、他藩よりも格段に黄檗文化が根付いていたことがうかがえます。



黄檗文化!?

隠元さんが隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚、明朝体、原稿用紙などを持ち込み、日本の文化全般に影響を及ぼしたことは、歴史の教科書で読みました。
実際に、萬福寺や長崎興福寺などを拝観して、中国明朝様式の建造物に圧倒された思い出もあります。
ですが、長い歴史を誇るほかの禅宗をこえて当時の人々を魅了する力が、黄檗文化にあったのでしょうか?



幸いなことに、忠茂、鑑虎、木庵、鉄文がかかわって開かれた梅岳山福厳寺は、現在も立花家の菩提寺として、黄檗宗の法式による供養を続けられています。

江戸時代の大名280家余のうち、藩主が黄檗寺院に埋葬された家は20家ほどですが、一代限りの例がほとんどで、黄檗寺院を歴代の菩提寺とした家は多くありません。なかには明治時代に宗旨を神道に替えた家もあるので、菩提寺として旧大名家とのつながりを保ち続けている黄檗寺院は珍しいのです。
したがって、旧大名家の菩提寺で黄檗宗の法式による供養に参列する機会は、ものすごく希少だと言えます。

たまたま立花家の法要を覗き見する用件がなければ、わたしは今も「経の読み方や鳴り物、儀礼作法の次第などに中国的色彩を強く残している」実態を知らないままでした。
今は、黄檗文化に傾倒した忠茂さんたちの気持ちが、とてもよく理解できます。






未知の文化に出逢った衝撃! このトキメキは見らんとわからん!

忠茂さんが受けた黄檗文化インパクト、ぜひ体感してください。

2024年11月6日(水)柳川藩2代藩主・立花忠茂の350回忌が、旧柳川藩主立花家の菩提寺である梅岳山福嚴寺(福岡県柳川市)にて厳修されます。福嚴寺さんが広く門戸を開かれていますので、どなたでもお気軽にご参列いただけます。

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戦国の世が過ぎ、体制が安定する手前の、落ち着かない時代を生きた忠茂さん。
宗茂の祖業を懸命に継ぎながら、時に福嚴寺を開いたり雷切丸を譲ったりと大胆さをみせるギャップが、大変興味深いです。



参考文献
錦織亮介「第4項 黄檗文化への傾倒」86-98頁(柳川市史編集委員会『柳川文化資料集成 第三集-二 柳川の美術Ⅱ』2007.3.22 柳川市)、穴井綾香「黄檗禅への帰依」44-45頁(  柳川市史編集委員会 編 『図説立花家記』2010.3.31 柳川市)

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