館長~「いい夫婦の日」に戦国最強の夫婦
2016/11/22館長の植野です。
今日11月22日はいい夫婦の日。
そして、昨年は某アンケートで忠興・ガラシャ夫婦に完敗をしたことを結構根に持つ私は、宗茂・誾千代についてちょっと振り返ってみることにしました。
やっぱり知名度ですよね。いまだに「誰?」って言われること甚だ多いのが心外ですが、こちらの努力がまだまだ足りないのだと思い返し、今期はペア押し、大プッシュで行きたい!と決意を新たにしました。
立花宗茂と誾千代、この二人の生い立ちをここで詳しく説明はいたしませんが、
ネット上でも、いろんな雑誌でも「二人は不仲」説が大変に多いのです。
なわけで、誾千代は柳川城ではなくて宮永村に屋敷を建ててずーーと離れたところで別居していた、という話になっております。(実際は宮永の館は柳川城のすぐ近くだし、水路で繋がっていたと思えるし、海のそばだった)
こともあろうに、不仲だから子供がいなかったとか言われる始末。今時こんな危険な意見はあっちへ置いといて、この不仲説は真実か?
平成25年2月2日(土)~4月14日(日)特別展「誾千代姫伝説と立花家記」でご紹介しましたが、
宗茂の正室誾千代は、確実な史実を伝える資料に乏しく、謎の多い生涯と言わざるをえません。この展覧会は、誾千代姫伝説の謎を、誾千代が生きた時代と取り巻く人々のわずかな手掛かりを通して考え、1次資料からどこまでが確実に言えるのかを検証してみました。
結論から言うと、夫婦仲のことなどわからないのです。
不仲を示すような確実な史料などどこにもありませんでした。だからと言ってラブラブという史料もないわけですが。
二人が不仲という文言が出てくる後世の聞書き等の文書はいくつかあります。何がその典拠なのか、曖昧ではありますが、『浅川聞書』(宗茂家臣、浅川安和が自らの見聞をまとめたもの)がその出現の最初の頃ではないかと思われます。後の史料はそれをもとにして作っていると考えられます。(長くなるので『浅川聞書』についての話は別の機会にやらせていただきますね)
研究者から一定の評価をもって引用されている『豊前覚書』(宗茂家臣、城戸清種が、誾千代の守役を務めた父、城戸知正の武勇談や自らの見聞等を記したもの)には、そのような記述は全くありません。
なぜ、別居とか不仲とか言われるようになっていったのか、
中野等氏は、―宗茂と誾千代との「別居」は単に個人間の問題ではなく、背景に誾千代をいただく勢力と宗茂を中心とした勢力との隠然たる対立を想定することも可能かもしれません。(『新柳川明証図会』より)―と述べています。
そうだとすると、少々泣けますね。
共にあの厳しい時代を必死に生き抜いて立花家を守ってきた二人。
生きて柳川に帰る事叶わなかった誾千代のために良清寺を建立し、「茶湯等の儀、懈怠あるべからざる者也」と寄進状にしたためた。
やはりいい夫婦の日にもう一度紹介したいと思いました。
葉室麟 小説『無双の花』朗読イベントでは、沢山の観客が二人の別れのシーンに涙してくれました。
第2部の葉室さんのトークショーでは、「宗茂の小説を書いているうちに誾千代さんが好きになってきて、誾千代へのラブレターのつもりで書いていました。」というコメントがあり、だからこその説得力なのですね。
研究者や学芸員では埋められない史実の空白部分を小説家は一枚の美しい布に織り上げてくれました。そこに立ち現れた宗茂と誾千代は、こうありたいという夫婦の結晶のような二人でした。
小説と史実、その絡み合いの中に新たな戦国最強の夫婦のイメージを膨らませていただければとの思いで取り組んだ朗読の舞台でしたが、舞台の上の宗茂さんと誾千代さんは、まさに416年前に別れた頃の二人を彷彿とさせてくれたと思います。