2017/11/17
立花家の人々、立花万起子です。
11月18日に開催の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」のレポート記事を綴ります。
お菓子と同じく、お茶席で使うお道具を考えて組み合わせるのも悩みであり楽しみであります。
史料館は多くの茶道具を所蔵していますが、それらは古くて貴重なものなので実際にお茶席では使うことはできません。ですから今回のお茶席のために(というか口実に!)、宗茂とつながるようなデザイン・意味合いの茶道具をいくつかそろえることにしました。
宗茂とつながるようなデザイン・・・
宗茂といえば「月」!
立花宗茂の具足と軍扇には月がデザインされています。
宗茂所用の具足は「鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼかわつつみ がちりんもん もがみどうぐそく)」といいます。胴と兜の脇立てに大きな輪貫(わぬき)の意匠がほどこされています。立花家の具足帳には「月輪(がちりん)」としるされているそうです。シンプルでダイナミックな輪貫のデザイン、泰然と夜空にうかぶ満月を思わせます。
「鉄皺革包月輪文最上胴具足」@Google Arts & Culture
宗茂が使っていた軍扇には三日月がデザインされています。「三日月図軍扇(みかづきずぐんせん)」。軍扇は軍配や采配のように、大将が戦で指揮するために使うものです。そういう勇ましい場面で使うものですが、宗茂所用の扇は、骨も細く木地で、金地に銀の三日月が扇面の中央をはずしてアシンメトリーにおかれているデザイン性の高いものです。
「三日月図軍扇」@Google Arts & Culture
満月か三日月、アンテナをはって茶道具をさがしていましたら、ある景色を蒔絵でほどこしたある棗にであいました。宗茂とつながるイメージを持っていると感じました。
タグ: 立花家18代目の人々
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2017/11/17
立花家の人々、立花万起子です。
11月18日開催の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」のレポート記事を綴ります。
柳川古文書館と立花家史料館に協力をいただき、お茶席では掛軸、香合、茶杓を飾りました。この三つの道具について紹介します。
掛軸
立花宗茂書状 中紙二束 (立花家史料館所蔵・柳川古文書館寄託)
改年の祝儀として中紙二束が送られたことへの返礼
釈文
為改年之祝儀
中紙弐束到
来令祝着候
猶立花木工助可
申候 謹厳
正月十一日 宗茂(花押)
読み下し文
改年の祝儀として、中紙二束到来。祝着せしめ候。なお立花木工助申すべく候。謹言
正月十一日 宗茂
宛所はないので誰に送ったものかは不明。宛所は通常左端に書かれますが、折り目とシミの形状からこの書状は端が裁断されたのではないかと考えらます。
中紙とは上質ではない中程度の紙。中紙、祝着という言葉遣いから目下のものへ送った書状と思われます。
宗茂と名乗っていることから1620年以降、柳川に復帰してから書かれた書状のようです。
花押は宗茂の筆ですが、その他は祐筆(ゆうひつ 文書・記録の執筆・作成にあたる職)によるものです。
柳川古文書館
立花宗茂450ブログ 大慈院イベント準備④の記事で古文書について書いています。
香合
貝香合 (立花家史料館所蔵)
江戸時代初期
9.2cm×5.9cm×2.0cm(厚さ)
寛永15年(1638年)または翌16年の家光の下屋敷御成りの際、拝領した香合。
蓋表
底面 中央には雲形の高台
特徴
貝製、蓋表と底面に彫刻。蓋表の窓の中に霊芝、鳳凰、菊流水紋等が浮き彫りにされ、まわりは細かい青海波の地紋。底面には蓋表と同様の文様が施され、中央に雲形の高台。
お茶席では飾っていませんが、外の包みには以下が墨で書かれています。
「貝 / 御香合 / 大猷院様御残し□品 / □□上□□書付在□中」
「大猷院様」:徳川家光(三代将軍)
