熊本城おもてなし武将隊が一人、筑後国柳川城城主、立花宗茂である。
「立花宗茂生誕450年記念特別展 公式サポーター」そして昨年は「公益財団法人立花財団スペシャルサポーター」として活動し、計二年の間、我が領地柳川の為に尽力して参った。
思えば、多くの事があった。
当世に伝わる立花家所縁の品々を紹介する音声を収録したり、
福岡の地を走る鉄の箱「水都」にておもてなしを行なったり、其の儘「御花」を案内も致した。
「戦国時代立花家甲冑プログラム-414年を経て、今再び出会う宗茂と誾千代-」にて細川忠興殿、黒田官兵衛殿と共に「梅鶯東風」の披露や、
儂の一人演舞「月高忠心」の初お披露目も御花であったな。
「立花宗茂 立花家史料館21周年記念イラストコンテスト」では拙いものであるが、絵を描き披露した。
「柳川古文書館」にて儂を讃えて下さった秀吉様の書状も拝見した事もあったな。
そうそう、江戸にまで馳せ参じ、我が愛刀である「波游兼光」も見たな。儂の手にあってから四百年。あいも変わらず美しき刀身は見事の一言であった。
愛刀といえば、忘れてはならぬは「雷切丸」であるな。今も昔も変わらず、儂の力となってくれた。共に立花家の話を多くの者に伝えたのも、儂にとってはとても不思議で楽しいひと時であった。
それに其の絵姿を大久保ヤマト殿が描いて下さったのも誠に嬉しかったの。
………まあこの雷切丸が雷雲を呼び「七福神夏祭り」では突然雷が落ちて大変であったな。
あの時の祭りのすたっふの皆々の活躍は、儂にとって今でも多くに自慢したいと思う誇りである。
柳川にある「みのり幼稚園」にも幾度となく足を運んだ。発表会ではさぷらいずとして演舞を披露した時は、誠に緊張致したぞ。
あの時皆で舞った虎熊一刀は生涯忘れる事ない思い出だ。
直木賞作家である葉室麟殿の小説「無双の花」の朗読の催しは、本当に多くの方に足を運んで頂けた。
一度ならず二度も、あの美しき世界と、そして我が立花の歴史を伝えられた事、誠に嬉しく思う。
歴史とは、その者の受け取り方次第で如何様にも姿を変える。
歴史に関わらず、現実は常に己の感じ方次第。
そんな中、四百年前の人間である儂は、皆にはどう映っていたのであろうか。
……その答えは、其々が思う事であり、儂が知る必要はないと思っておる。
ただ儂は、四百年前と変わらず、立花宗茂として己の限りを尽くした。
その結果、少しでも儂の名が、そして儂を通じて柳川という場所が多くの者達に知られるきっかけとなって居れば、其れだけで充分だ。
儂は多くの方々の支えにより二年を過ごした。
常に儂の傍にて守り役を務めてくれた植野館長。
催しの度に忙しい中手助けをしてくれた立花家史料館の皆々、御花の皆々。
誠に美味な飯を振舞ってくれた岸原総料理長。
会う度に笑顔で快く迎えてくれた我が子孫、立花家十七代当主、立花宗鑑殿。
殿、と儂を慕ってくれておるみのり幼稚園の若、姫。
儂の名を伝えると「うちの殿」と笑顔で迎えてくれる柳川の民達。
「橋本あかね」姫を始め、共に戦場を駆け抜けてくれた多くの皆々。
誠に有難う御座った。
此れからは儂は居らぬ。
されど、もう一人の儂がおる。
当世の儂より「少しだけ」背が高く、堂々たる儂がおるのだ。
何も心配する事はない。
然し、立花宗茂という男は、多くの支えがあってこそ、其の力を存分に発揮する男。
皆々の変わらぬ支えが何よりも必要である。
四百年前から変わらぬ男だと、誾千代は笑うかも知れぬが、一人で何か成し遂げたとて、其処に何の意味があるのか。
多くの者と共にあり、絆を育む事こそ、大きな事を成す為に最も大切な事。
皆々、もう一人の儂の事を、宜しゅうお願い致す。
誠に良き二年間であった。
柳川の民の御多幸と、柳川のさらなる発展。
そして何より、其の温かき心がいつまでも変わらず受け継がれ続ける事を、願っておるぞ。
誠に、誠に有難う御座った。
筑後国柳川城城主 立花宗茂