「御」香合とありますが、御の字がつく場合それは大名が直接使うものをさします。しかし、これは香合として使われたことはおそらくないのではと思われます。細かく彫られた鳳凰の羽や波模様が貝表面に優美な陰影をつくります。400年前のものですが、いまでも美しい輝きをはなっています。
茶杓
一尾伊織作 江戸時代初期 (立花家史料館所蔵)
17.9cm×0.9cm 節下長9.7cm
茶杓と筒 下方に「一庵」と号が書いてある
特徴
竹に透漆を掃く。中節、双樋(節から櫂先にかけて樋が二本通っている)、丸撓(まるく曲がる)、櫂先は丸く蟻腰浅い。節上は鼈甲色、節下は煤竹色。切止めは垂直な一刀下しに面取りを加える。筒は真の筒で面取、墨書銘あり。
作者 一尾伊織 (号 一庵)
作者の一尾伊織は江戸時代初期の旗本で茶人。細川三斎(忠興)の家臣津川四郎左衛門に茶道を学び、三斎流一尾派を創始しました。詳細はGoogle Arts and Cultureの立花家史料館所蔵コレクションのサイトもご覧ください。
「茶杓 一尾伊織作」@Google Arts & Culture
とても繊細なつくりで、自分が普段使う茶杓と比べると華奢です。江戸時代につくられた茶杓はこのように細いものが多かったそうです。節の上下で色つやが異なるところ、櫂先へむけてあらわれる二本の樋が美しいと思いました。
香合や茶杓は実際にお茶席で使うことはできませんでしたが、普段はガラス越しでしか見ることができない収蔵品をイベント参加者の方々には直に見ていただき、宗茂が生きていた400年前の雰囲気を少しでも感じていただけたらと思いました。
タグ: 立花宗茂, 立花家18代目の人々
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2017/11/17
立花家の人々、立花万起子です。
11月18日に開催の「立花宗茂ゆかりの京都大慈院で歴史講話とお茶会」のレポート記事を綴ります。
お茶会のお菓子選びは楽しみでもあり悩みでもあります。今回のお菓子選びについては大慈院の実山閑征の奥さまから、
「一つは九州、もう一つは京都のお菓子、そういう組み合わせにしたらいかがでしょう」
とアドバイスをいただきました。そして名に惹かれて、九州からのお菓子は大宰府梅園菓子処の「宝満山御干菓子」を選びました。表面はさくっと、中はふんわり、卵のコクのある甘さの中で大徳寺納豆がアクセントになっているお菓子です。
<宝満山と宗茂>
お菓子の名前にある「宝満山」は現在の福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山で、立花宗茂とゆかりがあります。
16世紀半ばに宝満山に築かれた宝満山城、1570年に立花宗茂の実父である高橋紹運が城督となりました。おそらく宗茂も幼いころ、父の城がある宝満山を駆け巡ったことと思います。その後宝満山城は宗茂の弟に譲られ、父は岩屋城城主となります。
1586年、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城を攻め両城は陥落します。残念ながら宗茂の父、高橋紹運は岩間城陥落の際亡くなります。宗茂、さぞ無念だったでしょう。しかし島津軍が退くタイミングを察知した宗茂は500の手勢だけで岩間・宝満二城を奪還するのです。
私自身は小説などで読むばかりで、実際に宝満山を訪れたことはありません。イベントのために菓子処梅園さんと注文のやりとりをしていましたら、取締役の方からメールをいただきました。この方のご先祖は宗茂と同じく大友勢に仕えた一族であり、大好きな武将が立花宗茂、立花道雪(宗茂養父)と高橋紹運(宗茂実父)とのこと、大慈院のイベントに宝満山御干菓子を使うことをとても喜んでくださいました。そして晴れた空に堂々と映える宝満山の写真を送ってくださいました。
次に福岡を訪れるときはちゃんと宝満山を見てこようと思いました。
大宰府梅園菓子処 http://www.dazaifu-baien.jp/index.html
タグ: 立花家18代目の人々
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